1 匿名の手紙
一番最初は、送り主の名前のない手紙だった。
武田春樹の元に手紙が来ることなど、一年に数回程度のことだ。内容はと言うと義理だけの年賀状だとか、ごみ箱に直行するだけのダイレクトメールだとか、行く気もしない同窓会のお誘いだとか、そんな程度のものがほとんどだ。
何の変哲もない白い封筒は、ポストの中でひどく目立っていた。恐らくパソコンを使ったと思われるそっけない文字が、くっきりと白いラベルの中に打ち出されていた。「武田春樹様」。
手を伸ばしかけて──武田は一瞬躊躇した。
……悪い予感がした。
かすかだが、何とも言えないどす黒い気配が封筒を取り巻いているのが判った。悪意。事件の現場に行くたびに、例外なく感じる気配だ。それでも武田は対照的に白すぎる封筒を取り上げた。ラベルにプリンターで打ち出された文字。それ以外には何も書いていない。消印は近くの郵便局のものだ。何の特徴も、そこには見出されない。
武田は充分に気を付けながら封を切った。カミソリの刃などは仕込んでいないらしい。
中に入っていたのは紙切れが一枚。やはりよくあるフォントを使った文字で、一言だけこう書かれていた。
「人殺し」。
「それで、心当たりはあるんですか?」
武田より一つ歳上の青年教師はそう言った。
「いや」
武田は短く答えた。
カウンターバーの片隅で酒を酌み交わしながら、どうして俺はこの男にこういうことを話しているんだろう、と彼は考えていた。帰宅途中に偶然出くわし、いい酒があるからとほぼ無理矢理にここまで連れて来られた。男と呑む趣味など持ち合わせないが、どうもこの男相手では調子が狂う。
芦田風太郎。
近くの私立高校で、古文の教師をしている男だ。一見物腰柔らかで、世間知らずのお坊ちゃん風にも見える。だが、へらへらとした笑顔の奥に底知れぬ“何か”を抱えていることは判る。
正直、この男は苦手だった。この男といると、自分ばかりがしゃべらされてしまう。その癖この男は自らのことは何一つ話そうとしない。理不尽だ。
「刑事であれば、恨みの一つ二つ買っているでしょう?」
「だからだよ」
武田は煙草をくわえた。
「思い当たる節がありすぎて、かえって特定しきれない」
「する気もない、ですか?」
「まあな」
「でも、一週間も続いてるんでしょう?」
「飽きたら止めるだろ」
芦田は何かを言おうとしたが、結局何も言わないままで手にしたグラスの中身を飲み干した。強めの酒だったのか、少しばかり顔が上気している。
「……物好きですねえ、実に」
「相手がか? それとも俺が?」
「りょーほーれす」
少々呂律が回らなくなり始めていた。潰れるのも時間の問題だろう。武田は今のうちにこの場を去ることにした。酔っ払いに付き合っていられるほど暇ではないし、この男を介抱してやれるほど親切でもない。明日も授業があるんだろうに、こんな所で潰れている方が悪い。
自分の分だけ支払いをしながら、武田は店内をちらりとうかがった。視界の隅に、カウンターに突っ伏している芦田の姿が映った。彼はそれに一切構わず、バーの扉を開けて出て行った。
「そうやって、誰かのケガレを引き受ける気ですか、君は」
武田が出て行ったのを見計らって、芦田風太郎はこっそり呟いた。よっこらしょとばかりに上体を起こし、頬杖をつく。
「君は、自分が思ってるほどには悪い男じゃありません。しかし……」
何故か彼はことさらに偽悪的であろうとする。気難しく人を寄せ付けないひねくれ者という仮面をかぶって、常にそれを外さないでいる。いや、彼自身それが仮面だと認識すらしていないのかも知れない。
しかし、芦田は知っている。彼は自分の持つ能力――代々強力な霊能者を生む血筋から与えられた、その場に染みついた“想い”を読む能力を、凶悪な犯罪によって散らされた命のために使うことを選んだ。だからこそ武田春樹という男は、あえて刑事という職業を選んだのだ。
「何か……心当たりでもありましたかね?」
まるで自ら進んで悪意をかぶろうとするかのように。思えば武田にはそういうところがある。何処かに虚無を背負っている。自分に向けられる悪意さえ、彼には“見えて”しまうと言うのに。
だが自分が手を貸すことは出来ないだろう。そもそも彼と自分は──こうして一緒に呑むこともあるが──友人ですらない。向こうもそう思っているだろうし、こちらもそう思っている。ただ自分の方が勝手につきまとっているだけだ。芦田は正確に認識していた。
「さて、置いてかれちゃったし、僕も帰りますか」
芦田は席を立った。ふらり、と店を出る。
途端に。
「声を立てないで」
背中に何かが押しつけられた。恐らくは、拳銃。
「僕、あんまりお金は持っていませんが……」
「物盗りじゃないわ。あんたは何も言わずに来てくれればいいのよ」
後ろから聞こえる女の声は、若くはなかった。芦田はこっそりと後ろをうかがった。自分の肩越しに、白髪がかなり混ざった頭が見えた。
「──抵抗はしませんよ」
芦田は答えた。銃を持つ相手の手が震えているのを感じたからだった。こういう手合いには、いつ引き金を引かれてもおかしくはない。
「その車に乗りなさい」
言われるままに、目の前に停まっていた軽自動車の後部シートに乗り込む。手を後ろに回されて手錠をかけられる時も、目隠しと猿ぐつわをされた時も、その長身を折りたたむように後部シートに横たえられ、カムフラージュらしい毛布をかぶせられた時も、芦田は一切無抵抗だった。
(さて、僕を誘拐してどうするつもりでしょう?)
芦田と女を乗せ、車は夜の中を走り始めた。