Hard Luck ORIHIME
カキーーーン
金属バットの心地よい音が球場に響き渡り、一塁側観客席に歓声がどっと湧いた。
白球が真っ青な空を切り裂くように弧を描きながら外野スタンドにポトンと落ちた。
サヨナラホームラン。
それは、僕の母校、創設以来始めての甲子園出場決定の瞬間だった。グランドで抱き合う選手たちの姿を遠くに眺める。
半年前には仲間と呼んでいた彼ら。あの中に自分は居ない。観客席にすら居ない。素直に祝福すらできない。
僕と彼らは永遠に交わることのない水と油。
心の隔たりは今のリアルな距離と同じ、いや、もっと離れているのだろう。
僕は負け犬のようにうなだれ、アルプススタンドを一人後にする。まだ完治していない左膝が踏みしめる度に微かに痛んだ。医者からはこの痛みは軽くはなっても完全に消えることはないだろうと言われた。
歩く度にこの膝は痛み、その度に僕はこの瞬間を思い出すのだろうか。
これが僕の壊れた夢の全てということか。
なんとも形容できない黒い渦が身体中でうごめくような気持ちだった。
「ん?」
僕は歩みを止めた。
目の前に見知らぬ女性が立っていた。制服は僕の高校のものだ。ならば、彼女も応援の一人なのだろうか。しかし、なにゆえ、こんな人気も疎らなアルプススタンドにいるのだろう。日差しを防ぐためにかぶった大きな麦わら帽子に隠れて顔は分からなかった。
「夏空と球場で湧く人々と
一人佇む 傷つきし君」
彼女は呟いた。
「はっ?」
なんだろう。意味の分からないことを口走って、もしかしたら、危ない人なのだろうか?
僕は一歩距離を置き、目を合わせないようにして離れることにした。
「泣き濡れて 底が抜けたる青空に
泣き濡れて 彼方に夢は消え果てて
ちぎれてもがく身をもてあまし また泣き濡れる」
目の前を通りすぎようとした時、彼女はまた囁いた。
僕はムッとして彼女をみた。
なんだか良く分からないが、その言動はささくれだった僕の神経を逆撫でにするのには充分だった。
「僕を揶揄してるんですか?
そもそも、あなた誰です?」
「今のちょっと石川啄木ぽくなかったかい?」
「ふざけてるんですか?」
「いやいや、私はいつでも大真面目だよ。ふざけているとき以外は、ね。
私の名前は百敷美佐緒。
なあ、君、行き先を見失っているなら文芸部に入らないかい?
文学は良いよ。人生の羅針盤だ。
さあ、ぜひ入りたまえ。文芸部はいつでも歓迎するよ」
その時、突風が彼女の麦わら帽子を巻き上げ、空の彼方へとさらっていった。
初めて見る彼女の顔は、笑っているような、泣いているような、まるで感情のない人形の顔のようでもあった。掴み所がない不思議な表情だった。ただ、つけ加えるなら、ものすごい美人だった。少なくとも僕にはどストライクだった。
高校一年の時、僕の夢が破れた夏。
百敷部長という不思議な女性と初めて出会った夏の話。
それから一年の時が流れ、また夏が巡ってくる。
僕が二年。
部長は三年。
彼女にとっては高校生最後の夏のお話だ。
「うおぉ~、やっぱし、ここも開きませんよぉ!」
僕はドアノブを思い切り押したり引っ張ったりしたが、金属製の扉はびくともしなかった。
「まあ、まあ、戸隠君。そんなに青筋立てて気張っても暑苦しいだけだから止めなさい」
「えーー、なんで部長はそんなに落ち着いているんですか?
僕たち閉じ込められてしまったんですよ!
はっ、そうだ携帯……ぐはぁ、圏外だ」
「我々の故郷たるこの町の田舎度を舐めたらいかんよ。
そもそも学校の敷地内はほぼほぼ圏外なのは我らの一般常識だろう」
「だから、なんでそう他人事なんですか!」
振り向くと百敷部長がスカートを摘まんでワサワサと揺らしていた。
……ナニヤッテンダ コノヒト
白いふくらはぎがちらりちらりと艶かしく……いや、いや、いや、ちがう、これでは黒髪の清楚な美人が台無しだ!
僕は首をふって気を取り直す。
「な、な、なにをしてるんですか!」
あまり取り直せてなかった。声が一オクターブ高くなる。
「スカートの中に風をいれて涼んでいる」
「涼んでいるって……」
「知らないのか?
夏の女子の楽しみの一つだぞ。風物詩と言っても良い。
扇風機の前でやると更に良いのだがな」
「だがな、じゃありません。そんなの知りませんよ」
「なんと、知らないのか!
戸隠君、君は男の子だろう。
『扇風機ぶわさ』と言われるサブカルの定番萌えシチュだぞ。
生『扇風機ぶわさ』は男の夢だというのに。
それをシチュそのものを知らないとは、文芸部員として不勉強のそりしをまぬがれない!!」
「意味が分かりません。まあ、僕が文芸部員として不勉強なのは認めますけどね。今はそんな状況じゃないでしょ。
部長は分かってるんですか、今の状況を!」
僕の言葉に部長は顎に指を当てるとう~んと一言うなると、淡々と喋り始めた。まるで昔話を語るかのように。
「文芸部が秋の文化祭に向け体育館で朗読会の準備をしていた」
「そうです」
「夜の買い出しに私と戸隠君が出かけて、帰ってきたら誰もいなくなっていた」
「うん、そのとおり」
「面妖なことに体育館の全ての出入り口に鍵がかかっていて外に出れなくなってしまった」
「はい」
「広い体育館に我々二人だけ。今は夜の9時を大きく回っている」
「そうです。良く分かっているじゃないですか。ねっ、大変でしょ。僕たち二人きりで閉じ込められてしまったんですよ!
なんでそんなに落ち着いているんですか」
「逆にこのシチュでなにをそんなに焦っているのか。私にはそちらの方が附に落ちん。
幸い我々は買い出しの帰りで、飲み物、食べ物には不自由せん」
足元のレジ袋を手に取ると、ほら、このとおり、と部長はこれ見よがしにぶらぶらと揺らした。
「これが正体不明のウィルスで人々がゾンビ化とかしていて籠城しているのならともかく、衣食住が確保されたサバイバルなんて押井守監督の世界感。憧れ以外ないでしょ?」
「同意を求められても……例えが細かすぎて良く分かりません」
部長は少し口を尖らせて、そうかぁ、わからないかぁ、とがっくりと肩を落としてくるりと背中を見せた。肩がふるふると小さく震えている。
まずい。ちょっとつっけんどん過ぎたかなと反省する。
「あ、あの部長、大丈夫ですか」
僕の声に部長は振りかえった。目に一杯涙を貯めている。
ええ、そんな、まさか泣くほどなの
「あっ!いえ、そんな。別にそんなに怒っている訳ではなくて……」
「辛い……」
「はっ?」
「辛い。
これ、ものすごく辛いぞ戸隠君」
部長は持っていたお菓子の袋に片手を突っ込み鷲掴みにした大量なポテトチップを口に放り込むとバリバリと貪る。
「あっ、それ『黒胡椒ざく切りポテトチップ』じゃないですか!
僕が食べようと買ったやつですよ。
なんで部長が食べてるんですか?!
部長、辛いの苦手でしょ」
「嫌がらせ?」
「なんで疑問文なんですか。ってか嫌がらせってどういう意味ですか」
「うわははぁ、つっけんどんな態度を取った罰なのだ。
楽しみにしていた好物を目の前で食べられて悔しいだろう。うむ、悲しいであろう。存分に泣きわめけ」
両手を腰に当て、からからと高笑いする。
そして、ポテチの袋を杯のように口に当て、残りを一気に頬張り、ば~りば~り、ぼ~りぼ~り残らず食べてしまった。
「うわはっはぁ、悲しいか?
悔しいだろう。うわっはっは……辛っ!?
ちょっ?! これものすごっくか、辛い……
……………うぇーん、辛いよぉ」
「ええー? 勝ち誇るか、泣くか、どっちかにしてくださいよ。
部長は激甘カレーに卵乗せないと食べれない人なんだから、そんな自爆テロみたいな嫌がらせ止めてください。
ああ、ほら、お水、お水」
ミネラルウォーターのキャップを外して渡すと、部長はぐびぐびと一気に水を喉に流し込んだ。
「ぷはぁ~」
気持ち良さげに息を吐く。まるで酔っぱらいの親父である。部長いわく『高野聖』とかいっているけれどあいにく意味が分からない。
立って黙っていればまさに芍薬の花もかくやという美人。その実は『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は柿の種』な残念美人。それが我が文芸部の部長、百敷美佐緒先輩だ。そして、多分一番残念なのは、そんな女性に一目惚れしてしまった自分、戸隠偲だろう。
ああ、そうとも惚れている
あえていうなら首ったけ
そのせいでどれ程振り回されて来たことか
それでもやっぱり嫌いにはなれなかった。
「さて、戸隠君。冗談はこのくらいにして続きをしよう」
部長はスチール製の椅子に座ると顎をしゃくった。僕に演台に立てと言う意味だ。
「えっ、いや、僕は良いです」
「良くあるものか。そのために我々は夏休みを返上して集まったのではないか。さらに私は体育館使用許可などと言う超面倒くさい手続きもしているのだ。さあ、四の五言ってないできりきり自作を朗読せい!」
文芸部の年間行事の内で最大のイベント文化祭での自作作品の朗読会。部長が言うようにそもそも、僕らが夏休みの学校の体育館にいるのはその練習のためなのだ。だから、部長がそう言うのもある意味分かるのだ。だけど……
「でも今はそんなことをしている場合では……」
「まさか戸隠君!」
反論しようとした僕の言葉を部長の鋭い声が遮った。大きな瞳をきゅうっと細め、美しい弧を描く片側の眉を器用につり上げ、僕をねめつけた。
「いや、まさか、君はまだ朗読すべき自作の用意できていない、なんてことを言うんじゃないだろうね?」
図星だ。一行どころか一文字もできていない。
「いや、いや、まさか、まさか……
大失態である。文芸部員失格だ。今すぐ、出ていくが良い」
「いえ、だから、出ていきたくとも出ていけないのですが」
「が、私も鬼ではない。今から即興で作って朗読すれば許してやらんこともない」
いや、この人、全然人の話を聞いてないな
百敷部長は両手を頭の後ろで組むと椅子の背もたれに体を預ける。ギシリとパイプ椅子が軋んだ。夏服の胸部がぐっと盛り上がる。
僕は、この人が隠れ巨乳だと知っている
なぜって出会ってからずっとこの人を見ていたからだ
「ぐずぐずするな。
今から10数える内に開始するのだ。
大丈夫、最初の一歩は勇気がいるが踏み出せば後はなんとかなる。助けがいるなら手を貸す。
さあ!
10 …… 9 …… 8」
部長は数を数え始めた。数えながら足を組む。パラリとスカートが捲れ、白い張りのある太股が露になった。
「も、もも……ももももも」
思わず意味不明の言葉が口から漏れた。
「も、もも……ももももも?」
部長もわけもわからず復唱を始める。僕は慌てて止める。だって、『も、もも……ももももも』が実は『股、百敷部長の太股が……』と言いたかったとばれてはまずいからだ!(断言)
「あっ、いや、違いますから」
「むむむ、なにが違う?
ピンクなあれだろ?」
「えっ、ピンク? いや、ピンクというより
むしろきめの細かな白というかなんというか」
なにを口走っているんだ、自分!
「白? 白桃か」
えっ、桃……?!
頭の中に桃の絵面が浮かぶ。それが部長のたおやかなお尻の画像に重なる。
あかん、鼻血でそう
反射的に鼻を手で押さえ、出ていないことを確認する。
ああ、もうどうにでもなれ!
「えっと、股、いや、いや、桃が、大きな桃が川をどんぶらこ、どんぶらこと流れていきます」
僕は半分やけになり即席の物語を語り始めた。
「どんぶらこ どんぶらこ どんぶらこったら どんぶらこ……」
ダ、ダメだ、全然、なにも思いつかない。
一瞬、身を乗り出して耳を傾けてくれた部長の眉が八の字になる。
「どうした、そんなにどんぶらこと流れると、川で洗濯しているおばあさんのところはとうに通りすぎてしまうぞ」
「そ、そうですね。
おばあさんのところは通りすぎてしまいました。そして、さらにどんぶらこと流れていきます」
「ふむ。難儀な桃だな。そのままだと海に出てしまって、魚の餌に成り果てるぞ」
「そ、そうですね、それでどうでしょうか」
「馬鹿もん!」
部長は大声を上げて立ち上がった。パイプ椅子がガタピシャと派手な音を立てて倒れた。
「ひっ!」
突然の雷に僕は情けない悲鳴を上げた。
「『チェーホフの銃』だよ。戸隠君!
君は『チェーホフの銃』を知らんのかね?!」
「はぁ、すみません、あいにく知り合いにいなくて……」
「物語のルールだよ。
『物語に銃が出てきたらその銃は必ず撃たれなくてはならない(意訳)』
それがすなわち『チェーホフの銃』だ」
「えー、だって、そんなの危ないじゃないですか。暴発しないようにしっかり管理しなくちゃ」
「戸隠君、君はおバカなのか?
『チェーホフの銃』とは『物語に意味もないものを登場させるな』と言う意味だ。
銃を登場させた以上、それは物語に何らかの関わりを持たせろ、と言うことだよ。
だから、桃を登場させた以上、その桃は何らかの役割を演じねばならない。
それが物語の必然であり、物書きの使命だ。
断じて魚の餌にしてしまって良いものではない。
さしずめ、『物語に登場した桃は割られなくてはならない』、だ!」
「そ、そんなものですか?」
「うむ、そんなものだ」
「でも、もう海に出ちゃいました」
「そこをなんとかするのが腕の見せ所だ」
「う~ん、じゃあ鬼ヶ島に漂着させます。
浜に打ち上げられた桃を鬼の女の子が見つけます。名前は……」
「ラムとかは止めておくように。版権とかめんどくさい」
「……じゃあ、赤子で、赤鬼の女の子、赤子」
「それもグレーだ。だが、まあ、続けよう」
「えっと、、桃から男の子が現れて、名前が……えっと、どうしましょう」
「そこは桃太郎だろう」
「ええっ?! ここは桃太郎で良いんですか? 版権とか大丈夫ですか」
「無問題だ。
桃太郎でひっかかりそうなのは、プロレスマンガか双六ゲームぐらいだ、気にするな。
むしろ桃からプルーン太郎とか出てきたら読者か混乱する」
「誰です。プルーン太郎って」
「『本○鹿子の本棚』に出てくるキャラクター」
「いや、わからんすっ!」
「とりあえず先を続けよう」
と、部長に言われたが困った。
「桃太郎は鬼たちに育てられて幸せに暮らしました。で、ダメですか?」
僕の問いかけに部長は驚いたように目を丸くした。少し思い悩むように黙り混んだ。即断即決、毒舌無類の部長にしては珍しかった。
「朗読会向けには少し短い」
大分してから、ポツリとそう言った。
◇◇◇
僕は舞台に両手をついて身動きとれないでいた。
あの後、なんとか桃太郎の話を完結させたけど……
疲れた。どっと疲れた。
喉がカラカラでペットボトルの水でも飲もうと思った。
「あれ? 部長……」
部長が居ないのに気がついた。さっきまでパイプ椅子に座っていた筈なのに。
トイレだろうか?
水を喉に流し込みながら体育館奥のトイレを見た。明かりがついていなかった。
「部長、大丈夫ですか」
心配になってドアの手前から呼んでみたが返事がない。ますます心配になった。
「部長、居ますか?」
ドアを開き、恐る恐る覗いてみたが、やはり部長の姿はなかった。
どこへ行ってしまったのだろう、と僕は困惑した。いや、どこに行くもなにも僕たちは体育館に閉じ込められて今に至っているのだ。どこに行くこともできるはずがない。
と、トイレの隣にある倉庫の扉が少し開いているのに気がついた。
「部長……」
倉庫の中には跳び箱やら丸められたマット等が乱雑におかれていた。僕は倉庫の中に入り、物陰をいちいち探して回ったが、やはり見つけるは出来なかった。
途方に暮れていると、頬に微かな風を感じた。明らかに扉の方から流れてくる風ではなかった。風の方向を見ると垂直に天井まで伸びている梯子が目に留まった。天井の突き当たりには屋上へと出入り口となる天窓があるのだが、果たしてその天窓が開いていた。
屋上なのか?
僕は部長を求めて梯子を上った。
屋上に立ち、ぐるりと見渡す。空には満天の星が瞬いていた。ひんやりとした夜風が汗ばんだ体に心地よかった。
「部長!」
屋上のほぼ真ん中に倒れている人を見つけて、僕は大声を上げて駆け寄った。
「どうしたんですか、部長?
気分でも悪いんですか? 熱中症とかですか?!」
「いやいや、なんともないよ。
ただ、星を見ていた」
部長は視線を一瞬だけ僕に向けたがすぐに戻した。
「星……ですか?」
つられて空を見上げた。
「ほら、あの天頂に輝く星が見えるかな」
見えた。白く輝く星が見える。
「こと座のアルファ星 ベガ。
またの名を織姫星。
天の川を隔てて見えるのがわし座のアルタイル」
部長は空を指差す。
「あれが彦星だ。
さて、天の川をたどって行くともう一つ、目立った星がある。あれがはくちょう座のデネブ。
この3つを夏の大三角形という。
我が故郷は見るべきものはなにもない田舎だが、星が綺麗なのは良いなぁ」
正直、星が綺麗なのがどれ程良いことなのか実感が湧かなかった。だから、そうですね、とだけ言っておいた。
「はくちょう座は日本では、かささぎとも言われてね。七夕には集まって織姫と彦星のために橋になると言われている。雨が降ると会うこともできない。1年に1度の機会なのに可哀想などと嘆いているが、アルタイルで16光年、ベガまでおよそ25光年。デネブに至ってはなんと1500光年。
宇宙の壮大さに比べれば、1年に1度しか会えないとか嘆いているのが馬鹿馬鹿しくならないかい?」
「いえ。愛する恋人同士なら毎日だって会いたいと思います。1年も離ればなれなんてやはり可哀想です。人は星とは違うんです」
部長は信じられないものを見た、みたいな顔をして、僕の顔をまじまじと見詰めた。
あれ、気に触ったことを言ってしまったか?
内心焦ったが、部長は突然、あははは、と笑いだした。
「なるほど、人と星とは違うかぁ。君らしいな。君は本当に優しいなぁ」
部長は、本当に可笑しそうに笑った。
僕は……僕はリアクションに困り、笑い続ける部長を見下ろすだけだった。と、不意に部長は笑うのを止めるとぽつんと呟いた。
「高校を卒業したら町を出る」
ぞわりと背骨が裏返った。
ずっと、実はずっと気になっていた。部長の進路。
進学するとも就職するとも良く分からないでいた。いつか本人に聞いてみようと思いながらずるずるしていたのだが……
「えっと、大学に行くんですか?」
大学に行く。
これが一番可能性が高くて、そうなると町を出てくことになる。つまり、部長と会えなくなる。そして、それが僕にとって一番嫌なことだったけど……
「いや、大学には行かない。
私は文筆で身を立てたい。ゆえに都会に出て、それに挑戦する。
ずっと夢に描いていた。自分だけの夢。だから親の力は借りない。食い扶持も自分でなんとかしていくつもりだ」
「えっ、なんでそんなハードモードでやるんですか?
自宅で書いて公募するとかすれば良いじゃないですか」
「なあ、戸隠君。織姫はそれはそれは布を織るのが上手かったそうだ。だから、神様が同じくらい働き者の彦星を世話してくれたんだよ。
その結果、二人とも堕落してしまったんだ」
部長は仰向けのまま両手を空につきだし、機を織る真似をする。
「私は織姫が織った布のような美しい物語を織りたいのだよ。
或いはギリシャ神話。
アラクネに布織りの勝負を挑まれたアテナは天空に虹を織り込んだという。そんな奇跡のような物語を。
勿論、頑張れば夢は叶う、なんてお花畑なことは考えちゃいないよ。
才能がないのも百も承知。
夢破れる可能性の方が高いとも思うのさ。
だけれども、一度くらいはさ、試してみても良いと思ったのさ。
しかし、やる以上は全力を尽くしたい。
そのために自分を追い込む。
故に君とは会えなくなる」
「……なんでそこで僕と会わないってことになるんですか」
僕の質問に部長は眉を八の字にした。
「ほら、あれ、アルタイルだ。
分かるだろう?」
「……いや、わからんすっ!」
「ふぅ、相変わらず勢いだけだね、君は」
「もう、一生帰ってこないつもりですか?」
自分でもびっくりするくらい声が震えていた。
部長はゆっくりと目を閉じた。
「分からないなぁ。
1年でやーめたって戻ってくるかもしれないし、いつまでもしがみついているかもしれない。
言えるのは、約束はできない、と言うこと。
だから、その……なんというか……
もしも戸隠君が望むなら、今夜、望むところまで行っても良いと思っている」
「はい?」
「だ、だから、最後までいたしても良いと言っているのだ」
えっ、つまり、そう言うことなの?
僕は部長をまじまじと見つめる。部長は両手を胸のところで組んだまま目を閉じていた。まるで眠りの森の美女のようだ。或いはまな板の鯉。
ど、ど、ど、どうしよう
暑さとは別の汗がじわりと額に吹き出すのを感じた。呼吸も自然と荒くなる。
ここは、男として……
僕は……
僕は……
◇◇◇
「あああ、待ちますから!
ずっと待ってますから。部長が気が済むまで待ちます!!」
仁王立ちして、大空に向かって無駄に大声で叫んだ。
部長はびっくりしたように目を開く。
確かめるように唇をそっと撫でるとおずおずと言う。
「そうか、待つか。戸隠君がそう言うならそれも良いよ。
だけど済まない。
光の早さでもアルタイルぐらいかかるかも知れない。いや、ひょっとするとベガになるかもしれない」
腰に手を当て、僕はぐっと胸を張る。そんなパフォーマンスになんの意味もないのは分かっている。虚勢だ。でも、張り子の虎だって虎なのだ。
「大丈夫です。なんならデネブに行ってもらっても構いませんよ」
「デネブ……
それは少し遠すぎないかな。
本当に戸隠君、君は勢いだけの考えなしだねぇ」
部長はそう言うと、柔らかく微笑んだ。
星のようなキラキラした瞳がきゅいっと三日月に変わる。
そう。僕は、この人のこの笑顔を見るのが大好きなんだ。この笑顔のためなら、きっといつまでもだって待てそうに思うのだ。
2021/08/01 初稿
【おまけ】
「あれ、部長、何しているんですか?」
「うむ。我が悪友たちにメールを打っているところだ」
「メール? だって、携帯は圏外ですよ」
「戸隠君、体育館の屋上のこの場所はぎりぎり電波が届くのだよ」
「えっ、そうなんですか?
で、なんて打ったんですか?」
「ふふふ。秘密だ」
◇◇◇
「あっ、美佐緒からメール来たよ」
「ほほう。で、首尾は」
「『据え膳食われず』だって」
「あちゃ~、戸隠君、予想通りヘタレだねぇ~。
まあ、ミサもいい加減ヘタレだけど。押し倒しちゃえばいいのに」
「まっ、賭けは私の勝ちと言うことで、明日のバーガーよろしく」
「へいへい。じゃあ、二人を迎えに行きますかぁ」