温かいのは湯船
あさ子と結は花見もそこそこお開きにして、門の前で「また明日」と手を振りあった。家に帰るためにオレンジ色の世界へ足を踏み出した。
家路に着けばぱたぱたと軽い音を立てながら一人の女性が奥から現れた。
「おかえりなさい。あさちゃん」
「はい、ただいま帰りました。幸子さん」
あさ子の言葉に穏やかな笑みを浮かべる幸子から、食欲をくすぐるに匂いがした。あさ子のお腹は当然のように刺激され「ぐううううぅ」と鳴き声を上げる。
「ふふ。あさちゃん早く上がって、着替えておいで」
「……はい」
口元を手で隠して笑う幸子に、あさ子は視線を下にやり小さな声で言葉を返した。無意識に握りこんだ掌は汗でぐっしょりしていた。
あさ子は一軒家の2階奥の部屋を与えられている。ドアには「あさちゃん」と書かれたプレートが紐で吊るされていた。あさ子は迷わず扉を開いた。
部屋は勉強机、本棚、クローゼット、ベッドしか家具は置いていない。今どきの女の子と比べるとだいぶ質素である。あさ子の性格が透けて見える部屋だ。
あさ子は着替えて幸子が待っているリビングへ向かった。下に戻れば幸子とスーツ姿の男がいた。
「あ、茂さん。おかえりなさい」
あさ子が声をかければ、茂はあさ子に振り返り幸子に似た顔で笑った。
「ただいま。あさ子も、おかえりなさい」
「た、ただいま。茂さん」
二人のやり取りを見ていた幸子は楽しそうに笑い、手を叩く。
「さぁ! ご飯にしましょうか」
幸子の言葉に二つ返事で返し三人は食卓へついた。今日のできごとを三者三様順番に話し、賑やかないつもどおりの食事であった。
佐藤あさ子は、佐藤茂と佐藤幸子の子どもではない。血のつながりは一切なく、他人であった。あさ子は二人間に生まれた子どもではないことを知っている。それは幼い頃から少しずつ教えられたからだ。
ショックじゃないと言えば噓になる。だけど本当の子どものように愛情を与えられたからこそ受け入れることができた。なにより、あさ子が聞こえている誰かの声が二人には聞こえていないという点も受け入れることができた要因でもある。
それでは本当の両親は誰なのか? と疑問が浮かぶが茂も幸子も残念ながら知らないという。
あさ子が二人と出会ったのは寒い寒い鼻がツンと痛くなる冬の日であった。夜が明けるその時、玄関から自分の存在を誰かに知ってほしいように泣き叫ぶ声が響いた。その迷子の泣き声で目覚めた幸子が慌てて外に出れば、玄関の前にはベビーバスケットに入った可愛い赤ん坊が降り注ぐ朝日に包まれながら泣いていた。この泣いている赤ん坊があさ子である。
茂も、幸子も最初のうちはあさ子の親を探した。しかし見つけることは叶わず、ベビーバスケットの中には哺乳瓶しか入っていない。なにか伝言も、名前も何一つなかったのだ。
二人は赤ん坊を育てることを決意した。「佐藤」という名字を分け与え、初めて出会った朝のできごとから「あさ子」という名を贈った。
ちゃぽん……という音を響かせ、温かな液体に包まれたあさ子は意味もなく息を漏らす。
「ふぅーー……」
今日の疲れがゆっくりと、でも確実に滲み出ていくのを感じていた。そして明日から始まる学校生活への不安で溜息を吐き出す。
「いやだなぁ」
思わずこぼれた言葉は、小さな呟きだったはずなのに反響して大きな言葉となってあさ子の心に突き刺さる。
——守久と離れたし………。
なにを隠そう、結を冷たくあしらっていたくせにクラスが離れたことに、寂しさや不安で押しつぶされそうなのはあさ子の方なのだ。その事実から目を逸らすように体育座りをし、膝に顔をうずめた。
——後ろの席は人気者だし……
あさ子はひっそり、こっそり生きていたいのだ。学校で目立つことはせずに、寂しくはあるが誰の目に留まることなく日々を過ごしたい。しかし後ろの席の人気者に「これから、よろしく頼むよ」と告げられたあさ子は、大真面目にどう接していいのかわからず困っていた。
「もう、わからないよー……」
考えすぎなのは自覚しているが、考えずにはいられないのだから仕方がない。それは今も聞こえる誰かの声と一緒である。
「あなたと意思疎通ができれば、相談できたのかな……?」
うるさく、雑音と位置付けたはずの声に耳を傾けるが言葉が変わることはない。今も誰かは助けを求めて必至で叫んでいる。
【助けて! 助けて!】
「あなたは誰ですか?」
【嫌よ! 嫌なの!】
「何が嫌なのですか?」
【死んでしまう!】
「どうしたら、死なないのですか?」
【そんなの! そんなの嫌よ!】
「……どうしたらいいの?」
【あぁ! あぁ! お願い! 思い出して!】
やはり交わることがない言葉にあさ子は溜息を一つ溢して、温かな液体から出ることにした。
あさ子は髪の毛をしっかりと乾かした後、茂と幸子に「おやすみなさい」と一日の終わりの挨拶を交わし自室のベッドに潜り込んだ。
——明日のことは、明日の私にまかせて眠ろう。
完全な現実逃避ではあるが、冷たい布団とマットに挟まれながら瞼を閉じた。