4 悪意の行方
「お人好しですね、君は」
その時、第三の登場人物が言った。
女と武田は、同時に縛られた男を見た。
「さっきから聞いてれば、何のことはない。ただの逆恨みじゃないですか。こんな恨みなんか、君が引き受けることはないでしょう?」
「何よ……一体」
思わぬ所からの横槍に、女は動揺したらしかった。
「確かにあなたは苦労したんでしょうがね。ですが、武田さんへの恨みが今まであなたを支えて来たんじゃないですか? “幸せな生活”からの転落、その原因の全てを武田さんのせいにしてれば、あなたは楽ですからね」
芦田は武田に顔を向けた。
「さっき、事件の後街を出たとか言ってましたが、違うでしょう? こういうことをしでかしてしまった君と君の家族は、街にいられなくなったんじゃないですか?」
「余計なことを……」
思わずもらした低い呟きが、芦田の言葉を肯定していた。芦田は溜め息をついた。
「全く、お人好しですよ。こんなくだらない逆恨みを引き受けて、わざわざ自分から憎まれ役になるなんてね。巻き込まれた方の身にもなってくださいよ」
「何……ですって?」
驚く女と対照的に、武田は渋い顔をした。
「最初に言っただろう、本当はここへ来るつもりすらなかったんだよ。大体俺は、あんたがこんな所にいることの方が不思議なんだ」
芦田は明るく答えた。
「いや、僕は単なる好奇心ですよ。この人が君とどういう関係なのか、知りたかったんです。でももう気が済みましたから、そろそろ帰るつもりだったんですけどね」
「か……帰る、ですって?」
「はい」
こともなげに言って、芦田は──立ち上がった。
先程まで確かに彼を縛めていたロープはだらしなく床に広がった。鍵のかかったままの手錠がかちゃり、と軽い音を立てた。
「明日は職員会議がありますから、休めないんですよねえ」
こきこきと手首を鳴らしながら、芦田風太郎はにっこりと笑った。
「あ、あなた一体……」
「相手が悪かったな。こいつはこういう奴なんだよ」
芦田は女の方に視線を向けた。女は反射的に芦田に銃を向けた。女の眼に映し出されていたのは、得体の知れないものに対する純粋な恐怖だった。
にこり。青年教師は微笑んだ。
次の瞬間、眼鏡をかけた端正な顔立ちが、すぐ目の前にあった。銃を持つ手は芦田の左手にやんわりとつかまれ、弾道を床の方へ向けられていた。軽く手を置いているようにしか見えないのに──強く握られているわけではないのに、どうしても手は動かなかった。
「僕はね、こう見えてわがままなんですよ」
にこにこ笑いながら、芦田は言った。
「自分が死ぬのは勿論嫌ですし、武田さんのような人をみすみす殺させるのも嫌なんですよ。世の中が面白くなくなっちゃいますから」
芦田はすっと自分の眼鏡を外した。
「おい、ここに警官がいるのを忘れるなよ」
武田が声をかける。
「……心配するな、手荒な真似はしないさ。女性に暴力を振るう趣味はない。ただ……」
まるで恋人への睦言のごとく、芦田は女に囁いた。
「もしもおまえが再び、僕や彼に形を持って悪意を向ければ──その悪意がおまえの身を滅ぼすだろう」
そして芦田は、元のように眼鏡をかけなおし、女から手を離した。女はくたくたとその場にへたり込んだ。
「さあて、帰りましょうか、武田さん」
「あ、ああ……」
何処かあっけなさを感じつつも、武田は芦田に連れ出されるようにして女に背を向けた。
女が顔を上げた。憎しみと恐怖がない交ぜとなった眼が、二人の背中を捕らえた。
銃口が男の背中に向けられる。
「武田さん」
芦田が囁いた。
引き金にかかった指に、力が入った。
「救急車を呼んでください」
爆発音。
武田は驚いて振り返った。
女が崩れ落ちるのが見えた。
武田は急いで女の元に駆け寄った。銃が暴発したのだと、一目で判った。威力が弱かったせいか、命には別状はなさそうだったが、かなりの重傷を負っている。
「安い改造拳銃なんか使うからですよ。出来の悪いものは暴発しやすいんですってね」
言いながら、芦田が近づいて来た。武田は青年教師を見上げた。眼鏡に隠れ、彼の表情は見えない。
「……故意か? それとも、偶然か?」
「呪いました。さっきの一言で」
芦田はそれだけ答えた。口元にわずかに笑みがこぼれている気がした。
武田はそれ以上何も言わず、救急車を呼ぶために自分のスマートフォンを取り出した。