和‐ヒヨリ‐1 『幼馴染』
極牢コウの日常その1
その日の天気は快晴だった。
「あちぃ」
夏、真っ盛り。あまりの暑さにセミも鳴かない、うだるような気温の正午過ぎ。
風が吹いたかと思えば暖かく、水道から出る水はぬるい。日差しの中へ出ると、肌がちりちりと焼ける音がする。水瓶は枯れ、汗は止まらず、空気は温度差で揺らぐ。
まるで地獄の業火が漏れ出てきているような猛暑である。
「チクショウ。太陽の国だからって仕事しすぎだ! たまには有給でもとりやがれ、お日様よう!」
暑さに苛立つ極牢亭店主・極牢コウは、生活空間でもある店の奥の座敷の、そのまた奥の襖を開けて縁側に出て、八つ当たりをするように太陽に吼える。
誤って1歩踏み出しすぎて、階段状になった踏み石に素足を乗せると。
ジュッ。と何かが焼ける音。
「あっっっちいいいーーーーっ!」
右足を庇いながら、ぴょんぴょんと跳ねる。ひとしきり、居間を巡って戻ってくると。
「……あっっっちぃいぃ……」
溶ける。畳にうつ伏せで寝転がって脱力。吐く息すら、憎たらしく感じるほど熱い。体を動かすなどナンセンスと言えるほどの熱量。まさに殺人級である。
扇風機をつけても熱風が部屋を循環するだけで効果はなく。団扇や扇子など体力を使うものはもっての外。町で最も古い古民家でもある極牢亭には、エア・コンディショナーなるハイカラな機械は備え付けられていない。
「そうだ、氷、氷だ!」
この殺人的な熱気をなんとかできないものかと、思考したコウは台所へ向かって、魔法の鉄箱を開くが。
「…………」
からっぽ。肉野菜などの食い物はおろか、水の1滴も入ってない。そもそもコンセントが刺さっていない。
そりゃそうだ。さすがにこれくらいないと現代では生活できまいと買ってはみたものの、物の出し入れが面倒で、結局使わず仕舞いなのだから。いくら魔法の箱と言えど、入れる物を入れなければ出せるはずもない。
ならば。と立ち上がったコウは、手元にあった手ごろな物――此度の犠牲者は木彫りの熊さん――を引っ掴むと、再び縁側へと向かう。
そして。
「せいっ」
あろうとこか、木彫りの熊を隣家に向けて投げつけた。
くるくると回って真っ直ぐに飛んだ木彫りの熊は、垣根を越えて隣家の壁に当たり、ごちんと大きな音を立てた。
しばらくして。カラカラと窓が開かれる音がする。人がツッカケで庭先まで出てくる気配がすると、今度は「ハァ」と深いため息。
「コウ。用があるなら、せめて声をかけようよ」
現れたのはコウと同い年くらいの好青年。捲くられた袖から覗く二の腕は引き締まっていて、ゆったりとしたようで無駄のない洗練された動きは、なかなかの手練れであることを思わせる。
ひとつ残念な点をあげるとすれば、着ているTシャツに、でかでかと萌えキャラ+淫乱な台詞が描かれていることだろうか。明らかに、ゲームセンターか何かの戦利品。部屋着にしても酷すぎる。
「っていうか、どうして投げる? 熊さん、可哀想だろ?」
熊を掲げて首をかしげるこの男。名をソウヤと言った。
ソウヤはコウの幼馴染。骨董商・極牢亭の隣で、蒼狗流合気道道場・槙獄荘を管理する師範代でもある。
「そりゃてめぇ。返しに来させるためさ」
コウはいつもの如く、半開きの目をして言う。暑さのせいか、いつもと比べ、幾分か覇気は足りない。今にも口から魂が抜けて行ってしまいそう。
「いや。だったらこっちに来ればいいじゃないか」
「嫌だね。てめーが来い」
「こっちはエアコンもテレビもあるし、快適だよ? コウの好きな掘りごたつもある」
槙獄荘は、広々とした道場の他に、門下生を住まわせる借家、ソウヤの自宅、巨大な蔵まで備えた、一見すると公園のような敷地を持つ、大道場である。
一方で、コウが暮らす極牢亭はと言えば。一般的には価値もない骨董で敷き詰められた店と、四畳半の居間、台所に、布団が入るだけの押入れくらいのもの。2階もあるが、今や物置と化しており、人が入る余地もない。
広さも快適さも雲泥の差があった。
「うるせーっ! てめーが来い!」
ソウヤが語る事実を自慢と受け取ったコウは、子犬のように牙をちらつかせながら威嚇する。
「はいはい行くよ。行けばいいんでしょ」
余り気分を害すると後が怖いので、ソウヤは素直にコウの招待状を受け取ることにした。
「ほら、これ」
その前に、荷物になっては面倒だからと、ソウヤは木彫りの熊を渡すため、垣根に身を乗り出して手を伸ばす。
が。
「だから、返しに来いよ」
コウは縁側で腰に手を当てた姿のまま動かない。
「……。ああ、直射日光にさらされたくないのね。了解」
古い付き合いであり、気心の知れた仲であるソウヤは知っている。コウの他人を振り回す悪い癖と、その頑固な性格を。
どうせ言い出したら聞かないと、仕方なく、家を出てコウの待つ極牢亭へと向かう。
何が厄介と言えば。この2つの屋敷、庭が向かい合わせになって、2つの道に挟まれるようにして建っているものだから。家自体は近いのに、互いの家に向かうとなると、結構な距離を歩いて、反対側の道まで出なくてはならないことだ。
道場の敷地も広く、しかも真っ直ぐ伸びた道のど真ん中にあるときたものだから、結構な遠回りになる。垣根を乗り越えていけばいいのだろうが、精神論で成り立つ道場の師範代たるもの、そのような粗相を人前でできるはずもない。
おおよそ3分後。
獄牢亭の扉が、がらがらがっがら、と途中で引っかかりながら開かれる。
「遅い!」
居間には、苛立った様子で貧乏揺すりをするコウの姿があった。
「いや、来させておいてそれはないよね?」
滲む汗をシャツで拭いながら、ソウヤは店に入っていく。手には木彫りの熊を持って。
「はい、熊さん」
「おう。ごろきちー、おかえりー」
「……名前、つけてんだね」
案外ファンシーなとこがあるんだな。と、幼馴染の女の子らしさに驚くソウヤだったが。
「いやー、今日も元気に跳ねてんなぁ」
「……え? もしかして、熊じゃなくて鮭の方? 食われてる鮭の方に名前つけてんの!?」
「そだぜ?」
「変だよそれ。じゃあ、熊はなんて名前なの?」
「熊は熊だろ。何言ってんだ、お前?」
眉をしかめて、コウは言う。
「そっちが何言ってんのさ!」
やはり女子力など欠片もなかった。コウは控えめに言ってズボラな気質で、ソウヤが身辺の世話をしないと、掃除どころか飯も食わない女性だったりする。
「もう、いいや」
コウの不可思議発言は今に始まったことではないため、ソウヤは無視して話題を切り替えることにした。
この店はエアコンもなく、構造上熱気が篭って暑いのなんのって。とにかく、さっさと用事を済ませて帰りたかったのだ。
「んで。わざわざ呼び寄せたってことは、何か用があるんだろ?」
「おう!」
木彫りの熊をぽいっと投げ捨てたコウは、目を輝かせて頷いた。
「なんだい? さっさと済ませよう」
「アイス買って来て!」
「…………それ、さっき言ってくれれば、もっとスムーズに事が運んだと思うんだけど?」
「硬えこと言うなよ」
「そもそも、自分で行けば?」
「えー、暑いじゃんよ。だりーよ。ありえねー。こんな日に外出るやつはバカだな、うん。バカだ」
「呼び出したくせに、どの口が言う。……それに、世の中こんな状況でも必死に働いてる人がいるんだぞ。全国の労働者様に謝れ」
「涼しいとこでバカみたいに紙ぺらぺらめくってるだけだろ?」
「外回りの人だって大勢いるの! 頭使う人や、職人さんだっているの! 絶対怒られるよ、それ」
「聞こえてねーからダイジョブダイジョブ。それよか、はよ! アイス! 暑くて死にそうなんだ、だから今すぐ買って来い!」
ソウヤは「それが人に物を頼む態度か」とツッコミながら、やれやれと肩をすくめる。
「うちにチョコ板挟んだモナカならあるけど、それでいい?」
「やだ! かき氷がいい! それか棒のパッキンできるやつ!」
「……この期に及んで我侭を言う……。ああ、わかったよ。買ってくる」
観念したソウヤは「ん」と手を出す。
「この手はなんだ?」
「お金」
「貴様にくれてやる金はない」
「ええぇ……」
無茶苦茶である。それが彼女だ。
「いや、代金」
「立て替えとけ」
「世の中そんな上手くはできてないよ」
「偽札なら沢山あるんだが、それでもいいか?」
「ダメ、犯罪! 真面目にやってくれよ。不干渉の魔術師とまで謳われた、最強の魔術師だろ。お金くらいたんまり持ってるんじゃないの?」
「<これは神だ!>と書かれた紙切れを錬金術的に対価にしていいなら、それ使うけどな」
「なんかサングラスかけて宇宙人と戦うSF映画を思い出すな……。ダメだよ、そういう人を騙す魔術は」
「やんねーよ冗談だ。あ、あとついでにエアコンと薄型テレビとドンペリもよろしくな!」
「さらっと追加していい買い物じゃないよね、それ!」
「ちっ、ばれたか。じゃあドンペリじゃなくて焼酎でいいよ。芋な、芋」
「妥協点が違う! 一番安いとこだろそれ! ……っていうか安くねーよ!」
「暑苦しいなぁ。さっさと行けよ。暑苦しい筋肉ダルマめ。暑苦しいんだよ、このすっとこどっこい!」
「なぜか俺が怒られるし……。ハァ……行って来ます。ああ、お財布取りに家まで戻んなきゃ……」
美人な幼馴染を持つからと言って、必ずしも幸せではないという男の図。頑張れ、ソウヤ。
さらに小一時間後。
「だぁ、暑い」
寂れた田舎道を、とぼとぼと歩くソウヤの姿があった。手にはアイスと芋焼酎の入ったエコバッグ。
コンビニ? 街灯も少なく、信号も見当たらない田舎町に、そのようにハイテクな店があると思うてか。
いや、ない。
「……太陽さん、お願いだから頑張らないで。っていうか、雨雲仕事しろ」
陽炎が揺らめき、水溜りのような虚無の影を追いかけること数分。
「ん?」
急に周囲が陰りを帯びる。
天を仰げば、真っ黒な雲が太陽を覆い始めていた。
「おお! ナイスだぞ、雲!」
そう思ったのもつかの間。
何かがソウヤの頬を叩く。ぽつりと落ちた水滴は、まるで天使の涙のよう。
「……え?」
次の瞬間には。
視界も霞むほど、土砂降りの雨。
「うおおおおおーーっ、スコールぅううーーっ!」
大粒の雨が、激しくソウヤの頭を叩き始める。肌を焼くような日光を遮ると、お次は局地的な豪雨が襲い来る。異常気象もここまでくればたいしたものだ。地球の怒りか、はたまた人類滅亡の兆しか。疑いたくなる気持ちもわかるというものだ。
ソウヤは獄牢亭に向けて走り出した。
「くっ」
幸いにもすぐ近くまで来ていたので、エコバッグに水がたまる前に、極牢亭までたどり着くことができた。
「コウ、買って来たよ!」
引き戸に手を伸ばす。
がっ。
「……ん?」
がっ。
「まさか」
がっ。がっ。がっ。
「嘘だろ?」
がっがっがっ。ががががががががたがたがた。
扉が開かない。しっかり施錠されているらしく、引っかかる以前に微塵も開かない。
「おいコウ、ふざけるな! 買って来たぞ、アイスだぞ、おい!」
返事はない。どうやらコウは、出かけてしまったらしい。
「あんにゃろ~~っ! うそだろ本気か!」
しつこく言うが。極牢コウは、そういう女性である。我侭というわけではなく、自分の世界しか見えていない。よく言えば天才肌。悪く言えば自己中心的。
もちろん、世間一般では最も迷惑な人種でもある。
「このままじゃ、アイスも溶けるしなにより俺が辛い!」
いないものは仕方がないので、ソウヤはくるりときびすを返し、大きく道を回って自宅のある槙獄荘まで走った。
「ただいまっ」
宿舎の戸を開き、中へ駆け込む。
「ああ、もう。びしょびしょ。このまま凍らせたら不味いよなぁ、ああ、めんどくさっ」
中身を取り出してからエコバッグをひっくり返すと、ばしゃりとコップ1杯分ほどの水が垂れた。
「集中豪雨恐るべし、だな……」
体を拭いて、アイスを冷蔵庫に入れ、ようやく一息つこうとリビングまで足を運び……。
そして絶句する。
「おう、おかえりー。んな土砂降りん中帰ってくるたあ、バカだなお前」
エアコンをフル稼働させた涼しい部屋で、大きめの薄型テレビを独占し、且つ板チョコ入りアイスと柿ピーを食い散らかす。その者の正体は。
「つーかおせーよ。酒はどうした、酒はぁ」
極牢コウ、その人である。
「……。……ああ……はい……。持って来るね……」
それは特に苛立つ気候の、真夏の昼過ぎのこと。
これが日常。それが平常。
こん日は幼馴染日和。
「……ハァ……」