女王の憂鬱
本日の仕事を終えたウェイデルンセン王国の若き王・ファウストは執務室に残って、いつになく考え込んでいた。
「失礼いたします」
明日確認してもらう書類を届けに来た生真面目な側近のヘルマンは、当たり前に断りを口にして入ったものの、まだ王が残っていた事に驚いていた。
「お休みになられないのですか?」
「気になる案件があってな」
「どう見積もっても、ティアラ様はまだお帰りにはなりませんよ」
ここ最近の様子から推測されたからかいに、王は眉間を寄せる。
「今日はそれじゃない」
「これは、大変失礼いたしました」
丁寧な物腰は普遍ながらも、先代王の時代から務めているヘルマンの態度には余裕が感じられる。
「ファウスト王、判断するのに資料が不足でしたら、すぐにでも取り寄せましょうか」
「いや、材料は充分に揃っている」
「でしたら、どこかに大きなしわ寄せが出るような案件なのですか」
これにも、ファウストは否定した。
「王がティアラ様以外の事で、これほど悩まれるのはお珍しいですね」
「一応、身内の案件だからな。まあ、私があれこれ言える問題ではないし、正式な打診があるわけでもないが、やはり気になってな」
そう言って、ファウストは手元の資料をヘルマンにも見せた。
「この件でしたか。本人はともかく、ご実家の方は打算を含めた期待を込めて賛成しているようですね」
「ああ。だが、当人は長男でもないから家を出るのも気にしていないし、穏やかで勤勉な性格だ。何より、本当に気があって接触しているようだな。過去の遍歴を鑑みるに、ああいうのが根っからの好みのようだ」
問題の青年よりも年下のファウスト王は、それを感じさせない風格で的確な評価を下した。
「どうしたものかな」
「大切なお方なのですから、あれこれと口を出すのも有りなのではないですか」
「うるさいと一喝されて終わりだと思うが」
「それもまた、宜しいと思いますよ。ただ、気にかけているのだと伝えるだけでも違うものです。最後には、ご自分で決断なされる方なのですから」
「ふむ。確かに、そういうものかもしれないな」
ファウストは窓越しに冴える月光の夜空に目を向けた。
常に厳しくて強い意思を持った、けれど、時々とてつもなく優しい眼差しをする世界最強の叔母上は、今頃どうしているのだろうかと想いを馳せながら。
* * *
厳しい試験も、面倒な誕生会も乗り越えて、苛つきささくれ立った気持ちは優しい叔父のレナルトに全てを吐き出し、母親の温かなぬくもりをほんのりと心に留めたヨシュアは、故郷を後にしてオアシスのレスター邸に辿り着いていた。
忙しいレスターは夜にならないと帰ってこないらしいが、一行は主不在でも手入れの行き届いた屋敷で何不自由なく世話になっている。
シモンは早速、ここに置いていく土産物の仕分けに取りかかり、広い客間にはヨシュアとティアラとリラがいるだけだ。
そのリラも、ここでは護衛の必要が少ないせいか、離れてお茶を楽しんでいる。
初めての里帰りというだけで一騒動だったヨシュアは、ティアラと同じテーブルを囲んで、ようやく地に足をつけて一息の心地でいた。
「ティアラ、悪かったな。シンドリーまで付き合わせて」
今頃になって他の誰でもなく、自分が誘って付き合わせたのだと認めたヨシュアだ。
「ううん、そんな事ないよ。すごく楽しかった。あ、でも……」
「でも?」
ためらうティアラに、遠慮するなと言ってやる兄貴ぶった気持ちの余裕がヨシュアにあった。
「えっと、少しだけ残念だったかなって」
自分に不手際があったのかと慌ててあれこれ思い返してみるが、あの騒動以外の粗相は浮かんでこない。
「勝手なんだけど、旅行ならもっとヨシュアと一緒にいられるかなって思ってたから。なのに、移動の時は乗り物が違うし、宿には忍び込める秘密の通路なんてどこにもないし、シンドリーに着いてからだって、テストが終わるまでは会える時間も全然なかったから」
自分の事で精一杯だったヨシュアには、ちっとも思いが及ばない感想だった。
「でも、だからって、ずっと残念だったわけじゃないよ。ヨシュアの家族に挨拶できたし、隣に並んで海も見れたから、やっぱりすごく楽しかった。ヨシュア、連れてきてくれてありがとう」
こずるいヨシュアの思惑など関係なしに、ティアラは純粋に喜んでいた。
この純粋さを目の当たりにする度に、ヨシュアは自分の小ささを思い知らされる。
誰かから説教をされるより、よほど効果があるというものだった。
そんなティアラに反省させられたヨシュアは、自分でもらしからぬと思うような、とある提案を考えついていた。
今日の内にレスターに報告と相談がしたかったヨシュアは、話す時間がほしいと、こっそり使用人に伝言を頼んでおいた。
おかげで、夕飯が済み、もう寝ようかという間際になって、主が戻ったとの知らせをヨシュアはもらった。
時間的に今夜は無理かと残念がっていると、告げに来た使用人はレスターの私室に案内してくれた。
遠慮がちに扉を叩けば、すんなりと通る声に招き入れられる。
中には、帰ったばかりの、隙のない仕事仕様の着こなしのままなレスターがいた。
「楽しく過ごして来れたかい」
「はい、おかげさまで。母に貴重な薬草をいただき、ありがとうございました。母もとても喜んでいました」
「その様子なら、きちんと自分の手で渡したようだな」
ヨシュアの逃げ腰な考えなど完全に見透かされていて、視線を外して誤魔化しておく。
「明日は遊園地に行くんだって?」
話題が変わってほっとしながら、ヨシュアは頷いた。
「あの、それでちょっとご相談があるんですけど」
「どうした?」
「大したことじゃないんですが、遊園地にティアラも連れて行ったらまずいでしょうか」
そろそろと反応を窺っているヨシュアに、レスターは呆れていた。
「やっぱ、まずいですよね」
寄せられる純粋な好意に、兄貴分として楽しい思い出を作ってやりたくなったのだ。
だが、遊園地はあまり品がいいとは言い難い場所だ。
らしくなくともティアラは生粋のお姫様で、連れて行くのは好ましくないと判断するのが妥当だろう。
などと考えていたヨシュアだが、レスターが呆れていたのはそんな理由ではなかった。
「お前は、一人で遊びに行くつもりだったのか」
「……はい」
中止になった行きの時の予定も、もちろん一人で行動するつもりだった。
レスターの屋敷での滞在時間が長めに取ってあるのは、旅慣れないティアラの休息と旅程の調整の為だ。
ヨシュアが行きたいだけの所に、誰かに付き合ってもらおうとは考えもしていなかった。
「あの、駄目でしたか?」
お伺いを立ててみるのは、なぜだか責められている気分になっているからだ。
なぜかは、わかっていないけど。
「まあいい。一緒に行く気になったのなら、何も言うまい」
「つまり、どういう意味でしょうか?」
「明日は私も同行する。みんなで遊園地だ。いいな」
どうにも、楽しく遊びましょうと浮かれる気分にならない命令口調に、返事も 「了解しました」 と堅くなってしまう。
それでも、とにかく、明日はティアラも一緒に遊園地に行くと決定したのだった。
* * *
遊園地に同行すると参加表明したレスターは朝早くから一行を急かし、馬車に乗り込んで出発した。
それなりの時間がかかって到着したのは、オアシスの外れにあるだだっ広い川原で、結構な範囲に渡って簡素な高い塀が組まれている怪しげな場所だった。
「あのう、移動遊園地に行くんじゃなかったんですか?」
場所も疑問だが、連れてきたレスターの格好もいつものビジネス仕様で、ついてきたのは間違いだったんじゃないかと不安になる。
「いいから、入ってみろ」
女王様の命令には誰も逆らえず、ヨシュアを先頭に、ウェイデルンセン一行はそろそろと関係者以外立入禁止の看板をくぐり抜けた。
「うわあ」
中に入って、まったくの別世界に驚いた。
これが本当に全部移動してきたのだろうかと思うような、完成度の高い後楽園が広がっている。
「ヨシュア、私が約束を違えると思うか?」
「すみません、俺が浅はかでした」
「うむ、わかればよろしい。ちなみに、開催期間は明日からだ。今日は試運転も兼ねて、私達の貸しきりだ」
「本当ですか!?」
「心置きなく楽しめるだろう。その代わり、参考になる意見を出してくれよ」
「はい、よろこんで!」
念願の遊園地に特別感が加わって、胸踊る無邪気な喜びがヨシュアからこぼれている。
レスターは、こういう顔を見られるなら、労して喜ばせるのも悪くないと感じていた。
レイネが居れば、これがヨシュアの無自覚なたらし戦法だと一喝しているところだろう。
「すごいね、ヨシュア」
ヨシュア達の正面では看板アーチの半立体的赤鼻のピエロが出迎えをし、奥にはピカピカで怪しげな遊具や見世物が待ち構えている。
隣で同じようにワクワクしているティアラに、世間知らずのお姫様でも共感できるのだと愉快になった。
「行くぞ」
「うん」
回転自転車やお化け屋敷、輪投げや金魚すくいや怪しげな水晶占いなんかを横目に歩く。
大きなテントではサーカス一座がリハーサルをしていて、珍しい動物を近くで見せてくれた。
レスターの存在が大きいのか、ヨシュア達が興味を示すと誰もが親切に対応してくれて、かなりの厚待遇で楽しんでいる。
「あ、あれ可愛い」
動物ふれあいコーナーでうさぎと戯れているティアラが指差したのは、近くにある的当てゲームの景品だった。
「あれって、レターセットか? 手紙なんて出す相手がいないんだから、必要ないだろ」
「いるよ。レイネに出すんだから」
ぷくっと膨れたティアラの主張に、ヨシュアは瞬いた。
「あのさ、微妙に気になってたんたんだけど、本当にレイネと仲良くなったのか」
「そうだけど、いけなかった?」
「いや、いけなくはないんだけど……」
未だに二人が仲の良いところを想像できないヨシュアだ。
実際、ティアラがとっさに庇いに入った以外、特に親しそうな場面は目にしていない。
誕生会の翌日にレナルトの屋敷に戻った時だって、レイネが寄宿学校に旅立った後だったので、謎なまま終わっていた。
「あいつと、どんな話をしたんだ」
今になって妙に気にしているヨシュアに、ティアラはつんと顔を背けた。
「秘密って約束をしたから、教えてあげない」
そう言って、うさぎ達と一緒になって逃げ出した。
「レイネの奴、余計な事を吹き込んだんじゃないだろうな」
素直で正直な性格がティアラの長所だと考えているので、ヨシュアは全くもって面白くなかった。
ぷりぷりしながら後を追うと、早くも的当てに挑戦しているティアラを見つけた。
「もう一回!」
悔しげにボールを要求しているが、サービスしてもらっている距離でぎりぎり届いているくらいの腕力なので、むきになっている当人以外にはどうやっても的は倒れないとだろうわかる。
「向いてないんだから諦めろ」
「じゃあ、ヨシュアがやって」
挑むようにボールを渡されたので、一応は渾身の力を込めて投げてみたけど、僅かに揺らす程度にかすっただけだ。
「俺にも向いてないな」
積み上げられた的には重りに砂でも入っているのだろう。
線の細いヨシュアでは、狙いを絞りながら倒せるだけの威力を発揮するのは無理だと一投しただけで判断できた。
元より、こういう力自慢の挑戦ものより、均等に可能性のあるギャンブル性の高いゲームの方が好みだった。
「んー、あれが欲しいのに」
「じゃあ、別ので勝負するかい?」
会話に混ざって提案してきたのは、ひげ面で、上下柄物を組み合わせている派手な装いの的当てゲームの店番だ。
くいっと親指で示した後ろには、執事を型どった人形がお茶を運ぶレースゲームがあった。
参加者が手前にあるスマートボールでビンゴを増やせばゴールに近付く仕組みだ。
「これなら、お兄ちゃんも楽しめるだろ」
ヨシュアは的当ての一投だけで見透かされたような誘い文句に目を細めながらも、ここで乗らない手はなかった。
「いいですけど」
「んじゃ、決まりな」
店番のひげ男はいい年した大人のくせに、鼻歌交じりで歩き出す。
猥雑で賑やかな場所には、こういう人が似合いなのかも知れない。
そんなわけで、七レーンもあるレースゲームを三人の貸しきりでスタートした。
そして、ヨシュアは地味に本気だった。
結果、慣れない手つきのティアラと、要領の悪いひげ面の店番をぶっちぎってヨシュアがダントツの一位となる。
「やるなあ、お兄ちゃん」
悔しそうにゲーム台を睨んでいるティアラの横で、店番男がこだわりのない笑顔で賞賛してきた。
「そんなサービス、俺には言わなくていいですよ」
「ん?」
「最初からゲームの調子を確かめるつもりで誘ったんですよね、お兄さんは」
横目で見ていれば、強弱のおかしな動きで遊んでいるのが明らかだった。
一般的にお兄さんというよりおじさんの方が適している店番男は、両手を上げて降参の意を示してきた。
「まあ、レスターのお連れさんへのサービスだと思ってよ」
だったら、もう少しわかりにくくやってくれと苦情を入れたくなる。
「結果は結果なので、気にしてません」
なんだろうと、あれだけぶっちぎりに勝てれば爽快だったのだ。
「じゃあ、景品はなんにする?」
問われて、ヨシュアはティアラを呼んだ。
「どの色にするんだ」
「いいの?」
実用性を重視する物欲の少ないヨシュアは最初からそのつもりでいて、素直なティアラも遠慮なく受け入れた。
「水色のをください」
お土産選びの傾向から、てっきり赤系統を選ぶと思っていたのでヨシュアはちょっと意外だった。
「お嬢さん。はい、どうぞ」
ひげ面の店番からティアラの手に渡ったのは、封筒と便箋の他にインクとペンと匂い袋の入ったお洒落な小箱のセットだ。
「海と空の色。今回の記念にぴったりでしょ」
見せびらかすようにティアラが笑いかけてきて、ヨシュアは本当に喜んでもらっているのだと実感した。
「楽しんでいるようだな」
顔を向けると、遊園地でも忙しいそうに話し込んでいたレスターがやっと合流してきた。
「どうだ、念願の遊園地は」
「楽しいです。これだけ広いと迷いそうなくらいですね」
「大規模なサーカスを呼んでの開催は初めてなんだ。いいタイミングだったな」
「あの、食品販売って、今あるワゴンで全部なんですか?」
「さすがに、そこまでは前日に用意がないからな。もうじきケータリングが来る予定だから待て」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
朝が早かったので、遊び回ってお腹がすいたのだろうと答えたが、ヨシュアが言いたいのは、それじゃなかった。
「今回のメインはサーカスですよね。遊具だったら、回転自転車ですか」
「ああ。まあ、そうだが」
「だったら、入り口以外の食品販売は均等に配置するより、メインの近くに集中して、順番待ちや付き添いの見学者を狙ったらいいと思います。がっつりして食べにくい物なら、逆に遠ざけた方がゆっくり味わえていいかもしれないですけど」
「入り口以外と言うのは?」
「遊びに来てすぐの腹ごしらえとか、お腹が空いた帰りに寄っていく需要があるので配置して損はないと思うので」
真面目な意見に、ふむ、とレスターは考え込んだ。
本気で意見が欲しいから開催前に招いたのではなく、王妹と肩書きの付いたティアラが楽しむのに都合がいい場所があったから連れてきたまでだった。
「他にはないか」
「遊具で気になった事は、それぞれの担当の人に伝えておきました」
これまた、期待してなかったのに上出来な返答があった。
レスターは後で何人か掴まえて確認しておこうと決めた。
「あ。あと、あそこの店番って、どんな人なんですか」
「店番って、派手なひげの男か?」
話題にされた店番男は、さっき使われなかった残り四つのレーンで遊びながら具合を確かめている。
「今回、臨時で入ってもらっている奴だ。何かやらかしたのか?」
「何かってわけでもないんですけど、やる気のなかったゲームの後で上手く乗せられたので気になって。丁寧な物腰でもないのに、挑発まがいの言動でも怒らせない人って貴重だと思ったんです」
「ほう。ヨシュアがそうまで認めるなら、かなりの男のようだな」
「ちらっと思っただけなんで、責任なんて持てませんよ」
「はは。人事を人任せにするほど私は甘くないよ。ヨシュア、後は好きに遊んでくれればいいからな」
「でも、そろそろ切り上げないと、予定がずれ込みますよ」
「ああ、言ってなかったか。屋敷に置いてきた荷物は今朝の内に次の宿に運ぶよう手配してきたから、まだ、たっぷりと時間はある」
朝から一緒にいたはずのヨシュアは全然気が付かなかった。
レスターについて働くには、相当な気配りができないと足を引っ張るだけだと背中を叩かれた気分だ。
「おーい、手が空いた奴は集まれ」
間もなく食事の支度が整い、温かな料理の匂いに誘われた。
ティアラが面白がってヨシュアにあれこれ運んでくるのはおままごとに付き合う感覚で許容できたが、料理人に聞いてきた食材や調理法のうんちくを一々披露したがるのは大いに迷惑だった。
なので、適当に相槌を打って全部聞き流しておいた。
パンでポタージュスープを残らずさらって、デザートが欲しいと思った頃になって、聞く気のないうんちくがさっきから静かになっていた事に、はたと気付く。
顔を上げれば、ティアラはじっとレスターを見つめていた。
レスターの隣には背の高い青年が立っている。
「仕事仲間だろう」
ヨシュアは面倒を避けたくて、これまた流そうとした。
「ううん、違うと思う。あの人、絶対に叔母様が好きなんだと思う」
レスターの隣で話し込んでいるのは、いつかの早朝にヨシュアが同僚として紹介されたセオドリク・ウィルフレッドで、ティアラの見立てに間違いはなかった。
そっち方面にはまったく興味を示さないお子さまだと勝手に信じていたヨシュアなので、的確な観察眼にちょっと驚かされる。
「ああいうのは駄目なのに」
なぜだか、ティアラはむっとしている。
「何が駄目なんだ?」
「レスター叔母様のこと。気がないなら、近い距離を許しちゃいけないのに」
自分の婚約話も適当だったくせに、恋愛事を訳知りぶった様子におかしくなった。
「レスターさんにも気があるのかもしれないだろ」
「それはない。だって、叔母様はカミが好きなんだから」
きっぱり言い切るティアラにびっくりした。
狼姿のカミの気持ちを理解していても、つい最近までレスターには気がないのだと思い込んでいたはずなのに。
「どうしてわかった?」
「だって、レイネはヨシュアを好きなのに喧嘩腰だったでしよう。だから、わかったの」
「……」
ヨシュアは、こんなところでもレイネは余計なお節介をやいてくれると痛感させられた。
告白をされようが、天敵という関係性は変わらないのだと思い知る。
「カミには言わない方がいいぞ」
ヨシュアは、ティアラにしっかり忠告しておく。
「どうして?」
「どうしようもないからだよ」
いくら広大な山脈全てを縄張りとしているすごい神様でも、平地にいるかけ離れた環境で過ごしている他国の同僚には牽制しようもない。
下手に知ったら、それこそヨシュアにとばっちりが飛んでくるかもしれないので、黙っているのが一番の安全策だった。
そんな一方、姪っ子が自分に関する恋話をしているとは想像すらしていないレスターは、噂の元であるセオドリク・ウィルフレッドの扱いに困っていた。
これまで、スケベ心見え見えのまとわりや利権目当てのおべんちゃらなんかは散々経験してきているので、あしらい方もお手のものだ。
けれど、ウィルフレッドのように真面目で熱心な好意を向けられた記憶はとんとなかった。
仕事の面でも実に申し分ない努力家で、期待の新人として周囲の評判は高い。
レスターとしても、どちらかと言えば好意的に見られる青年だ。
だからといって、どうこうと甘い関係になりたいかと問われれば違和感を覚えるのだ。
二人で出歩くところを想像するのが難しいわけではない。
なのに、どこかで絵空事としか思えず、いつだってウェイデルンセンにいる思いやりの欠片もないアイツがちらついて邪魔をするのだ。
本人を前にして嘆息をつくわけにもいかずにもやもやを飲み込んでいると、丸めた図面を片手に持ってきた男に仕事の呼び出しを受けた。
「すまない、セオドリク」
「こちらこそ、忙しいのに引き止めてしまいました」
朗らかに送り出してくれる寛容さに、やはりできた青年だと評価をしてその場を後にした。
「レスター、中々いい感じに見えてるぞ」
筒状に丸めた図面で自分の肩を叩きながら冷やかしてくるひげ面の男に、レスターは冷ややかな視線を送り返してやる。
「おお、怖っ。余計な話は怪我の元だな」
「ラク・カルヴァドス、わかっているなら最初から口にするな。まったく、ヨシュアも見る目があるんだかどうだか」
「ヨシュアって、お前が連れてきたお兄ちゃんか」
「そうだ。お前を高く評価していた。まあ、臨時雇いのプー太郎だと思っているようだがな」
「それはいつもの事だから気にしないけど、面白そうなお兄ちゃんだな。そこらで出してた意見も的確だったし、食品ワゴンの配置案も悪くない。行き先が決まってないなら、うちに引っ張ったらどうだ」
「カルヴァドスの目に留まるようなら、本気で考えてもいいのかもな」
「迷ってるのか? 若いんだし、鍛えてやればやり甲斐も出てくるってもんだ。いつまでも、師匠が右腕じゃあまずいだろ」
「……自称師匠のラク・なんとかさんは、てっきり喜んで右腕に納まっているんだとばかりに思ってたんだけど」
「安心しろ、右腕を交代したら、左腕に切り替わるだけだから」
「そのつもりなら、尚更慎重に考えてやらないといけないだろ」
「経験者は語るってやつか」
カルヴァドスの軽口に、レスターは物憂げに見返しただけで、経験の内容には触れなかった。
「ああならない為にも、後継者を育てておく必要があるとオレは思うんだけどな」
カルヴァドスの意見は、レスターも同意するところだ。
「試してみるだけでも価値はあるか。ああ、そうだ。ヨシュアを引っ張ってくるとなれば、背後関係の整理は全部任せるからよろしく」
「やれやれ、人使いの荒い女王様だな。まあ、下働きからやらせれば、自然と認められるだろ」
「普通に採用すれば反発が上がるから言ってるんだよ。あいつはスメラギ家の次男だからな」
「へ? スメラギって、シンドリーのか?」
周辺八か国の同盟で成り立っているオアシスは複雑で、常に利権の絡んだ小競り合いが絶えない。
そんなところに、まとめ役としてトップに立つレスターの助手として、シンドリーで最も影響力のある貴族の息子を採用したとなれば波乱は必須だ。
それでも、話しているうちに、レスターはヨシュアが適任だと腹が据えた。
「半年後をめどに整えてやってくれ」
「レスター、マジで言ってんのか?」
「私がこの手の冗談を言った事があったか」
「ないな」
あっさりと抗議を諦めたカルヴァドスは、どこから取りかかろうかと算段し始めた。
* * *
昼間に遊び倒したヨシュアは、オアシスの片隅にある宿屋で心地よい疲労に身を委ねて眠りにつこうと着替えていた。
「シモン、どうかした?」
同室のシモンは、残っている仕事は何もないのに着替えもしないで椅子に座っている。
「遊園地でも気になってたんだけど、疲れてる?」
「大丈夫、疲れてはないよ」
ヨシュアが言葉通りに受け取るには、違和感が残る不自然な笑顔が返された。
「こんな時で悪いんだけど、聞いてほしい話があるんだ。いいかな」
それで、行きの時には教えてもらえなかった話をしてくれるのだと察しがついた。
どうしようかと迷ってから、ヨシュアは自分のベッドに留まった。
なんとなく、これくらいの距離がある方が話しやすい気がしたから。
ヨシュアの心遣いに応えるように、シモンは穏やかな調子で昔話を語り始めた。
* * *
「楽しかったわ。また、必ず来てちょうだいね」
「はい、喜んで」
無邪気な少年と呼ぶには大きく、しっかりした青年とするには幼すぎるシモンは、人懐っこい愛嬌を振りまいていた。
「では、来週にお直しした品をお届けに上がります。私共は、今日はこれにて失礼させていただきます」
一緒に来ている男が丁寧に頭を下げて、シモンは連れだって屋敷を退出した。
「調子に乗るのも、程々にしておけよ」
よく似ていると評判の連れの男、シモンの父親は、得意客の屋敷を出たところで難しい顔をして注意する。
しかし、息子は笑って口答えをした。
「俺は、お客様の要望に応えているだけだよ。来るなと言われたら控えるって」
それは事実だったので、父は困ったものだと口をつぐんだ。
シモンの父は高級注文服の仕立て屋、ワーズワースの店主であり、人気デザイナーを兼ねている。
妻も腕の良い仕立て人であり、シモンを含めた五人の子ども達も衣服に興味津々な職人一家だ。
長男のシモンは特に興味を持つのが早く、邪魔にしかならない幼い頃から父親にくっついて貴族や商家のお屋敷を訪ね回っていた。
大人しくしていると言った側からお喋りになるので父親は採寸をしながらハラハラしたものだったが、客商売に向いた天性の愛嬌で、たいていの屋敷で喜ばれていた。
そうして、十三歳になった今では、まだ雑用係でしかないシモンを指名してくる客がつくまでになっている。
「まったく、誰に似たんだか」
口でぼやくほど嘆いて見えない父親に、誰の背中を見て育ったと思ってるんだと、シモンは心の中で言い返しておいた。
「今日はもう一件あるって言ってなかったっけ」
「ああ、一番のお得意様だ」
「じゃあ、俺がいないとだめなんじゃない?」
「そういう事だな」
商売道具を抱えた二人が乗り込んだ馬車は、ウェイデルンセン王国の最奥に位置する真白の城に向かった。
「シーモーンー!!」
豪華な客間に通されるなり、シモンは熱烈なタックルで歓迎された。
「私もぉー」
やや遅れて、小鳥のような見た目と声のもう一人が同じく突進してきた。
「はは、元気いっぱいだな。ファウスト、ティアラ」
「いつもすまないな」
困った顔で礼を述べたのは、この幼い兄妹の父親、ウェイデルンセン王国の現国王だ。
「さあさ、お菓子を用意しているから、みんなで食べましょう」
優しく微笑んで席を勧めてくれたのが王妃である。
ウェイデルンセンの王族は混乱を避けて集団生活となる学校で学ばないのが慣例だ。
それでも、幼い二人には遊び相手が必要だと案じた王は、后の幼馴染みであるワーズワースの夫妻を招いたのは五年も前の話だ。
今では家族ぐるみの付き合いで、遊びにくるついでに仕事の用件を済ませているようなものだった。
特に、家族の中でも面倒見のいいシモンはすっかり王様の子ども達に懐かれて、時々一人で城を訪れては、王様一家の保養地に同行するほどまで慣れ親しんでいる。
「シモン、今日は何して遊ぶ?」
「遊ぶ?」
兄妹揃って、シモンに期待の眼差しを向けている。
「じゃあ……くすぐりっこ!」
答えながらわき腹をくすぐってやれば、たちまちファウストとティアラの笑い声が広がった。
これだけ懐かれれば可愛くて仕方がない。
けれど、シモンの中には取引きのある家の子どもという一線がしっかりと引かれていた。
自分が店を継ぐ時に得意客になるであろう将来の顧客であって、王族だろうと、キラキラした目で慕われようと、芯の部分では接客の心構えが常に存在している。
だからこそ距離感を間違える事もなく、どちらの両親も安心して任せていられた。
これより三年後、シモンが専門学校の被服科で卒業制作に取り組み始めた頃、事故により国王が逝去したとの報せがウェイデルンセン王国を駆け抜けた。
シモンは深く悲しむ暇もなく、喪服の既製品販売やサイズの手直しに追われていた。
「落ち着いたら弔問に行こうな」
上着の拡張をしている父親がかけてきた言葉が胸に沁みた。
「あいつら、慰めてやらないとな」
泣いて泣いて、どうしようもなく悲しんでいるのだろうと思ったら、急に今すぐ駆けつけてやりたくなる。
けれど、シモンは他人であり、一般人であり、目の前の仕事で精一杯の半人前でしかないのだった。
国王の訃報から間もなく、ワーズワースの店主は城に呼ばれ、新王の戴冠式の為の衣装注文を受けた。
急務で、大きな仕事なので、ベテランばかりが数人で取りかかった。
一学生でしかないシモンは、二人に書いた手紙を託すくらいしかやりようがなかった。
「あーあ、俺が作ってやるつもりだったのにな」
数週間後、すっかり色の薄くなった空を見上げてシモンはぼやいていた。
前日行われたファウストの戴冠式は、歴代最年少として記録されたにも関わらず、すでに風格があると評判はいい。
ファウストの戴冠式の衣装は自分がデザインすると勝手に決めていたシモンは、あまりの悔しさに、一般公開の披露さえも意地を張って見に行かなかった。
その勢いで、大胆にも卒業制作に、戴冠式用として考えていたデザインを流用しようと企画していた。
「よし、これでいこう」
本格的な冬の気配が濃くなった頃にデザインが本決まりとなり、生地を見に行こうとシモンは裏路地を歩いていた。
そこで、輝くばかりの未来予想図が大きく変わることになる。
「!?」
不意に、シモンは何かの薬品を嗅がされて意識を失った。
そして、次に目覚めた時には、とある場所に拉致監禁されていた。
* * *
「ちょっと待った」
そこで、ヨシュアはシモンの話を遮った。
「拉致監禁って言った?」
「うん、言ったよ」
自分だって似たような経験を散々してきたくせに、他人の口から聞かされると、やけにどえらい事件に感じて仕方のないヨシュアだ。
「どれくらい監禁されてたんだ」
「そうだねぇ……かれこれ七年くらいかな」
「え?」
ぎょっとしているヨシュアに、シモンは笑顔で今も続いている昔話を続けた。
* * *
目を覚ましたシモンは、すぐに自身が置かれた状況を把握した。
連れてこられた場所に見覚えがあるせいか、冷静に落ち着いている自分に感心する。
「さて、どんな言い訳を説明してくれるんだろうな」
こんな風に、監禁された当初はのんきに肩肘をついて気楽に構えていた。
目を覚ましてしばらくすると、監禁部屋を訪ねてくる人があった。
ご丁寧にノックをしてくるので、どうぞと返してみれば、まったく見知らぬ老婦人が入ってきた。
「あなたのご主人様は何が望みなんです?」
シモンは、この婦人が誘拐犯の主格だとは考えていなかった。
「お立ちください」
答えはなく、代わりに、立てと指示されただけだ。
「はいはい」
使いでは話にならないかと、シモンはため息混じりに立ち上がった。
「返事は一回、姿勢が悪い。もっと肩を張って胸を反らしなさい」
いきなりの教育的指導に目が丸くなる。
「できないのですか?」
シモンが困惑しているのは、できる・できないの問題ではなく、従う必要があるかどうかの問題だ。
それでも、負けず嫌いの性質と、無理やりつれてこられた怒りも入って、あっと言わせてみたくなる。
仕立ての受注で貴族の屋敷にも出入りする為、礼儀作法は嫌というほど勉強していた。
時には、かなりの恥を実際に経験して身につけてきたのだ。
そんな怒りに任せた負けん気で、シモンは誰の目にも完璧な立ち姿をどこの誰ともしれない婦人に見せつけてやった。
「よろしい。では、お辞儀をしてみなさい」
しかし、老婦人は感心するどころか次を要求してきた。
苛立ちを抑えて、どちらが先に音をあげるか我慢比べのつもりで黙々と指示に従う。
どの要求でも合格点を勝ち取ったシモンの予想外は、それらが夜まで長々と続いた事だ。
途中の食事でさえ、マナー審査をされていたような有り様だ
「なんのつもりなんだか」
寝間着を用意されて部屋に鍵をかけられ、今夜は帰してくれるつもりがないのだと判明した。
「みんな、心配してないといいけど。まあ、あいつらもキツい状態なんだろうし、少しくらいは付き合ってやるか」
なんて、これ程おかしな状況でもシモンはのんきだった。
そんな自分の見当違いを自覚したのは次の日になっての事だ。
朝になってやって来たのは昨日の老婦人ではなく、ローブを身にまとった学者風情の中年男だ。
男は見た目通り、学者としてウェイデルンセンの歴史や周辺国との国交関係について滔々と講義し、シモンは最初から最後まで一人きりの生徒として付き合わされた。
こんな調子で、なんの説明もなく外界から一切隔離された状況で強制的に学ばされる日々は、驚く事に一ヶ月も続いた。
教師であり、審査官でもある彼・彼女ら五人全員に合格点をもらってから、シモンはようやく首謀者に会う機会が訪れた。
* * *
「ねえ、シモン」
話はこれからという場面で、ヨシュアは恐る恐る尋ねる。
「まさか、それが王様の側近になったきっかけとか、言わないよね?」
「ごめんね、その通りだって言っちゃうよ」
ある程度の重さは覚悟していたけれど、ヨシュアの想定なんか軽々と越えてくれるヘビーな過去だ。
なのに、当のシモンがにこにこと話しているから違和感この上ない。
「連れてこられたのが、この城なのはすぐにわかったよ。よくファウストやティアラと遊んだ部屋だったから。二人が淋しくなって、強引に呼び出したのかと思い込んだのが甘かったんだよね」
「もしかしてだけど、その誘拐の首謀者って……レスターさん、とか言う?」
「うん、言う」
さすがに、これにはいつもの笑顔が付属されていなかった。
ヨシュアは当たってほしくなかった予想通りの返答に、静かに顔を歪める。
レスターが父親と同じように恐ろしくて厳しい人なのだと認識してはいても、残酷さまで似ているとは捉えていなかった。
何より、シモンが受けた理不尽さに腹が立ってしょうがない。
「ヨシュア、ありがとう」
「何が?」
「今、俺の為に怒ってくれたでしょう」
シモンは本当に嬉しそうに笑いかけた。
「でもね、この話だけでレスター様を悪く思う事だけはしないであげてね」
「庇うの?」
「ちょっと違うかな。された事は今でもおかしいと思ってるよ。ただ、逃げようと思えば逃げられたんだよね」
「じゃあ、どうして逃げなかったんだよ」
「んー……。首謀者が判明して、いきなり王の側近として仕えろって言われて、なんでか首謀者より王様に腹が立ったんだよね。王になったばかりのファウストに拝謁させられて、驚いてる反応ですぐに何も知らなかったんだってわかったんだけど、俺も若かったから大人げなくファウストに当たっちゃってさ」
現在、年下のファウストより若く見えるシモンが大人げなくと表現するのがおかしいだけでなく、いつも穏やかな性格なので誰かに当たるという姿はまったく想像がつかない。
「与えられた仕事は完璧を目指して努めていたけど、余計な雑談は一切しなかったし、基本無表情で通してたんだ。ファウストには悪かったなって思うよ」
無口で無表情なシモンというのも、本人に言われてもヨシュアには思い描く事ができなかった。
「それで、真面目に働く振りをしながら抜け道を探していて、実際、抜け出す寸前までは実行したんだけどね」
「途中で考えて直したって事?」
「バレて、完遂できなかったんだよ」
「嘘だ。シモンが本気を出して失敗するわけないだろ」
ちょっとした意地悪だったのに、力強い信頼を寄せられて、シモンは不覚にも笑ってしまった。
「うん、誰にも見つかっていない。今でもね。ただ、捕まっちゃったのは本当だよ」
シモンは懐かしそうに目を閉じた。
* * *
ファウスト王の体調に合わせたお茶を入れ、書類を整理し、会いたくもない役人や商人や外交員の謁見の場にいちいち付き合わされる毎日を強制されたシモンは、いつも上向きだった口の端を横一文字に結んで過ごしていた。
おまけに、いきなり王の側近という重職につけられたので、周囲のそれとないやっかみを受けてもいた。
唯一の味方は、全ての事情を把握しているもう一人の側近のヘルマンだけ。
それも、仕事に関しては少しも容赦をしてくれず、日に日に心が無意味になっていった。
「それも、今日までの事だけど」
シモンは強い決意で顔を上げた。
王の側近としての仕事の合間に交流を許されていたティアラの協力を得て、逃げ出す準備が密かに整ったからだ。
昼間に人の気が絶えない通路に、夜が深まった頃を見計らい警備の隙を縫って忍び出る。
そうして本来の世界を目指す途中で、執務室から細く明かりがこぼれているのが目に留まった。
静かに覗くと、正面の大きくて立派な古めかしい机に、不釣り合いなほど小さくて華奢な影がうつ伏せていた。
見なかった事にすれば良かったのに、八つ当たりを自覚をしているシモンは最後の挨拶のつもりで近寄ったみた。
ぐっすりと寝入っているせいか、起きる気配は少しもない。
肩肘を張っている王様の姿勢とは違って、自分よりも小さく華奢な背中に無性にやるせなさを感じて、ふと、昔のように頭をなでてやりたくなった。
それでも、今は目を覚まされると困るので迷っていると、ぐすぐすと鼻を鳴らしているのが耳につく。
寒いのかと思ってかける物がないかと見回るうちに、そうではないのだと気が付いた。
器用な事に、夢を見ながら泣きべそをかいていたのだ。
シモンは驚いて固まってしまった。
お互いに意地になり、何事にも動じない若き王と全くの無駄がない無口な側近に徹してしたので、今更こんな子どもの姿を見るとは思っていなかった。
「……めん、ごめん、シモン」
しゃくり上げるような呼吸の合間に聞こえた自分の名前で金縛りは解けたものの、動揺はかえって大きくなっていた。
幼い少年が必死になって威厳を演じ、こんな所で一人きりで泣きながら眠っている。
それは、長男であり、世話焼き気質のシモンの胸を痛めた。
学校に行かないから友人もなく、頼れる両親を失ったばかりのファウストが泣きつく相手が一定の距離を線引きしていた自分でしかないのかと考えれば、やりきれない想いが広がっていく。
「王様ってのはずるいな」
ふっと苦笑して、シモンは天使の輪が浮かんでいるファウストの頭をなでてやった。
その後、若き王の隣で一夜を明かしたシモンは、逃げ出す代わりに監禁され続ける事を自ら望んだ。
* * *
「要するに、泣き落とされちゃったんだよね」
あっけらかんと簡単にまとめるシモンは、まるで楽しい思い出のように語った。
「はあ」
あんまりな展開に、聞かされていたヨシュアは気持ちの整理が追いついていない。
「あの王様にも、そんな時があったんだ」
と、どうでもいい感想がもれたくらいだ。
「ふふ、あの頃のファウストはまだ可愛かったんだよ。今じゃ、すっかり落ち着いちゃったけどね」
懐かしんでいるシモンを眺めながら、頭の整理がついてきたヨシュアは、どう考えても理不尽で酷い話だとしか思えなかった。
「シモンがどういうつもりで話したのかは知らないけど、俺にはレスターさんのやり方は許せないし、次に会う時に平気な顔をしていられるか自信がないよ」
「俺だって、あの時の強引さは許していない」
不意に真面目になって返されて、ヨシュアはハッとした。
「これをヨシュアに話したのは、俺とレスター様の関係をヨシュアが気にしていたからだよ」
城を出てシンドリーに辿り着く前、夢に出てくるカミが心をなんでも見通せるのかと心配だった同時期に気にかかっていたもう一つは、正にシモンとレスターの距離感だった。
「ごめんね、余計な気を使わせて。オアシスでレスター様と接する時間が少なく予定されていたのは俺のせいだよ」
「……それって、レスターさんも意識してるって事だよね」
「そう。だから、これだけで善し悪しを判断しないでほしいんだ。これは後から親に聞いたんだけど、無理やり城に連れ込んだ夜、レスター様は俺の両親に頭を下げにきたんだって」
ヨシュアのしかめ面を窺いながら、シモンは続ける。
「口では色々うるさい親だったけど、こう見えても一応長男の俺には多少の期待をしてくれてたはずなんだ。それでも、その場では強く文句をつけられなかったって言ってたよ」
ヨシュアはすごく何かを言い返したかった。
もて余す気持ちはあるのに少しも言葉にならず、息を吸って開きかけた唇を閉じるだけだった。
自分より酷い目に遭いながら、どうして笑っていられるのか不思議でならない。
「ゆっくりでいいからさ、ヨシュアはヨシュアの考えで動くといいよ」
そう言ってやっぱり笑うシモンに、優しいだけではない秘められた強さを垣間見た気がした。
* * *
シモンの打ち明け話の翌々日。
もうすぐボミート国を抜け、ウェイデルンセン王国領地に入ろうかというところで馬上のヨシュアは何者かに襲われた。
「うわっ!」
必死にバランスをとって、かなりギリギリで落馬を逃れた。
「なんなんだよ」
嫌な汗をかかされたヨシュアの疑問に、シモンが答えた。
「クイールだ」
シモンが見上げる真上では、大きな鷹が着陸許可を求めて旋回している。
ヨシュアを襲ってきた正体はあれだった。
「城で飼ってるやつなのか」
「うん。たぶん、伝言を持ってるはずなんだけど」
首元に巻いていた布を腕に巻きつけると、シモンは口笛を吹いて呼んだ。
今度は鷹も体当たりなどしないで、指定された腕にがっしりとした爪を引っかけて羽を閉じた。
妹が恋しくて早く帰って来いとでも催促してきたかと気楽に開いてみれば、手紙を読み進める内にシモンの顔色が変わった。
「城で何かあったの?」
「いや、城じゃなくて山だよ」
「山?」
「レスター様が行方不明になったって」
「「ええ!?」」
ヨシュアだけでなく、荷台から顔を出していたティアラも驚いていた。
覗き込むように身を乗り出しているので、シモンは手紙を渡してあげた。
ヨシュアも慌てて馬から下りると、荷台に飛び込んで内容を確認する。
手紙には、ウェイデルンセンの西に位置する山の見張り台の視察に着いたところで消息が途絶えたようだと書いてあった。
そして、状況がはっきりしないので念の為、こちらに迎えの護衛を出したから合流して真っ直ぐ帰ってくるようにとの連絡だった。
「助けに行かなきゃ」
顔色を変えてつぶやくティアラに、ヨシュアは何を言ってるんだと注意した。
「だって、叔母様が」
「だからって、お前が行ってもどうにもならないだろう」
「そんな事ない」
「そんな事ある。いいから、王様の言う通りにしろよ」
兄貴ぶって言い聞かせたヨシュアは、まだまだ応戦するつもりのティアラから手紙を奪い取った。
「シモン、リラさん、俺は別行動するから後はよろしく」
「え、何?」
シモンが聞き返した時には、ヨシュアは馬にまたがって駆け出してしまっていた。
小さくなるばかりの後ろ姿を見送ってから荷台を覗くと、顔をパンパンに膨らませて怒っているティアラがいた。
「また、私をのけ者にした。こうなったら、絶対に後悔させてあげるんだから。シモン、超特急で城に戻ってちょうだい!!」
座席を叩いて憤慨しているティアラに、シモンとリラは見合ってやれやれと同調していた。
* * *
ヨシュアはウェイデルンセンを迂回して、一番近い見張り台を目指していた。
サイラスとのやり取りがあって、念の為にキャンパス山脈の地図は一通り頭に入れている。
ウェイデルンセン王国周辺を除いては、オアシス連合が協力してキャンパス山脈の資源密輸を阻止する為、何ヵ所か見張り台を設置して管理していた。
端の方になれば何日もかかる距離だが、オアシスで別れた時期を思えば、どう見積もっても、そこまで遠くだとは考えられない。
シモンの打ち明け話があって、レスターとどう接していいのか迷いがあるものの、今は無事でいてほしいという思いしかなかった。
とりあえず行ってみるしかないと自分に言い聞かせ、まだ一息つく事は許されないのだと、未だに遠い安息の存在が恋しくなる。
複雑な気持ちを振り切って馬を励まして走らせながら、ヨシュアは幼い頃に学校の先生に言われた言葉を思い出していた。
家に帰るまでが遠足です、と。
最初から遠足みたいな楽しいものではなかったけれど、気合いを入れ直して速度を上げた。
* * *
「まあ、こうなるわな」
だから言わんこっちゃないと、ガリガリ頭をかきながらラク・カルヴァドスは面倒になっていた。
「あいつは山に慣れてるから、大げさに騒ぐなよ。一旦、救助道具を取りに戻る。おい、知らせに来たお付きさんはどこ行った?」
カルヴァドスが焦りもしないで仲間に声をかけると、誰ともなしに返事があった。
「あの……家に連絡してくると、駆けて行きました」
「ばっかやろう! どうして止めないんだよ。あー、もう、ややこしい事にならなきゃいいけどなぁ」
がっくり落とした首を上げると、カルヴァドスは的確な指示と準備を始めた。
「ラクさーん」
荷物をまとめて、いざ、これから捜索という段になって呼び止められた。
「ったく、今度はなんだ?」
「それが、代表者と話がしたいって言い張る子どもが来てまして」
「おいおい、これ以上子どもに振り回されるのは勘弁してくれ。誰か、適当に付き合ってやれよ。オレは行くからな」
カルヴァドスが一通りの山装備を詰め込んだリュックを背負い、数歩進んだところで背後が騒がしくなった。
「なんだ?」
「悪いけど、下っ端の人じゃ済まない用件なんだけど……って、あれ、あんたは遊園地の」
カルヴァドスが振り返ると、数人の見張りを蹴散らして、馬で突破してきた少年がいた。
考えていたより、ずっと年上の子どもだった。
しかも、見覚えまである。
「スメラギの次男坊」
正体を言い当てられたヨシュアは、手紙を見せたにも関わらずまともに取り合ってもらえず、埒が明かないので強引に突っ切ってきたのだが、ここで間違いなかったようだ。
「レスターさんが行方不明だって聞いてきました。何か手伝える事はありませんか」
馬から下りて、謙虚な口調で用件を告げれば、普段でも派手な服装のひげ男は、おでこを掻きながら言った。
「まあ、行方知れずと言やぁ、行方知れずなんだがな」
緊迫とは言い難い雰囲気に、ヨシュアは急に場違いな登場をした気分になる。
あー、と呻いたカルヴァドスは、見張りにいくつかの指示を出して定位置に戻るよう伝えると、歩き出しながら状況を説明してくれた。
「結論から言えば、崖から落ちたんだと。意識がはっきりしてるらしいから、今から迎えに行けば陽のある内に助けられるだろう」
行方不明に比べれば好転した情報だが、それでも緊急事態には変わりがなかった。
「どうして、そんな事になったんですか」
あのレスターが、うっかり足を滑らせて落ちるなんて考えにくい。
「まあ、ある意味自業自得というか、予想はついたというかなんだがな」
驚く事に、レスターでも自業自得という単語がくっつけられる場合があるらしい。
「ここに来たのは定期の視察で、途中に新人の親戚の家に寄ったのが引き金だな」
「仕事中なのにですか?」
「それも仕事の一部だったんだ。親戚の家というのがオアシス連合会員って事で、レスターも挨拶に付き合ったんだ。そこで、ちょっとした問題が起きた」
前を見たまま、カルヴァドスは話を続ける。
「そこは新人の姉の嫁ぎ先だったんだが、そいつの姪に当たるチビッ子が、別れ際になって自分も行くとわがままを言い出したんだ。親も親で、大人しい子だから頼めないかと言い出した。微妙な空気に負けたとは思えないが、なんでかレスターが許可を出したもんだから、迷惑な事に同行が決定しちまった」
レスターにしては珍しい判断に思える。
「仕方なく連れてきてみりゃ、走り回るわ、うるさいわで仕事にならんくてな。完全に邪魔だから、新人が現場から連れ出すって手をあげて、許した責任があるからってレスターとチビッ子の世話係でついてきた役に立たないおばちゃんの四人が連れだって山に入ってったんだ」
どうやら、カルヴァドスは歯に衣着せぬタイプらしい。
「山ん中でもふらふらしてたらしくて、見事に崖から落っこちたってわけだ。それで、庇いに入ったレスターと新人も道連れになったんだと」
よくある流れすぎて、ヨシュアにはかえって現実味がない。
「慌てて知らせに戻ってきた世話係のおばちゃんが、これまた迷惑な事に大げさに触れ回ってくれたみたいで。お兄ちゃんが知ってるって事は、当然城にも連絡が行ってるんだろうな」
「はい。半端な情報だったらしくて、行方不明としか知らないみたいですけど」
「っかぁ、レスターに怒られるな」
口で言うほど困った様子もないカルヴァドスは、体格のいい数人の男達と山に入っていく。
ついてくるなと言われないので、ヨシュアもそのまま隣に並んだ。
行方がわからないのに全員が固まって行動しているのは、足跡を追っている道案内がいるからだ。
先頭を歩く男はゆっくりながらも迷いのない足取りをしている。
それに続くカルヴァドスは、遠足感覚で今更ながらの自己紹介をしてきた。
胡散臭そうに頷いたヨシュアは、自分の方は知られていたので省略した。
「ラクさんは只者じゃなかったんですね」
代わりにこう言った。
「まあな。レスターに便利にこき使われてるんだ」
否定しないで軽く認めたところが、ヨシュアの中の評価を上げた。
要注意人物としての方向で。
「ラク、ここだ」
たいした深く入り込まない内に、落下したと思われる現場に着いた。
「本当にここか?」
カルヴァドスが聞き返したのは、下に誰の姿もなかったからだ。
「おーい、レスター」
呼びかけても返事がない。
「あいつだけなら動き回らないはずだから、あのお嬢ちゃんかな。まったく、困ったもんだ。セオドリクの坊っちゃんは、もう少しできる奴だと期待してたんだけどな」
リュックを下ろして、崖下に降りる準備を始めたカルヴァドスからヨシュアは聞き逃せない名前を聞いた。
「あの……」
「ん?」
「一緒に行方不明になってる新人さんって、まさかセオドリク・ウィルフレッドさんですか」
「なんだ、知り合いか?」
「……」
ヨシュアには余計な危機が増えた気がして何も答えられなかった。
「何でもいいけど、ここまで来たんだ。最後まで付き合えよ」
差し出された綱を受け取りながら、なぜだか試されているような感覚が肌を刺激した。
* * *
「まさかだな」
「申し訳ありません……」
下敷きになってくれているセオドリク・ウィルフレッドに謝られたレスターは、典型的な遭難例に当てはまっている自分の現状が信じられなかった。
だが、見上げずとも落ちて倒れたままの視界には、さっきまで立っていた断崖が遥かにそびえて見える。
レスターがありえない間抜けな現状を認めるしかなくなってから、ようやくウィルフレッドの上からよけると、側には元凶であるウィルフレッドの姪っ子が呆然と転がっていた。
擦り傷以外の外傷がないのを確認してから立たせてやると、思い出したかのように大泣きを始めた。
「重ね重ね、申し訳ありません」
最後にウィルフレッドがあちこち痛そうに体を起こすと、胡座をかいて再び謝っていた。
「顔を上げてください。私が許可を出したからで、責任は私にあるんです。それより、骨を折ったりしていませんか」
「ええ、この通り。骨の丈夫さは自慢できるみたいです」
そうは言いながらも、ぎこちなくゆっくりと立ち上がった。
「エルシー、これで少しは懲りてくれよ。ついでに、いい加減泣き止んでくれるとありがたいんだけどな」
無事だとわかってからの自己主張が激しいぎゃん泣きに、大人のウィルフレッドの方が泣きたくなっていた。
「驚いたんだと思います。気の済むまで泣かせてあげたらいいですよ」
レスターの心遣いに、ウィルフレッドは元から高い好感度を更に上げた。
もっとも、レスターとしては、これだけ大声で泣いていれば捜索の目印になるだろうという思惑と、泣き疲れてしまえば大人しくなるだろうという容赦ない現実的対処方を述べたまでだった。
らしくもなく、無関係な同行を許した自分に多分な責任があると自覚しているレスターは、これ以上誰にも迷惑をかけたくない気持ちが強かった。
しかも、最初からこんな事になりそうな予感がないわけでもなかったのだから、自分でも迂闊としか言いようがない。
エルシーという女の子は、出会った時から大人の話に口を出したがり、少しもじっとしているところがなかった。
それなのに許可を出したのは、認めないと退出させてもらえなさそうな雰囲気もあったが、色々教えてほしいと積極的に話しかけてくるウィルフレッドに、背後でにやにやと野次馬な視線を送ってくるカルヴァドスに辟易していたからだった。
間に子どもが入れば空気が変わるかと思って、苦肉の策に手をつけてしまったのだ。
痛い目に遭って冷静になれたレスターは、私的な事情で巻き込んでしまったエルシーに初めて悪かったと反省した。
このまま泣かせておくのも可哀想なので、慣れないながらも慰めようかと思ってみた頃には、自力でぐしぐしと収まってきていた。
泣き疲れたのかと気にしてみれば、妙にもじもじしている。
それで、生理現象だと察した。
「セオドリク、少しここを離れる」
「え?」
体があちこち痛むせいか気付いていない様子なので、こそっと耳打ちで教えてやる。
「そんな、悪いですよ。だったら、私が連れて行きますから」
「でも……」
小さなエルシーは、絶対に叔父さんは嫌だと頑固な顔をしていた。
十にも満たない子どもでも、女の子は女の子だ。
「はいはい、わかりました。レスターさん、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
困った状況なのに、レスターは微笑ましい気持ちで引き受けた。
* * *
紅葉し始めたばかりの秋の山、そんな景色を眺めながらレスターは途方にくれていた。
もじもじそわそわしながらも、ずいぶんと歩いたエルシーは、ようやく見つけた用足しに向いた木陰にレスターにも近寄るなと言いつけてから姿を隠した。
そして、そのままいなくなった。
「はあ」
情けなさすぎて、普段、偉そうにオアシスを仕切っている自分が莫迦みたいに思えてくる。
子どもの付き添いさえまともにできないのだから。
「……違うか。そういう配慮に向かないから、男社会で働いているくらいが丁度いいんだろうな」
じっくりと反省している場合でもないので、名前を呼びながら捜し歩く。
そうしている間に雲が垂れ込め、薄暗さが増してきた。
こうなったら、先にウィルフレッドと合流した方がいいかと考え、不意に足取りが重たくなった。
いきなり全身に異様な疲れを感じた。
今頃になって打ち身、擦り傷が痛みを持ち始めただけでなく、奇妙なことに気持ちがぶれた。
急に何もしたくないし、考えたくもなくなったのだ。
エルシーのように周りの迷惑も省みず泣き叫んで、誰かにとことん甘やかしてもらいたくて堪らない。
ファウストやシモンやオアシスの役員達に許さなかった全てが異様に恋しかった。
仕舞いにはしゃがみ込んで、風が騒ぎ出した暗い森の中でちっぽけな迷子になってしまった。
「おい、大丈夫か」
求めていた温かみのある声に夢心地で顔を上げたレスターは、今度こそ、はっきりと目が覚めた。
「カミ?」
目を見開いて立ち上がるレスターを、首を傾げた大きな狼が眺めている。
「あ、おばちゃんだ」
しかも、背中には迷子のエルシーを乗せていた。
知っている顔を見つけたからか、ばたばたと暴れだしてカミが伏せるので、レスターは呆気に取られたまま下ろすのを手伝った。
「こんなところで何をしているんだ」
「お前がそれを言うのか。行方不明だから探してほしいとティアラが頼んで来たから、こうして迎えに足を運んでやったんだろが」
「だからって……」
レスターは自分の脚にびたっと引っつき虫になっているエルシーを見下ろした。
「秘密だって約束してある。できるよな、エルシー」
「うん。ひみつ、ひみつ」
急にいい子になったエルシーを信用しきっているカミに呆れてしまう。
まあ、子どもの言う事なので、いくらでも誤魔化せるかとレスターは追求しない事にした。
「お前に怪我はないんだな」
「ああ、大丈夫だ」
「そうか、ならいい」
ティアラは野山を共に駆け回っていたが、レスターカミの住処以外で会うのは初めてだった。
薄がりの中でもはっきりと見える輪郭に、不思議な頼もしさを感じる。
「同僚が待っているんだろう」
「……え?」
素っ気なく戻るよう促されて、レスターはひどく戸惑った。
「そんなに心配するな。これ以上はお前の世界に関わらない」
珍しくも親切心だとわかる配慮に、やんわりと突き放された気がしてしまう。
それらを口にしないままカミに見送られてあっさり別れ、やがて振り返っても姿が見えなくなれば、本当にいたのかさえあやふやになった。
「無事で良かった。心配して探しに来てしまいました」
しばらく歩くと、レスター達は落ちた場所よりも奥まった場所で無事にウィルフレッドと合流した。
手を伸ばした姪っ子を抱き上げながら、わかりやすくほっとしている辺りに人の良さが見て取れる。
「遅くなってすみませんでした」
「こちらこそ、エルシーが面倒をかけました。それに、タイミングも良かったみたいですよ。ほら、明かりが」
遠くを指差すウィルフレッドの先には、揺らめく松明の炎が見えている。
おそらく、カルヴァドス達だろう。
「……」
良かったと思うどこかで、レスターはそわそわと浮き足立った焦りに占領されようとしていた。
「おばちゃん、助けてもらったらきちんとお礼を言わないとだめなのよ」
ウィルフレッドの片腕に納まってしまうほど幼いエルシーに、妙に大人ぶった忠告をされた。
ウィルフレッドは、おばちゃんという呼称にあたふたするが、レスターは少しも気にしていなかった。
「そうよね」
小さな女の子に教えられて、ようやく自分がすべき行動がわかった気がする。
くるりと背を向けるレスターに、ウィルフレッドは驚いて空いている手で引き止めた。
「どこに行くんですか?」
「ごめんなさい、セオドリク」
レスターはいつもよりぐっと幼い表情をしていた。
そうして、するりと手をほどいて森の奥へと駆けて行ってしまった。
告白もしていないのに振られてしまった気分で見送っているウィルフレッドに、腕の中のエルシーが追い討ちをかけてきた。
「おばちゃんは恋人に会いに行ったのよ」
「え?」
エルシーはうふふとおしゃまに笑って、困惑している叔父さんに抱きついて慰めてあげた。
* * *
「ヨシュア、もう大丈夫だよ」
「な……」
警戒体勢バリバリなヨシュアの前にひょっこりと姿を現したのは、なんとびっくり、ボミートで別れたはずのティアラだった。
「なんで、ここにいるんだ」
「大変だったんだからね。リラさんに頼んで二人乗りで早馬を出してもらって、大急ぎでカミにお願いしてきたんだから」
ここでカミを使うのかと、大胆ながら確実な方法にヨシュアはうっかりと感心してしまった。
ティアラにしか使えない最高の手段だ。
「ほら、私がいた方がどうにかなるでしょ」
得意気に威張ってくる辺り、別れ際のヨシュアの言い分をずっと気にしていたらしい。
「だからって、ティアラまで来る必要はなかっただろう」
「酷い! 一人で留守番してろって言うの? そんなに私がいたら邪魔!?」
ぷんすかしているティアラに、ヨシュアは勢い押された。
「違うだろ。手紙じゃあ、何が起きているかも、ろくにわからなかったんだ。危ないと思えよ」
束の間、ティアラは瞬きをして黙った。
「もしかして、ヨシュアは心配してくれていたの?」
聞き返した言葉には、とても信じられないといった気持ちが込められている。
「悪いかよ」
ティアラに何かあれば、あちこちに向ける顔がなくなるとか、護衛として当てにされている責任があるからとかいう、望んで付き添ってるわけではない様々な理屈の中に、身近な人として怪我をしてほしくない純真な気持ちが確かに存在していた。
「ううん、悪くない。次からは気をつける」
素直に反省するティアラに、ヨシュアはきちんと兄貴分としてやれている手応えを感じていた。
そんなヨシュアとは裏腹に、ティアラの方は微妙と言われた頃より親しくなっているのだろうかと距離感を測りかねていた。
しかも、何かあれば次回も置いていかれるつもりなど全然なくて、ただ言葉通りに充分に気をつけようとしか考えてなかった。
傍で見るにはお似合いの様子に反して、内心ではまったく噛み合っていない二人である。
* * *
薄暗い森の静寂を、短く繰り返される浅い呼吸が乱していく。
普段走る事などめったにないレスターが、小さなエルシーに背中を押されてカミと別れた場所を目指して駆けていた。
どうして人でなく、わかりやすい優しさもないカミでなければいけないのかは幾度も自問自答を繰り返している。
幼い頃、行き場のない憤りを慰めてくれたので、刷り込みのように慕っているだけなのかもしれない。
今だって、何を求めているのかもわからずに走っているのだ。
「泣くな」
初めて夢の中で出会った時、カミはそう言って慰めてくれたけど、そういうカミの方が慰めが必要な顔をしていた。
レスターは、それを胸がつまる息苦しさの中で思い出していた。
* * *
十三歳、ウェイデルンセン王国で成人と認められる歳を迎えたレスターは、意気揚々と着飾って城中から祝いの言葉をもらっていた。
「さあ、守神に成人を報告しておいで」
十一歳離れた現王である兄に促されて、神聖な祭壇の前で恭しく一礼をした。
受け継がれたお決まりの挨拶をすると、神に代わって従姉に当たる大巫女から祝詞を返答として賜り、礼をしてから堂々とした面持ちで下がった。
これだけの儀式が、レスターには何よりも誇らしさを感じる出来事だった。
レスターが王と王妃と横並びな席に戻ると、祝福してくれる神に御礼の舞が奉納された。
レスターと同じく十三歳の女の子達が揃いの赤と白の衣装を身にまとって一心に舞っている。
「どうせなら、私も踊る方に回りたかったのに」
ちらりと本音をもらした妹姫に、兄王は横目で苦笑した。
そんな兄の気持ちを知りもせず、式典の間は少しも笑顔を絶やさなかったレスターは、ある一つの決意をしていた。
「ごきげんよう、王様、レスター様」
招待客を見送っている中、一組の夫妻が王族の兄妹に挨拶をしてきた。
「キュリエール伯母様、本日は足を運んでくださり、ありがとうございました」
「いいえ、とても素敵な式でしたわ」
病で早世した先代王の姉であるキュリエールは、巫女にならずに早々とオアシスの富豪に嫁いで城を出た人だ。
年の近い従姉が大巫女を務めているレスターも巫女になるつもりはないので、似たような立場だと思っている。
けれど、レスターはこの伯母があまり好きではなかった。
「娘がこんな立派な式典を采配しているのだと思うと、とても喜ばしくて、つい目が潤んでしまいましたわ」
「ええ、私も感謝しています」
穏やかに返答している兄王の隣で同じように微笑みながら、レスターは冷ややかな感情で伯母を見上げていた。
「レスター様、これからは神に誠心誠意でお仕えし、大巫女をしっかりとお支えするのですよ」
「いいえ、伯母様。私は神に仕えるのではなく、兄王のお役に立つように努めたいと思っています」
この発言に、伯母は怪訝な空気を醸し、兄王も困惑の気配を漂わせた。
「それは、つまり、大巫女を手助けするという事ではなくて?」
自分の思惑とは違う答えを認めようとしない伯母に、レスターは自分の気持ちをはっきりと伝える。
「もちろん違います。私は世情に合わせて税制を調整したり、生活に役立つ学問を広めたりと、国民の為になる仕事をしたいのです」
あまり人の話を聞かないキュリエール夫人の為に、具体的な例を挙げて表明した。
「な……」
絶句するキュリエールの隣で、オアシスの富豪である旦那は、ただ黙ってやりとりを眺めている。
「私には理解できないわ」
「ええ、それで構いません」
頭を振っているキュリエールに、にっこりと微笑んで黙らせた。
「伯母様に理解してもらおうだなんて思ってもいませんから」
優雅にお辞儀をして、レスターはその場を失礼した。
自分が生まれる前から城を出ていた伯母のキュリエールとは、殆んど接点がない。
一年に一度、挨拶をするかどうかという付き合いだ。
それなのにレスターが反感を覚えているのは、いつだってあの時の衝撃を思い出すからだった。
今から八年前、病で伏せがちだった先王の望みにより、兼ねてから婚約関係にあった役人の娘と兄が結婚をした。
五歳だったレスターは、ただただうっとりと花嫁さんを眺めていた。
そんな時だった。
隣に並んだキュリエールが酷く場違いな発言をしたのは。
「こんな所に嫁がされてくるなんて、可哀想に」
独り言のような小さなつぶやきが、この場に素晴らしくそぐわないものだから耳を疑って伯母を見上げた。
その時の、歪んで見えた顔は今でも忘れられない。
そして、幼いレスターの驚きように気が付いたキュリエール夫人は、更なる似つかわしくない言葉を吐き出した。
「レスター、あなたは私のように早くここから出られるといいわね」
優しく微笑んでくるキュリエールに、意味もわからず背筋が寒くなる思いを味わったものだ。
キュリエールの言葉の真意は、成人した今のレスターでも未だに図りかねている。
ただ、城が、家族が大好きだったレスターの幼い子ども心には、いつかは出ていかなければならないという発想自体が恐るべき事だった。
思えば、レスターはあの時からどうしたら出ていかずに済むのかという考えに固執するようになった気がする。
兄の結婚から二年後、先王が病により亡くなり、若干十八歳の兄が王位を継承した。
翌年には甥のファウストが生まれ、その間、ずっと茅の外だったレスターは何をしたら堂々と城にいられるのかを考えていた。
王族の女性が一番輝けるのは大巫女に就任する事だが、三つ年上なだけの従姉が納まっている以上、レスターに役割が回ってくる可能性はないに等しい。
先代の大巫女は、二十代の頃に就任してから大往生する九十歳までしっかりと役目を務めて上げているからだ。
ならばと次に考えたのが、国営に関わるという案だった。
それだったら兄王の助けになれるし、誰に遠慮する事なく居座れるのではないかと思ったのだ。
これを思いついてからは密かに役人の仕事を覚えようと難しい書物を漁ってみたし、遊びに行く体を装ってあちこち視察のつもりで見て回っていた。
「お前は苦労をする必要はないんだ」
なのに、精一杯に真剣な志は、成人した記念の夜に大好きな兄王からやんわりと窘められてしまった。
「苦労なんかじゃないわ。できる事をして、堂々と城に居たいだけなのに」
大人びていると評判のレスターだが、いつだって兄王には、あどけない守るべき妹としか映っていなかった。
「キュリエール伯母様の事なら気にする必要はない。あの人は不自由が嫌いなのだ。けれど、レスターはここが大好きなのだろう。それくらいは見ていればわかるよ」
自分の気持ちを推し量ってくれる兄に笑顔になりかけたレスターは、しかし、続けられた言葉に絶望的な気持ちに落とされる。
「誰にもお前を追い出させたりはしない。約束しよう。だから、何も心配しないで、ただ隣で笑っていておくれ。それだけで、私は頑張れるのだから」
兄王の微笑みには一点の曇りもなかった。
それが、レスターには何よりも悲しかった。
「ええ、そうね」
返答になっていない適当な相槌を打ち、癇癪を爆発させてしまわないように痛いくらいに手を固く握りしめて部屋を退出する。
そのまま、足早に自分の部屋に戻った。
子ども扱いに悔しくて怒っているのか、お人形さんを望まれて苦しくて情けないのかもわからず、寒くて仕方がないので掛け布団を巻きつけて暖炉の前にかじりついた。
ゆらゆらと揺らめく炎を見つめ、温度による色の違いや不規則に爆ぜる音を無心で観察する。
意味もなく、しばらくそうしている内に、レスターはパタリと眠りに落ちていた。
「泣くな」
暗闇の中、暖かみのある声が降ってきて、それで初めて自分が泣いているのだと知った。
「悲しい事があったのか」
寝転がっているにしても、ずいぶん声が遠くから聞こえてくるので、背の高い人なのだろうとぼんやり考える。
「悲しいわけじゃないわ。誰も本当には私に興味がないのだとわかったから、少しどうしていいのかわからなくなっただけよ」
「なら、どうしたら泣き止んでくれるんだ」
「わからない。なんで泣いているのかもわからないんだもの」
そう答えてから、自分は誰と話しているのだろうと疑問に思って半身をむくりと起こした。
暗闇のせいで、相手がどこに立っているのか見分けられなかった。
「あなたは誰?」
「誰でもないものだ」
「それって、謎かけのつもり?」
意味のわからない答えを聞き返すと、今度は何も返されなかった。
しんとした暗闇は異様に寒く感じる。
「ねえ、まだ近くにいる?」
「ああ、いる」
心細さに応えてくれるように、優しい声が返された。
「良かった。ねえ、私、あなたの顔が見たいわ」
「……見たら、泣かないでいてくれるか」
「ええ、約束する」
すると、ぺたりと座り込んでいるレスターを驚かせないように、そっと気配が近づいてきた。
レスターが遠慮がちに手を伸ばすと、願った通りに、ぐっと顔を寄せてくれる。
もちもちした自分のとは違う頬の質感に、大人の男の人なのだと実感する。
真っ直ぐに見つめてくる瞳は、ゆらゆらと金色と緑色の間を行ったり来たりして見えて、初めての顔なのに親愛の情だけが湧いてきた。
「暖かいのね」
レスターは無遠慮にペタペタと触り、男はされるがままでいてくれる。
「本当に泣き止んだな」
「約束したんだもの。だけど、私もあなたに泣いていてほしくないわ」
男は瞬いて不思議そうに聞き返した。
「俺が泣いているように見えるのか?」
「ううん、涙は出ていない。だけど……」
理由もわからず泣いていたレスターよりも、よほど悲しそうに見えていた。
「あなた、お名前は?」
「カミ」
少しも目を逸らさずに教えてくれた名前は、特別な魅力を秘めている男に似合っている気がした。
「ねえ、カミ。笑ってみて」
その方が、ずっと素敵に見えるはずだと直感的に思えたのだ。
「そちらの名前を教えてくれ」
今度のお願いは、すぐには叶えてもらえなかった。
「私はレスターよ」
早く笑ってほしい気持ちを抑えて名前を教える。
「レスター……」
確かめるように呼ばれただけの、聞きなれた自分の名前が特別に響いて聞こえた。
「また会いにきてもいいか」
躊躇いがちな問いかけに、レスターは即座に答えた。
「もちろんよ」
自分でも驚くくらい、レスターは喜びを感じていた。
なのに、奥底には淋しいと駄々をこねているだけだという自虐的な考えが居座っている。
途中で、これは夢だと気付いていたから。
こんなに素敵な人が実在するわけがなかった。
「そうか」
けれど、低く柔らかい声と共に、捻くれた気持ちは一瞬で一掃された。
「ありがとう、レスター」
カミが笑いかけてくれたのだ。
ただそれだけで痺れるほど胸が苦しくて、また泣きたくなってしまう嬉しくなってしまった。
その瞬間から、レスターの夢は色彩豊かな虹色に染まった。
* * *
出会った時を思い出してみれば、レスターはカミの繊細さに惹かれたのだと言えた。
なのに、どこをどう間違ったのか、今ではお互いに容赦のない言い合いばかりしている。
それでも、あの頃のようにカミに会いたくて仕方ない気持ちに占領されてしまっていた。
じゃあ、とあっさり見送られたカミの素っ気なさを目の当たりにしたばかりなのに、柄にもなく必死になって走り出してしまうくらいに。
莫迦な事をしている自覚はあるのに走り続けるのは、どうしてか、まだ帰らずに同じ場所に留まっていると確信している変な強さがあるからだ。
しかし、それは願望が混じった期待であって、実際にカミの姿を目にすれば、レスターにはやっぱり驚きが込み上げてきた。
「レスター、どうしたんだ?」
カミの側も大いに驚いていた。
獣姿では表情の判断はしにくいが、そこはかとなく戸惑う気配が感じ取れる。
「そっちこそ、どうしてまだ残っている。ティアラでも待っているのか?」
「いいや、あいつはヨシュアと帰ると言っていた」
息が荒くなっているレスターの質問は的を外した。
「なら、どうしてまだここにいる」
「お前が戻ってくるような気がしてな」
ふと、一人と一匹に沈黙が下りた。
「お礼を……さっきはお礼を言ってなかったと思ったから戻ってきたんだ。探しに来てくれてありがとう」
呼吸を整えたレスターは、とりあえず戻ってきた口実を消化してみた。
「気にするな、礼ならティアラに言ってやってくれ。それに、こっちこそ悪かったな」
「なぜ、ここで謝る?」
不思議がるレスターに、地面に伏せているカミは居心地が悪そうに足を組み替えた。
「この姿で駆けつけるしかなかったからだ」
「それがどうした。自信満々でエルシーに秘密にしてもらう約束をしたんだろう」
「けど、お前はこの姿が嫌いなんだろう?」
「別に」
まったく心配が通じていないレスターに、白と黒の艶やかな毛並みのカミは困惑した。
「お前は、獣の姿が嫌で俺を拒否したんじゃないのか」
「はあ? 何を言っている。私が許せなかったのは、初めて現実で会ったというに優しい言葉の一つもなかったからだ」
あまりの勘違いに、レスターは何も繕わない本音を言い返した。
「ちょっと待て。お前は、この姿を見て固まっていたよな」
「初めて見れば、誰でもそうなる。それでなくても傷心と疲労で参っている最中だったのに、一言の慰めもなくナルシスト発言されたら、尚更ドン引いて固まるしかないだろう」
「それこそ、こっちだって緊張してたからで、おどけて和まそうとしてたのにお前が逆上して出てったんだろうが」
「ちょっと待って、逆上って何? なんで私が悪いみたいに言われなきゃならないの。だいたい、少しくらい避けられたからって、直後に姪っ子に手を出すとかありえないでしょ」
「人聞きの悪い言い方をするな。あれはただ、お前の代わりにだな……」
「あー、はいはい。自分の事で精一杯の私に代わって大事に大事にカミが付き添ってくれただけで、悪いのは全部私って事よね」
カミの言い分を遮って、レスターは投げやりな気持ちになっていた。
どれだけ想ってみても、実際に会えばこれだ。
「そうじゃない」
また言い争いで終わるのだと嘆いていたら、今回のカミは訂正を入れてきた。
「お前を慰める気持ちで、ティアラに付き添っていたんだ」
「……それって、ティアラが私の代わりだって言ってる?」
レスターが深く考えずに聞き返すと、こくりとカミは頷いた。
「勝手だと言われたら、それまでだけどな。結局、お前自身には何もしてやれてないんだから」
「何それ。なんで今更、殊勝な事を言ってんの。いつもみたいにティアラは特別だって言えばいいじゃない」
「んん……この際だから本当の事を言うが、特別なのはお前の方だ」
「ちょっと、やめてよ。神は一人の巫女にしか本当の姿を見せない。なのに、本来の巫女の私を差し置いて獣姿でティアラと会っているのは、特別以外の何者でもない。でしょう?」
腹立つ気持ちで信じられないレスターに、カミは開き直って言い訳を続ける。
「いつも、お前はそう言うが、勘違いだ。本当の姿ではなく、夢の中の人型の事だ。そもそも、山守は一人の女を通じてしか人間と繋がりを持たない、が本来の正しい言い伝えだ」
それは似ているようでも、これまで信じていたものとはまったく意味合いが違った。
「先代巫女は俺を恐れていた。特にこの姿に怯え、距離をとって最低限の付き合いしかしなかった。お前のように完全に遮断される事はなかったが、できなかっただけだろうな。心には拒絶する意思があったはずだ。そんな時に、泣いているお前の夢を見つけた。いや、気付いたら入り込んでいた、という感じだったな」
レスターは言葉を失った。
「ティアラやファウスト王だけでなく、ウェイデルンセンという国でさえ、レスター、お前がいなければ俺は繋がりを断っていた。俺が山守の神として君臨しているのは、お前がいるからだ」
表情の読み取りにくい獣に見つめられ、レスターは言葉以上の感情を受け取ってゾクリと震えた。
見つめ返すだけで口を閉ざしているレスターに、カミは静かに立ち上がり、慎重な足取りで一歩だけ距離を詰める。
それだけで、口を開けば食べてしまえる近さになった。
「レスター」
短く呼ばれた自分の名前に、レスターは焦れったくて攻め立てているカミの苛立ちを察していた。
それに、どこか喜びを感じているのは、隠された懇願している甘さを見出だしているからだろう。
「カミ」
レスターは名前を呼び返して、目の前にあるふさふさした頬に触れた。
そして、一言。
「重い」
渾身の告白の待望の返答がこれだったので、カミはまあるい瞳を瞬かせ、かなりの衝撃を受けていた。
言い返すにも、言い訳をするにも、レスターが近すぎてできないでいる。
その全てを承知で、レスターは微笑んだ。
「だからこそ、私以外には任せられないわね」
そう言って、灰色の体に自分を埋もれさせた。
「ちゃんと大事にしてよ」
「ああ、わかってる」
全身で温かい鼓動を感じているレスターに、柔らかいカミの声が頭に直接響くように返された。
「だから、頼むから、もう二度と拒否してくれるなよ」
ささやくような率直な願いに、レスターは抱きついたまま嬉しそうに答えた。
「それは、カミ様次第ね」
* * *
十八歳を越えても難に巻き込まれる気配が濃厚なヨシュアは、騒動に突っ込んできたティアラや助け出したウィルフレッド、エルシーらと共に見張りが使う管理棟で一晩泊まった。
そして、翌日。
カルヴァドスに教えられた近道を、ティアラと馬に相乗りしながら駆けていた。
背中に伝わってくる温もりに違和感をたっぷりと味わいながら。
やがて山間の見慣れた優雅な佇まいの真白い城が見えてきて、長くて色々ありすぎたヨシュアの初めての帰省がようやく本当の終わりを告げた気がした。
「あー、落ち着く」
実家でもレナルトの屋敷でもなく、嫌々やってきたウェイデルンセンの城で隔離されたような私室に帰ってきて、ヨシュアは張りっぱなしだった気を全面的な解放する。
「しばらくは、どこにも行きたくないな」
ヨシュアはお気に入りな寝心地のベッドに、上着を脱いだだけの格好でごろごろと寝そべっていた。
疲れもあって半分以上うとうとしてきたところで、急に嫌な予感に襲われる。
気のせいだと信じたのいに、間もなくノックする音が響いた。
それも、ドアからではなく壁からだ。
「ティアラか」
「うん。入ってもいい?」
うんざりしながらも、どこか日常に戻ってきた感覚がして、わざと眉間をしかめてみた。
「やだよ。帰って早々なんだから、お前も休んでおけよ」
「私は平気。それに、カミに連れてきてほしいって頼まれたから」
「……」
できる事なら、これにも嫌だと答えたかった。
「わかったよ」
口を尖らせて承諾すると、ひょいとティアラが顔を見せた。
「明かり、持ってきてるから」
意外な気遣いに、悪い奴じゃないんだよな、とヨシュアは思った。
秘密の通路をしばらく歩いてカミの洞窟に着くと、たまに剥製に見える事もある狼神にも感情表現はあるのだと知る。
「おう、来たか」
帰省前となんら変わりなく岩棚の定位置で酒を楽しんでいるカミは、いつも以上にご機嫌のようだ。
その証拠に、尻尾がぱたぱたと揺れている。
「なんの用だよ」
ヨシュアはあからさまに不機嫌になっていた。
「ん、迷惑をかけたから侘びておいてくれとレスターに頼まれてな」
いつものカミなら真っ先にヨシュアの余裕のなさをからかうところなのに、丸っと無視して咳払いを前置きに素直に理由を教えてきた。
「あ、そう。じゃあ、もう用件は済んだな」
ヨシュアは冷ややかな視線を返した。
「なんだ、久し振りの再会なんだ。少しはゆっくりしていけ」
斜め上からの引き止めに、ヨシュアはどこが久し振りなんだと言い返してやった。
「遠く離れてたって、人の夢の中で好き勝手言ってくれてたよな」
「この姿で会うのは久々で間違いないだろ」
「俺にしたら一緒だよ。どっちも迷惑な事に違いはないね」
帰省前のヨシュアなら、どれだけ迷惑に思っていても、恐怖心からカミの呼び出しを直接非難するなどしなかった。
今日は正面から堂々と言い返してきたので、カミは帰省で何かを得てきたのかとヨシュアを見直していた。
だが、真相は、夢の中で感情の動きがわかりやすい人型を知ったことにより、本能のまま動く獣という認識が少しだけ薄れただけの話だった。
「こっちは帰ってきたばかりなんだ。疲れてるんだから休ませろよ」
「ティアラもそうなのか?」
比較に指名された華奢なティアラは、けろりと否定した。
「やはり、お前はちんちくりんで充分のようだな」
こうも挑発されれば、ヨシュアだってすぐに立ち去るのはやめにする。
次いで、どうしてそんなに元気なのかとティアラを化け物扱いに見ていた。
そんなティアラは、早速今回の旅行のあれこれをカミ報告し始めるパワフルさだ。
余計な事を言わないかヨシュアが耳を尖らせていると、ティアラはふと話を途切らせて首を傾けた。
「ねえ。私がいない間、カミは何をしていたの」
普段、酒の用意や毛並みの手入れはティアラの担当で、他に代わりはいない。
旅行前に心配すると、カミは気にしないで楽しんでこいと言ってくれた。
普通の狼は世話をする人間がいなくても暮らしているので、少しの我慢でどうにでもなるのかと思っていたのだけど、そうではなかったのだとティアラは気付いていた。
昨日、レスターの救助をお願いしに駆けつけた時、カミの毛並みはいつも以上に艶々で、酒も強く香るほど並々と注がれてあった。
「いい機会だから、キャンパス山脈を横断していた。あまり放っておくと情報が届かなくなるし、よからぬ輩も出てくるからな」
ヨシュアは山守の守護神っぽい行動に感心するが、ティアラが聞きたいのはそれじゃなかった。
「他には、飲み仲間と利き酒をしたりだな」
「「飲み仲間?」」
ヨシュアとティアラは声を揃えて引っかかった。
「なんだ、そんなに気になるのか」
ヨシュアは普通の狼にも酒をたしなむ変わり種がいるのかと疑問に思い、ティアラはちっとも知らされていない事に完全に拗ねていた。
「私、そんなの知らないんだけど」
拗ね拗ねのティアラを前に、猫可愛がりするカミは、ただひたすらに可愛いとしか思っていなかった。
「教えてやるから、そう怒るな。お前達も知っている奴だ」
「「え」」
再び声を揃えるも、ヨシュアは相手が人間であることを、ティアラは今まで誰も教えてくれていない事を驚いていた。
「俺の飲み仲間は、ファウストの側近のヘルマンだ。先王時代からの付き合いだな」
「「ええ!!」」
今度は正真正銘、同じ思いで驚いていた。
どちらにとっても、まさかのヘルマンだった。
「そんなの、一度も聞いた事ない!」
「そうか? まあ、わざわざ話す事でもないし、今回飲んだのも相当久し振りだったからな。あいつは旨いつまみを用意してくれるんだ。ついでに、毛並みを綺麗に整えてくれた豆な奴だ」
「私、全然知らなかった」
面白くないと顔に書いてあるティアラの拗ね具合に、ヨシュアは自分以外が相手でもこういう顔をするのかと観察していた。
「ヘルマンも大変だな。それで言えば、シモンは知らなくて正解かも」
ぼそりとつぶやいたヨシュアの言を、大きな耳をぴくりと動かしてカミが聞き留めた。
「シモンって、王のもう一人の側近か」
「だったらなんだよ」
「そういやあいつ、今はお前の世話係だったな。元気でやってるのか」
「……なんでカミが気にかけてるんだ」
「ああ。シモンを城に引き止めたのは、俺みたいなもんだからな」
「はあ?」
シモンの打ち明け話を聞いたばかりのヨシュアは、どこに関わっていたと言うのか問い質した。
「あいつが城から脱出しようとしていた時、ティアラに泣きつかれてな」
ティアラを見れば、まだ拗ねている様子だ。
「シモンに嫌な思いはしてほしくないけど、いなくなったらファウストが淋しくなるからどうにかして、とな」
完全に人選ミス、いや、神選ミスだと言ってやりたい。
「で、考えた。要は、シモンって奴が自分から残る気になってくれたらいいわけだろう。だから、ちょっとの間、ファウストを夢の中に閉じ込めて、本音を吐き出しやすくしてやったんだ。シモン次第の賭けだったが、上々な結果になったな」
カミがこれを相談された時、正直な所、可愛いティアラの頼みでも難しいと思っていた。
それでも、発端にレスターがいて、思い悩んでいる姿が楽に想像ついたので、なんとかしてやりたい一心で動いたのだった。
「神様って、割りと簡単に願いを叶えてやるんだな」
ヨシュアは皮肉たっぷりに言ってやった。
「ああ、ティアラの頼みだからな」
さらりと答えたカミは、可愛いティアラの機嫌を取りながら、真実はただ一人だけが知っていればいいと思っていた。