怖‐ヲソレ‐2 『歯』
一部、ホラー表現や残酷描写を含みます。
念のため、トライポフォビア(集合体恐怖症)の方は特にご注意ください。
夜。ぼくはどうしても寝付けずに、右へ左へ、寝返りを繰り返していた。
歯が痛い。
顔が痒い。
どうにも口元に違和感を覚えたぼくは、顔でも洗おうと思い立ち、しんどい体を引きずって洗面所へと向かう。
そしてぼくは、驚愕するのだ。
口の周りが、何か白いもので多い尽くされていた。動かすとむず痒く、真っ白になった顔にヒビが入ったようになっている。
なんだろう、これは。
恐る恐る触れてみた。
白いヒビは、とても硬い。表面がつるつるしていて、ツメで叩くとコツンと響く。どこかで触ったことがあると思ったら、そう。
歯だ。
ごつごつとした奥歯のような歯が、皮膚の代わりに顔を覆っている。
「むぁ……む、むぅっ」
驚いて声を出そうと、口を開く。が。口は中途半端なところで止まって、思った場所まで開かなかった。
口周りに生えた歯が、もう一段上の歯に引っかかって、それ以上持ち上がらないのだ。擦れあった歯がかちりと音を立てる。頬の辺りで。
わけがわからない。事実だとすれば気持ちが悪いし、夢にしては質感がリアルだ。
なにかの病気なら、大変どころの騒ぎじゃない。見たことも聞いたこともない。
問題はそれ以外にもある。なにより痒いのだ。
痒くて痒くてたまらない。引っかこうとツメを立てるが、硬いエナメル質に阻まれて、掻き毟りたい場所まで届かない。
痒みが全身に広がってきた。悪寒が走る。ただ事ではない。
これはまずいと悟って電話を手に取り、救急車を呼ぼうとするが、口が上手く動かず声も出せないことを思い出し、手を止める。
病院は近い。歩いていける距離だ。わざわざ姿の見えない電話先で唸るよりも、直接行って症状を見せたほうが早いだろう。
そう思い立って、ぼくは家を飛び出した。
そして。こうやって急いでいる時に限って、面倒事が舞い込んでくる。
「いてっ」
少し乱れた衣服を着た3人連れの若者とぶつかってしまう。
「おいてめぇ、どこ見て歩いてんだよ」
やめてくれ、マンガじゃないんだ。この一大事に、そんなご都合主義的な試練に直面しなくてもいいじゃないか。
「あう、あうあっ」
ぼくは「ごめんなさい」と言ったつもりだった。口が開かなかったのと、喉になにか詰まっているような違和感があったのとで、全く言葉が出てこなかった。
それでも面倒事は裂けたかったので、何度か謝るような仕草を見せてから、すぐに病院へ向かって速足で歩き出す。
「はあ? おい待てやふざけんなコラァ!」
後ろから若者の叫び声が聞こえた。そして、タッタッという足音が聞こえたかと思うと。
背中に衝撃。どうやら、押し倒されたか、もしくは蹴りを入れられたらしかった。
「あうあうーじゃねーそコラぁてめぇ!」
若者はぼくの肩を掴んで乱暴に転がして仰向けにすると、胸倉を掴んでぐいと持ち上げてきた。
「ぶつかっといてその態度はなんだオラァ!」
おいおいなんだこいつは。確かにぼくが悪いのかもしれないが、それは言いがかりってもんだ。カルシウム足りなさ過ぎるだろ馬鹿か。
なんだか、イラッとした。
「とりあえずマスク外せば? ごめんなさいのひとつくらい、馬鹿でも言えるっしょ」
若者の連れが、へらへらと笑いながら言った。
「もっちろん出すもの出してくれるよねぇ?」
もうひとりの連れが言う。その舌を出す仕草には何か意味があるのか? ぼくはますます苛立った。
「ちゃんと謝れよゴラァ!」
ぼくの胸倉を掴んでいて若者がマスクに手をかける。
「む、むぐっ」
こんな恐ろしい姿はなるべく見られたくなかった。だからぼくは、マスクを抑えて抵抗した。
「むぐぅじゃねーよ、気持ちわりー声出すなおっさん!」
若者に殴られる。脳がぐらりと揺れ、視界が歪んだ。
ぼくが何をしたって言うんだ。理不尽さに憤りを感じた。どういうわけか、正さねばならないという言い得もしない正義感のような感情も、ふつふつと湧いて出た。
そして。抵抗も虚しく、マスクを引っぺがされる。
「あっ」
時が止まったようだった。
喋るたびにぼくへツバを吐きかけていた若者が、胸倉を掴んでいた手を離して数歩たじろぎ、その連れ達も不快なものを見るように目元を引きつらせる。
見られてしまった。この、歯がぎっしり詰まった口元を。ひび割れた顔を。
「うわなにこいつ気持ちワルっ」
しん。と静まり返る。若者も、ようやく事の大事さを理解してくれたか。
と、思いきや。
「ぎゃっはっははは! なにそれ気持ちワルっ! なに? 新手のメイク?」
「コスプレじゃね?」
「いやそれにしても半端だしキモすぎるっしょ!」
若者たちは、ただでさえ整っていない顔をさらに歪ませて笑い出した。
「いーっひっひっひ! ちょっとおっさん、ハロウィンは月末ですよぉ。もしかして日にち間違えて、慌てて家に帰ってるとちゅうなのぉ~?」
「なにそれ、はっず! 恥ずかしすぎるだろ、憤死するわそれ!」
「ひゃ、ひゃははは! はは! 腹イタイ、アホだこいつ!」
衝動に駆られる。よくわからない衝動だ。とにかく体を動かしたいという、欲求。無意識下からの警告か、はたまた指令のようだ。怒りが沸点に達し、目の前が一瞬だけ暗くなるときの、あの感覚に近い。
激しい悪寒。動悸が激しくなる。そして、また体が痒くなってくる。
「ねえ、それどうやってんの?」
ひとりの若者が腕を伸ばしてきた。ぼくの歯に、口周りに生えてきた歯に触れようというのか。
「やめとけ、触るとうつるぞ」
「こんなキモいのうつったら、人生の一大事だな!」
「せーびょーなんじゃね?」
「ああ! 安物風俗でうつされちゃった系?」
なんだ、こいつら。失礼な若者だな。満足な暮らしも真っ当な生き方もできない人間の屑のクセに。
「なあ。なあ。ちょっと待った。そのまま。写真撮ろうぜ、せっかくだし」
「ついでに動画撮ってどっかにうぷる? “ハロウィンの日にちを間違えたおっさん、赤っ恥”ってタイトルでさあ!」
「なあにそれおもしろっ。ウケんじゃね? ウケんじゃねっ?」
ひどいことを言う。それに……ああ、眠れないのと痒いのと、なにより無性に腹が立つのとで。もう我慢の限界だ。
こいつらに、おしおきしなくちゃ。
空を仰ぐように大きく首を仰け反らせて。
「……は?」
顎を若者の口にこすりつけるように、振り下ろす。
「え……?」
がぶり。
「イッ」
この口周りに生えている歯はメイクじゃない。本物の歯だ。一大事なんだ。焦っているんだ。困っているんだ。
邪魔をするな!
それを伝えたくて。口ではなく、口周りに生えてきた歯の方で噛み付いてやった。
「ぎ、ぎゃあああ!」
噛み付いたのとは違う若者が叫んだ。
「な、なんだよこいつっ」
噛み付いた若者の顔は、歯で隠れて見えない。両腕でぼくの顔を掴んで、足をばたつかせるようにもがいている。そうか、口に噛み付いたから声が出せないのか。
再び上を向くようにして離してやると。
「ひっひいいいっ」
男の顔は見るも無残に穴だらけ。口元からは血が噴出し、唇であろう肉片が、片側だけ繋がってぷらんとぶら下がっている。よかったな、大好きなピアスが沢山付けられるぞ。
「~~~~~~っ! ~~~~~~~っ!!」
声も出ないらしい。痛いのだろうが、傍から見ると笑いをこらえているようだ。
「はっ、ちょお、ばああっ! なにやってんのお前! なっ、はああっ!」
「ば、化け物! 助けて!」
驚き、慌てた様子の2人の若者が、お互いに抱きつくように腕を支えあって、ぼくから離れていく。逃げる気だ。
ダメだ。だめだだめだダメダ。ぼくはただ、ちょっと貴様らの見識を広めてやろうと思っているだけだ。そんな風に叫ぶんじゃない。まるでぼくが犯罪者みたいじゃないか。
やめろ。
そんなに大声を。
出すんじゃない。
歯に響くんだよ!
腕が痒くなった。かきむしってもいられないので、逃げる男に向かって振り下ろす。
がぶり。
肉と肉の間で何かを挟んだ感触がした。
「あっぎゃああ!」
逃げようとする男の腕を掴んだ。ふと自分の手の平を見やると、顔と同じように歯がびっしり生えてきていた。生えるのが早い。もう手の甲まで生えている。どんどん。どんどん。みちみちと音を立てて、肉を、皮膚を突き破って、硬くて白いギザギザした物質が、体の内側からせり出してくる。
生える歯は腕にまで広がって。肩。ああ、もう胸まで。
痒い。
全身が、とてつもなく痒い。
でも……。
「あっぎゃああ! 痛い! イタイ! 離せ、離せこの化け物ぉっ!」
なんだろう。この、感じ。
手の平だけ痒くない。
噛んでいる場所だけ、痒くない。
どろどろした、おそらく血であろう液体が滴る口元も。さっきまでの痒みがウソのように引いている。
「気持ちワルっ、う、うげええっ」
最後に残った男が、固形混じりの吐しゃ物をアスファルトにぶちまけた。汚い男だ。こいつも処理してしまおう。わるいこにはおしおきがヒツヨウダ。
ぼくは全身で男に噛み付き、咀嚼した。
「ぎゃっぎゃああっあああああ、あぁあああっ!」
皮膚を噛み、肉を千切り、骨まで砕いてやる。舌がないから味はしないが、かえってよかったかもしれない。とにかく、全身を襲っていた激しい痒みはウソのように引いていった。
なるほど。子犬なんかがものを噛みたがるのと同じ。生えてきた歯がうずいて、それで痒かったんだ。
ようやく苦痛から逃れる術を得た。ぼくは、嬉しくなった。こんなにカンタンなことなら、病院なんか行かなくてもいいじゃないか。そう思った。
住宅街の道のど真ん中に、かつてうるさく騒いでいた肉片を置き去りにして、ぼくは家へと戻る。
ぼくは正しい行いをしたという満足感と、沸々と湧き上がる言いようの無い高揚感に包まれながら、来た道を戻る。
どうして家から出たのかも忘れていた。
どこが家だったかもわからなくなった。
その日を境に、生きることがなにもかもどうでもよくなった。
これは病気ではないと思うようになった。
つまるところ、もしかすると、進化というものじゃないかと確信した。ぼくは人間を超越したのだ。
なぜならば、まずお腹が空かないのだ。口が開かないから何も食べることができないのだけれど、お腹は空かないし喉も渇かない。
次第に歯が生える場所は増えていき、とうとう全身を覆ってしまった。まぶたにも歯が生えて、目を開けられなくなった。だが、微塵も恐怖は感じない。体調も気分もいい。最高だ。
見えずとも、音や匂いでいろいろな物を判別できるようになり、睡眠も必要なくなっていった。
生命としての責務を超越した気分になって、むしろ心地よくなったくらいだ。
この歯の体は最高だった。多少動きづらくなるものの、慣れれば思った以上に動かせる。全身を鎧で包んでいるとでも思っておけばいい。
ぼくはなんだかとても強くなったような気分になって、優越感に浸るのだ。
人間をやめることがこんなにも気持ちイイことだとはおもってもみなかったどうしてみんなはもっとはをはやさないんだろうふしぎだな。
……。
時々ぼーっとしてしまうのは、きっと暇を持て余すからだろう。時には脳を休めることも必要だ。
問題といえば、やはり、時々酷い痒みに襲われることくらいだろうか。
そこで夜な夜な出歩き、何かに噛み付くようになった。この痒みを抑えるためには仕方の無い、唯一の方法なのだかラ。
だって、しょうがないじゃないか。痒くて痒くて仕方がないんだ。眠れないし、ひがな一日痒みに耐えていなければならない。ただ痒いだけだろうとバカにはできないぞ、そりゃあ発狂してしまいそうになるほどきついことなんだから。てめぇあんまりばかにするとかみすりつぶすぞにんげんふぜいが。
……。
いろいろ試してはみたんだ。
木材。プラスチック。鉄。コンクリート。なんにでも噛み付いてみた。噛み付き方にも工夫をした。どうすれば痒みが収まるかなって。だって、それだけが唯一の唯一の唯一の、の、の……なんだっけ。
そう。痒みという弱点だけが、唯一の弱点なのだから。ら。
でも、結局……。
どういうわけか、生き物を噛むのが、一番痒みが収まるんだ。皮が柔らかくて、毛の多くない生き物が良い。毛は歯に挟まって取れなくなって余計に痒い。ついでに、時々硬い部分があれば、噛みごこちに変化ができて飽きない。きさまのゆびうまそうだな。
……。
ああ。だから。
つまり。ぼくは。
人間を、噛みたい。
どうしても、どうしても。
人間に、噛み付きたくてしょうがない。
そういう生き物に、なってしまった。
最高だ。
ぼくはまともだし、大抵の馬鹿よりも立派で稀有で強くて尊い存在なのだから。
あくる晩。夜道をあるく一人分の足音が聞こえた。
女の匂いだ。
どうして匂いで判断するかというと、目まで歯になってしまって、見えなくなってしまったからだ。どうして匂いがわかるのかは不明だが、おそらく、鼻の穴はまだ開いているのだろう。
女は良い。柔らかい食感がたまらない。それに男よりも凹凸が多くて、それでいて丸っこくて骨が小さいから噛みつきやすい。
痒みを抑えるには一番都合がいい。だからぼくは、おんなが好きだ。
ぼくは息を殺して女に近付き、体を大きく後ろにそらせて、覆いかぶさるように体を丸めた。
いただきます。
がきん。
なにか、変な音がした。
「ったく。ようやくお出ましかい、通り魔さんよう」
見えたんだ。うっすらと開いた瞳から。紅色にたなびく、1本の光が。が。
「なんだてめぇ、見たことねえ面しやがって。野槌の類か?」
ぼくはかちかちと歯を鳴らした。口の中も、舌も、喉まで歯になってしまったものだから、声を出せないのだ。
それにまぶたまで歯が。歯がまぶたにまで生えてきたものだからもうどうでもいいはやくくわせろ。
ぼくはかちかちと歯を鳴らした。だって思い通りにならないとイライラするんだもの。くわせろ。くわせロ。
「チッ。どっかのホラーゲームの特殊感染者みてーなだな。気持ちワルっ」
この女はぼくを侮辱する。侮辱するやつは悪いやつだ。悪いやつは痛めつけてもいい。そうぼくがきめたからこいつころす。
ぼくは元々口であった場所をぱかっと開けた。口の中も、喉も、舌まで全部歯になっているが、こうする方が噛み付ける数も多くなる。それに、口の中は反り返った歯が所狭しと並んでいるから、一度噛み付ければ逃がさない。いちばんつよい。
腕も。指も。膝も。足も。首も。脇も。腹も。目も。
全てがぼくの口。全てがぼくの歯牙。全身が、痒くて痒くてたまらないんだ。歯の詰まり物が取れなくて辛いんだ。
お姉さん。ぼくを侮辱した罪だよ。ぼくはイライラしているんだ。だからおいしくいただきます。大人しく、噛みつかれてくれ。れ。
「ああ。なにかと思えば、歯か、ソレ? 全身にびっちり歯が生えるとか、どんな呪いだよ気色悪ぃなぁ」
ぼくの本気の姿を見ても、女は動じていない様子だった。
それどころか。
ぶちり。
変な音がしたが、ぼくは気にならない。
それどころか。か。
「おいおいしかも汚ぇぞ。石塊がいたるところに溜まりまくってんじゃんか。それに全体的に黄色いし。歯は大事にしろよな、歯男さんよぉ」
最初、女が何を言っているのか、全く理解ができなかった。
そして、気付く。
痛い。
なんだ、これ。
痛い。
まるで……歯を抜かれたみたいな。
「へぇへぇなるほど。ヒドロキシアパタイトを主成分とした有機物。こりゃ本物の歯だな。ご丁寧に神経まで通ってやがる」
自らの頬に触れる。
体中に敷き詰められていた硬いごつごつしたヒビが、一箇所だけ、大きな凹みになっていた。
歯が……抜かれた? なんだこれいたい。ふざけるないきたままゆびさきからかみくだくぞ。
「確かに、歯は人体で最も硬い部位だ。拳銃が相手ならともかく、並のナイフや包丁程度じゃあ傷をつけるのが関の山。今までは敵無し、最強の捕食者のつもりだったろうなぁ」
女の手の平で、じゃらりと音がした。いくつかのさいころを手の中で転がすような音だ。
「だがなぁ。どんなに化けても、所詮はヒト」
じゃらり。じゃらり。音が止まらない。増えていく。
なんだ。何が起こっているんだ。
ふとした拍子に、まぶたが開いた。歯が邪魔して開かなかったはずの、まぶたが。みちっと音を立てて、まぶたが目の裏にくっついた。
「あたしにとっちゃ、びっくり超人のソレと同義だ」
夜なのに、街灯の明かりが眩しかった。視界が真っ白に染まり、耳鳴りまでした。
そんな眩しい中で見えたのは、闇夜に逆巻く、紅の髪。
「悪いがかなり痛ぇぞ、恨むなよ。これもまあ、一種のお仕事なんでね」
女が伸ばす手には、赤くてころころとした塊が山を作っていた。塊は女の手から溢れ、次々と地面に落ちて行く。どういうわけか、その塊はどんどん増えて、当たった時のパチンコ玉のように雪崩を作っていた。まるで腕から湧いているように、塊が増える。まだ増える。増え続ける。
「日ごろの行いが悪かったと思って、諦めな」
そして、気付く。
その塊は、赤色に染まった白い何かだという事に。
それは血にまみれた歯。
まさか……。
自らの頬に手を触れる。
触れては、いけなかった。
痛い。
痛いイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイいアイアイアタタあああああああああああああああああああああああ!
全身を激痛が襲った。肌はぼこぼこに穴が開いて、皮膚はなく、どろっとした粘液と血に覆われていた。
全身の歯が抜かれている。なにかよくわからない、謎の力によって。抜かれている! ぼくの! 歯が! 全身を覆う! 歯が! 歯ぁああ!
「あえっ、ぁえっ、あぇっ、あ!」
のどの奥から、ゲロを吐くような音が漏れた。それが限界だった。
口の中まで痛みが広がったその時、ぼくは叫ぶことをやめた。声を出すことすらできなかった。皮膚という皮膚、知っている限りあらゆる触れることのできる体の部位が、引き裂かれるような激痛に襲われていたから。
痛みが脳を呼び起こす。繋がった神経全てが刺激され、ぼくに休むことも拒否することも許さない。電撃のように走る衝撃は、騙すことのできない事実として、脳に“痛み”という衝撃を伝えていく。“苦痛”という事実を刻み付けていく。
まぶたは目の裏に張り付いてしまって、瞬きをすることもできない。ぼくは自らの体から歯が引き千切られていく様を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
全身の皮膚を剥がされたようだった。動けるはずなどない。空気に触れているだけで痛いのに。
「あーあ。歯をちゃんと磨かないからそうなるんだぜ。あたしも人のことぁいえねぇけどな」
脳裏に焼きつくのは、炎のように揺らめく紅蓮の髪と、血のように赤黒く光る瞳をした女の笑顔。マンガみたいな、にっこり微笑。
痛みに耐えかね、薄れゆく意識の中。ぼくは彼女が、相手をしてはいけない存在だったと気付く。
あいつは……魔女だ。人間なんかが敵うわけない。悪魔と契を交わした悪女だ。
そしてぼくは、壊れてしまった。
魂の欠片まで、魔女に壊されてしまったのだ。
ぼくはただ、この痒みを止めたかっただけなのに。どうして。どうして……。
―――――
ブラウン管テレビにニュース番組が映し出される。
『本日のニュースです。まずはこの話題から』
『また違法ドラッグか。連続通り魔のあの住宅街で、まさかの事態です』
『“公園で男が意味不明なことを叫んでいる”などと近隣の住民から通報を受け警察が駆けつけたところ、男が錯乱した様子で叫んでいるのが発見されました。警察の説得も虚しく男が叫び続けたため、迷惑防止条例違反の容疑で男は現行犯逮捕されました』
『逮捕された男性は、「魔女に歯を抜かれた」「痒いのが痛くなった」などと意味不明な供述を繰り返しているということです』
『一部の情報によりますと、皮膚をはがしてしまうほど全身を掻き毟っていたため、病院に緊急搬送されたようです。男は現在も治療中ということです』
『えぇ、なんじゃそりゃ』
『警察は、違法ドラッグ使用の疑いや近日周辺を騒がせていた連続通り魔事件への関連を視野に入れて、慎重に調べを進める方針です』
『……えぇっと。なんなんでしょう。怖いです、よね?』
『そうですね。近隣住民の方の不安もますます広がっちゃうんじゃないですか。もし違法ドラッグが原因だとすると、余計に問題が広がっちゃうと思います』
『そもそも全身を掻き毟ったってどの程度なんでしょう? 叫んだくらいで逮捕されてしまうものなんですか?』
『えぇえぇまぁ、よっぽどうるさかったんでしょうねぇ。もしかしたら暴れたのかもしれませんねぇ。そうですねぇ』
『それにですねぇ。まだ通り魔事件とかかわりがあったかは不明ですからねぇ。その辺もしっかり調査してほしいとこですねぇ』
『あとですねぇ。精神鑑定なんかも重要になってくると思うんですよねぇ、ハイ』
『はい。近隣住民の方には今後も警戒を続けていただきたいと思います……では、続いてのニュースです』
『赤ちゃん元気いっぱい。先週パンダの赤ちゃんが生まれて話題の動物園からの話題で――』
「ああ、胸糞悪ぃ」
極牢亭にて。
肘をついて寝転がるコウの姿があった。
「これだから、人型の案件は嫌なんだ」
そして、せんべいに歯を突き立てながらぼやくのだ。
「まぁた厄介事に巻き込まれちまったよ。あーアホらしい」
ぱきっ。
「あたしの人生、いつになったら終わるんだか」
ぼりぼり、ぼりぼり。
メリッ。
奥歯に鈍い痛みを感じて、サーっと血の気が引くまで、あと2秒。