ひらりひらり舞い上がるは愚か者-1
世界が薄桃色に染まる。
ひらりひらりと舞い上がる薄桃色は美しく、儚い。多くの人間はその足を止め薄桃色に囚われる。しかし舞い落ちた茶色は誰の目にも留まらない。醜い、現実は足元に広がるばかり。
誰も薄桃色に魅入るなか、学校指定の制服を着た少女は膝上3センチのプリーツスカートの裾を揺らしながら足早に進んでいく。
今どき珍しいおさげ髪、目にかかりそうな前髪、そして丸い眼鏡をかけている。いかにも文学少女のような出で立ちの少女——佐藤あさ子。
薄桃色も、茶色も彼女の足を止めることはできなかった。
——うるさい。
【お願い! 思い出して!】
——うるさい!
【嫌! 嫌よ!】
——うるさい!
【このままだと死んでしまう!】
——うるさい!!
【そんなの絶対に嫌よ!】
——うるさい!!!
彼女がこの世界で産声を上げた瞬間から、彼女は誰かの助けを求める声を聞いていた。幼い頃は「あなたは誰なの?」「なにを思い出したらいいの?」「どうしたら助けられる?」と聞いていたが、こちらの声は数年経ってあちらには聞こえないことがわかった。それからは、この助けを求める声はあさ子の中で耳障りな雑音へと成り下がる。
17回目のこの季節でもあさ子は、薄桃色、立ち止まる人間、茶色、誰かの声から、それとも他のなにかから逃げるように駆け出した。
走ったおかげか学校に早く着いたあさ子は、クラス表の前に行き自身の名前をゆっくり探す。他の生徒がいないので押されることも、騒ぐ声に眉を寄せることもなく落ち着いて探すことができた。あさ子は自身の名前を見つければ、友人の名前を探すことも、待つこともせずに今年から自分の教室になる場所へ足を動かした。
2-Aと書かれた教室札を確認し、教室のドアをくぐる。横に5列、縦に7つ並んだ机は、このクラスが35人いると教えてくれた。黒板には一枚の紙がマグネットで止められている。そこには「席順に座れ」と端的に指示が書かれており、その下には席が描かれ出席番号と名前が書かれている。あさ子の席は窓際から2列目、前から5番目のようだ。鞄を持ち直し、自分のものになった机の横に鞄をかけて、椅子に座った。
あさ子は誰もいない教室で深く息を吸って、静かに吐き出した。鞄から小説を取り出して、今も聞こえる誰かの声から逃げるように、物語の中へ飛び込んだ。
少しだけ騒がしくなった教室に物語から顔を上げれば、クラスメイトのほとんどはいるようだ。各々が新しい1年間の高校生活への楽しみを、希望を慣れたように口にしながら周囲のクラスメイトに声を掛け合い、交流を深めている。あさ子は小説を鞄に戻し、ぼんやり止まることのない秒針へ目を向けた。
——窓際なら外が見れたのにな。
ため息一つ溢そうとすれば、後ろの扉がガラッ!と大きな音を立てて開いた。全員その音に驚き会話を止め、一斉に顔を向ける。誰かの息を飲んだ音がやけに響いた。
そこに立っていたのは男子生徒であった。夜を閉じ込めたような黒い髪。肩ぐらいまである髪はさらりと揺れる。そして顔はビスクドールのように背筋がぞっとするほど美しく、手が震えるほど恐ろしい。
水を打ったように静かな教室で彼は口を開いた。
「やぁ! みんな元気にしていたかい?」
軽い声だ。その軽い声が止まっていた教室の時間を動かした。彼の登場により少し騒がしかった教室は、完全に騒がしいものに変わりみんな彼の周りに集まっていく。
男子生徒——佐藤良夜はどこの部活にも所属していない。お上品な顔とは裏腹にノリがいい彼は男女ともに人気を博し、ファンクラブがあるとかないとか。そんな彼が一躍有名になったのは、昨年演劇部の友人にどうしてもと頼み込まれて出演した舞台である。顔の良さもさることながら、演じる彼を観た者は物語へ引きずり込まれ、その甘く痺れるような少しだけ低い声に身体が動かなくなってしまう。こうして彼の存在は学校全体に知れ渡ることになる。——余談だがこの公演は演劇部で伝説として語り継がれる予定らしい——数多の女性の心を掴んで離さない彼は、新入生の心も自分の意思とは関係なくノックアウトさせることだろう。と友達が少ないあさ子がなにもしなくても一方的に知れるぐらい情報が耳に届く彼は学校一の有名人と言えるだろう。
席はどうやらあさ子の後ろらしく、彼の机を囲うように人が集まる。あさ子が座っている椅子と良夜の机の間に入る者もおり、あさ子は不愉快さを隠すことなく眉を寄せつつも椅子を前へとひいた。
それから間もなくして前の扉から教師が入ってきたことにより、みんなは蜘蛛の子を散らすように自分の席に戻っていく。
「はーい静かにしろ~。これから体育館に移動するから廊下に並べ」
教師の言葉に従うように生徒は廊下へぞろぞろと出ていく。あさ子はある程度の人間が出てから席を立った。