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霊-ミタマ-5 『八』

 朝早く。極牢亭の扉ががたがたと鳴り、1人の男が店に入ってきた。男はなんともやつれた顔をして、覇気がない。

「あのう、すみません。最近やたらと夢に蜘蛛が出てきて、困っているんですけど」

 とりあえず話を聞いてみると。どうやらこの男、大の蜘蛛嫌いらしいのだが、毎晩のように繰り返し見る夢に大きな蜘蛛が出てきて恐ろしいのだとか。それだけならただの夢で済ませられるのだろうが、夢は妙にリアルで、触れる感触や匂いまでも鮮明に覚えていて忘れられず、日常生活にまで支障をきたしてほとほと困っているのだという。

 寝覚めも悪く、毎日が苦痛で、神経がまいってきているそうだ。精神科に通って治療も受けているが、思うように体調がよくならず、藁にもすがる思いで極牢亭へとやってきたようだ。

「ああね。そりゃああれだ。ジョロウグモってやつだ」

 コウは不審がる様子も怪訝そうな素振りも見せず、肩膝を立てて座敷に座り、煙の出ていないキセルを吸いながら、ただ飄々と言ってのけた。

「結構有名だし、名前くらい聞いたことあるんじゃねえか?」

「ええ、昔話とかに出てきますよね」

「まぁな。イメージも大方あのまんま。大抵は水に関する腐れ縁さ」

「水……水……。子どもの頃に水泳を習っていましたが、特に事故を起こしたり、神聖そうな場所で泳いだ記憶もありません。思い当たる節がないのですが、どうして僕に?」

 首をかしげる男は頭痛がするのか、右のこめかみ辺りを抑えながら言った。

「相手が水への縁を持ってる場合もあるからな。まあ、本人に直接聞いてみりゃいいんじゃねえか?」

「え? どうやって?」

「どうって……」


「ほら、今も乗ってんぜ……肩に」


 ぱちくりと瞬きをした男は、「そういえば最近、左の肩が重いなあ」と思い返しながら、恐る恐るといった様子で、左の方へと視線を移す。

 そうしたら。

 本当に乗っているではないか。こぶし大の大きな蜘蛛が。

「ひぃ」

 男の口から、情けない悲鳴が漏れた。確かに、肩に大きめの蜘蛛が乗っていれば誰でもこういう反応をするだろうが、問題はそれだけではない。

 その蜘蛛の頭はなんと、人間の上半身を象っていた。人間の体は髪の長い女性のもので、衣服などは身につけていないように見える。そんな妖艶で美しい女体に、蜘蛛の下半身がくっついている。なんとも奇怪でおぞましい、得体の知れない生き物だった。

 それが、すぐ目と鼻の先にいるとなれば、悲鳴をあげるのも当然というものだ。

「い、ぃいっ!」

 手で振り払いたくもなったが、男は心底蜘蛛が苦手で、素手で触る勇気など出てこない。恐ろしいものを相手取る人間とは不思議なもので、見たくもないはずなのにどうしても視線を逸らせない様子でがくがくと膝を震わせ、呆然と突っ立っている。

「もし」

 さらに驚くことに。なんと、女性の姿をした蜘蛛が喋り始めた。その声は弱々しく、耳元で囁くような可憐な声色だった。

「貴方様はもしや、わたくしを退治なさろうとしておいでですか?」

 男はどう対応していいかわからず、ようやく視線を外してコウの方を見る。蜘蛛が肩に乗っている恐怖からか、首から耳元にかけてぞわぞわと不快な痺れを感じた。

 コウは何も言わず、ただ目を伏せながら肩をすくめる。男にはそれが「正直に答えろ」という合図に見えた。

 答えろ、とは言っても、相手は大嫌いな蜘蛛。しかも妖怪などという奇妙奇天烈な存在。この世のものとは思えないおぞましい存在を相手に、男は緊張やら恐怖やらで声も出せなくなった。ただ、こくこくこくと何度も頷いてみせるだけ。

「そうですか……」

 しゅん。と縮こまる女郎蜘蛛は、うなだれて、目元に浮かべた雫を拭った。

 どうやらこの蜘蛛、何かを悲しんでいるようだ。相手は蜘蛛といえ、女性の涙など見慣れない男は、戸惑いを隠せない。

 2人の男女の様子を見て、これでは拉致があかないと悟ったコウは、ぺちんと自らの太ももを叩いてから口を開く。

「なんなら理由くらい話してやったらどうだい、蜘蛛娘さんよう」

 女郎蜘蛛は顔を上げてコウを見やると、胸元に手を置き、自身を納得させるように頷いて、男の方を向き直る。

 男は咄嗟に、蜘蛛から少しでも離れようと顎を引いた。

 そんな男の様子にショックを受けた様子の女郎蜘蛛だが、顔を背けながら、ぽつり、ぽつりと語り出す。

「わたくしは、貴方様の前世の恋人なのでございます。とは言いましても、今の貴方様には、ぴんとこないでしょうが」

 蜘蛛が語り始めたのは、悲しい恋の物語。


 昔、身分違いの恋をした若い男女がいた。

 毎晩のように町外れの森で落ち合い、愛を育んでいた2人の若人だったが。

 ある日、密会が女の親にばれてしまい、離れ離れになってしまった。

 身分の低かった男は不敬罪で死刑。そういう時代だったのだ。

 女は悲しみに打ちひしがれて、滝に身を投げ、後を追うように死んでしまった。

 自殺という最大の罪を犯した女の魂は昇天することを許されず、長い時を経て物の怪へと変貌してしまったのだという。


「貴方様の姿をもっと見たいと想い目を増やし。貴方様にもっと触れたいと願い腕を生やし。貴方様の子を沢山腹みたいと考え腹を膨らませたのですが。そうしたら、このような醜い姿になってしまったのです」

 声を震わせる女郎蜘蛛。とうとう堪えきれなくなったのか、嗚咽を混じらせて、めそめそと泣き出してしまった。

「蜘蛛が嫌いとは露知らず、困らせているなど夢にも思いませんでした。貴方様を苦しめていたなんて、わたくしは……馬鹿な女でございます。どうか愚かなわたくしめを、叱ってください」

 男は少しだけ、蜘蛛になってしまった女に同情し始める。

 人は想像力というかけがえのない力を持った生き物だ。その力は、相手の感情を理解しようと努め、思いやるためにある。誰にだって、人情くらいあるものだろう。

「わたくしめが全て悪いのでございます。ああ、貴方様を苦しめることなど、わたくしには耐えられない。どうか、どうかお願いです。貴方様の手でこの醜い体躯を叩き潰し、この愚かなわたくしめを救ってください」

 女郎蜘蛛は男の頬に擦り寄って懇願する。

 の、だが。

「ひぃ、冗談じゃない!」

 男が下した結論は、拒絶であった。

「僕は大の蜘蛛嫌いだっ。さ、触るどころか、潰すなんて出来るはずがないじゃないかっ。こっちにくるな、離れろ、さっさとどっかにいっちまえ!」

 多少の同情は覚えても、相手は記憶もなく、覚えもない恋の相手。ただでさえ赤の他人であるというのに、それでいて嫌いな生き物の姿を模しているとなれば、多少の同情や共感でどうにかなるほど、世の中は良くできていない。

 悲しきかな。嫌悪は人類にとって、最大の防衛反応なのだ。思いやり、気遣い、慈しみ。そういった尊い感情を、恐怖や嫌悪といったものが、易々と踏みにじってしまう。

 それこそが、人類という弱い種族が、大自然の中で生き残ってきた方法であるから。

 人は理想を越えられない。だから、理想を掲げて、満足しようとする。甘い言葉だけでは世を渡っていけないと、心の奥底では知っているはずなのに。どうしても夢物語にすがろうとする。女郎蜘蛛という怪物は、そうして生まれた。ひとりよがりな理想を追い求めすぎた結果こそ、彼女の醜い姿に他ならない。

 この落差こそ、男と女を違わせる溝。生き物である男と、そうでない蜘蛛を引き裂く悲しき矛盾。

 コウの瞳がぎらりと光った。

「そ、そんな!」

 女郎蜘蛛は、男が放った拒絶の言葉に耳を疑った。

 目を見開き、わなわなと震えながら後ずさりをする。

「そんな……貴方様の下から自らの意志で離れるなんて、わたくしにができません! どうか、殺して! 貴方様の手で! 最後に貴方様の温もりを感じられるなら、わたくしはそれで本望ですから!」

「かさかさと動いて、気持ち悪いんだよっ。この化け物め! ああお願いです極郎さん。早くこいつを追っ払って下さい!」

「ひどい……。この糸で体を縛り付けることもできたのに。……貴方の人としての尊厳を敬って、あえてそうしてこなかった。貴方の行いも、言葉も、全てを受け入れるつもりで傍にいた。貴方にわたくしを受け入れて欲しかったから……なのに!」

 女郎蜘蛛の可憐だった表情が、優しかった声色が、急変する。

「これが貴方の仕打ちなのね! 酷い人……ひどいひと! わたくしはこんなに想っているのに、あの時の約束を信じて、何百年も信じ続けてきたのに! 貴方はわたくしを想ってくれない。気遣っても、慈しんでもくれない!」

 美しかった顔は歪み、まるで般若のような恐ろしい形相へと変化していく。

「酷い……苦しい…………憎いぃいいっ!」

 女郎蜘蛛は男の肩からぴょんと飛び降りると、みるみるうちに体を膨らませ、人間よりもふた周りは大きい、大蜘蛛の化け物へと姿を変えた。

 これこそが、彼女が長年蓄えてきた愛の結晶。なんとも醜く、歪んだ愛情の末路。

「狂おしいほど憎たらしい。でも。食べちゃいたいほど愛おしい。モう我慢できナイ。鋼ノ糸デ雁字搦メニシテ、貴方ヲ芯マデムシャブリツクシテアゲル!」

「ぎゃあ! 出たぁ!」

 男はどたんと尻餅をついて絶叫する。


「サア、ドロッドロに溶けテ。おナかの中で、一緒ヌィなりマせう」


 正体をあらわにした大蜘蛛の化け物は、女体を象った上半身の腹の部分をジグザグに引き裂いて、禍々しき大口を開いた。8本の節足をおぞましくうねらせ、狭い店内でもがき、ごそごそと男に迫っていく。


「まぁったく。愛も巡れば憎くなるってか。めんどくせぇったらありゃしねぇ」


 時が止まったかのような灰色の景色の中で。波紋のように囁かれた、紅のひと言。

「そんなに好きなら、鼻毛か耳垢にでも生まれ変わりゃよかったのさ」

 そう言って、コウは男の横に立ち、そっと手を前に突き出す。

 すると、目に見えない壁のような物が、2人の前に現れて、女郎蜘蛛の接近を拒んだ。

「いいィ! いいィィィいいいいいイイッ!」

 半狂乱になった女郎蜘蛛は、なんとか男に近付こうと、突進し、元は腹だった口をぱっくりと開き、足をばたつかせた。その様相はまさに化け物。怒り狂った害虫そのもの。

 あまりのおぞましさは、男に大きなトラウマを残したことだろう。

「まったく。蜘蛛ってのはさぁ、毒を持ってるやつ以外、大概が益虫のはずなんだがねぇ。どうしてこうなったんだか」

 悠長に構えるコウは、半開きの目で独り言のように呟く。

「おっと、そうか。女ってのは“毒づく”生き物だったな。こりゃ失敬」

 コウは人差し指と立て、虚空に8の字を描くようにくるくると回す。その空間に充満していた空気が混ぜられ、そしてこねられて、次第に質量をもっていくようだった。

「ああ、忘れてた。それとな、ボーヤ」

 形を得た空間は赤みを帯び、炎のような揺らめきと水のような流れを帯びていく。


「あたしを苗字で呼ぶんじゃねぇ」


 塊となった紅を、ぴんっと指ではじくと。目に見えない何かが射出された。練りに練られた魔力の弾丸が、鋭利な刃物のように、女郎蜘蛛の体へと突き刺さる。

「ギぃえア!」

 汚い悲鳴をあげる蜘蛛の体から、次々に血色のトゲが生えてきた。憎しみを燃やし、愛を凍らせる。紅の爆発。

 紅が、女郎蜘蛛の灰色の体躯を焦がし、覆い、そして塗りつぶしていく。

「あぁ……ぁ……」

 最後の最後に残ったのは、人の形。かつてひとりの男に恋をした、麗しき女性の姿。


―― ごめんなさい……それでもやっぱり、愛しているの……。


 女は消えた。魂を覆っていた残痕は紅によって破壊され、ようやく昇天することができたのだ。この世に未練は残されていない。もう男を悩ませることはないはずだ。

 一方で。

 男には新たな感情が残った。愁いか、はたまた恐れか。あるいは、憐れみか、疑問だったかもしれない。釈然としない様子の男は、これから自問と自答を繰り返すことになるだろう。



 此度の依頼は、もう終り。客とも別れの時がきた。

「ありがとう、ございました」

「おう。もう2度と来んなよ、めんどくせぇから」

 男はコウの言葉に「はあ」だか「へえ」だか、歯切れの悪い気の抜けた返事を返すと、腑に落ちない表情をしながら、店を後にした。

 立て付けの悪い入口の引き戸が、何度かがたがたと揺れて開かれ、同じように引っかかってから閉じられた事を確認すると、コウは深く嘆息して、自らの肩を揉むように首を鳴らす。

「ハァ~ア。諸行無常たぁよく言うが、結局はぐるぐる廻ってるだけじゃねぇか。どうせあれだろ、来世つぎはあの男が蜘蛛に憑き纏うことになるんだろ。あー、アホらし」

 だらしなく畳みに寝転がって、手元のリモコンを操作すると、ブラウン管テレビに映像が流れ出す。


 しばらくすると。


 立て付けの悪い引き戸ががたがたと鳴り、新たな客が来訪した。今度は女性のようだった。

「あ? また客か?」

 コウは店の入口を見やる。そこにはなんともやつれた様子の女の姿。


「あの、すみません。最近やたらと夢に蜘蛛が出てきて、困っているんですけど」


 コウはぽかんと口を開ける。

「え……うそだろ?」

「ほ、本当なんです。細い糸で縛ってきて、体中を這いずり回るんです。そんな夢を毎晩のように見て、もう心が壊れそう。お願い、助けて……」

「マジかよ……」

 コウは咥えていたキセルをぽろりと落とした。


 どうやらこのお話は、末広がりの模様。


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