第一夜 夢
目覚まし時計の甲高い音が部屋中に響きわたる。恨めしそうにうっすらと目を開けると、その男は布団から手だけを出して手探りで時計を探し、音を止めた。目を擦りながらふああ、と一つ欠伸をすると、重い体を持ち上げてベッドの側のカーテンを勢い良く開ける。刹那、真っ白い景色が男を襲った。
「っ、まっぶし」
反射的に目を瞑り、逸らす。それに目を慣らす様に、ゆっくりと開いていく。
「……いい天気だな」
サンサンと照りつける太陽と見つめ合いながら、男はそう呟いた。
──その男は、成宮 蓮 という、近くの公立高校に通うごくごく普通の青年。成績は普通、運動も苦手ではない方、顔も……そんなに悪い方ではないと心の奥底で思っていたりする。少し癖のある黒髪で、いつも寝癖だと勘違いされるのが地味に辛い。
蓮は腹の虫を鳴らしながら一階のリビングに降りた……が。いつものように台所に立つ母も、コーヒーを飲みながら新聞を広げる父も、顔にパックを付けたまま身支度をする姉も、ボサボサの髪のままパンを食べる妹も、その姿はどこにもなかった。不思議に思ったが大層に驚く事もなく、もう皆出かけたのか、と軽く流していた。
物音一つしない家で黙々と身支度を済ませ、時計を見上げると針は七時四十五分頃を指していた。いつもより数分早く準備が終わってしまった。このまま家にいても仕方が無いので、少し早いが家を出ることにした。
蓮は自転車で約二十分かけて登校している。しかし今日は時間にゆとりがある。たまにはのんびり行ってもいいだろう。
周りを見渡しながら自転車を走らせていると、こんな家あったんだ、この店ってこんな古かったっけ、と普段は気付かないような所に目が行く。そういえばここを左に曲がると昔友達とよく遊んだ公園があったっけ、と思い出した蓮は、ちょっとだけ、と呟くと少しワクワクしながら左の道へ進んだ。
「うわぁ、何も変わってないな」
公園に着き、あまりの懐かしさに思わず声に出してしまった蓮は、慌てて辺りを見渡す。誰もいなかったようだ。ホッと一息吐くと、懐かしの地に足を踏み入れた。
──確かあれは十年くらい前。小学生の頃だ。あの時は近所の友達と学校帰りによく寄り道してこの公園で夕方まで遊んでいた。
低学年の頃はかくれんぼや鬼ごっこ、中学年の頃はドッジボール、高学年では野球をしたりした。学年が上がるにつれて遊びも激しくなって、ドッジボールで顔面キャッチして鼻血を出したやつもいたっけ。とても楽しかった記憶がある。
卒業式の前の日、中学生になったらこんな風にみんなで遊べなくなるから、って最後に野球の試合をした。大盛り上がりで両チームとも譲らない試合。最後の最後で俺達のチームがサヨナラ負け。みんな悔しくてボロボロ泣いて。この試合で負けたのが悔しかったって理由で今も甲子園目指して野球してるやつだっている。
最後にみんなで「六年間ありがとうございました!」って公園に向かって頭下げた記憶がある。地面に一人ひとりメッセージみたいなの書いたりなんかもした。馬鹿みたいな話だが、あの頃は本当に楽しかった。
蓮はそんなことを思い出しながら約四年ぶりに訪れた公園の中を歩いていた。背が高くなったからか、あの頃広々と使っていた公園が随分と狭く見える。
今でもここで野球をしている少年たちがいるのか、あの頃と同じ場所にホームベースとバッターボックスが書かれた跡があった。懐かしいなと思いながら、くすぐったい気持ちを楽しむかのようにあの頃の情景を思い出していた。
ふと我に返って時計を見る。ここから学校までまだ十五分はかかる。このままでは遅刻してしまうという時間になっていた。
「やっべ遅れる!」
焦った蓮が自転車の方向へ走り出そうとした時。足元でパキッという音が聞こえた。その音に釣られて視線を下に降ろす。
「……え」
蓮はそのまま固まってしまった。その目線の先には靴の下のまっぷたつに折れた木の枝、ではなく、またその先の地面。そこには『正』の字が、見覚えのある上下に区切られた表の中に並んでいた。
「これって……あの時の……」
そう。あの卒業前の最後の試合の得点表だった。でも、そんなはずはない。あの時から既に四年も経っている、こんな落書きなどとっくの昔に消えているはずだ。
よく似たものだろう。そう一瞬思ったが、その可能性はゼロに等しい。得点表の近くに、最後にみんなで地面に書いたあのメッセージもあったのだ。小学生らしい小汚い字で、きちんと『れん』と名前まで書いてあった。
全てあの時のまま。何がどうなっているのか。混乱した頭では分かるはずもなく。とりあえず落ち着こうと深呼吸をする。
思い返してみれば、今日はおかしなことばかり起きている気がする。あんな朝早くから家族が誰もいないなんてありえない。それに、ここまで来るのに誰一人すれ違っていない。犬の鳴き声も、カラスが飛んでいる姿すら見ていない。町だっていつもと何か少し違う。
一時は冷静になった頭も再び混乱し始めた。自然と息が荒くなる。
落ち着け落ち着け落ち着け……! こんな事が現実で起こるはずがない。じゃあなんでこんな事に、なんで、どうやって、どうして……!! これじゃまるで──
「ゆ、め……?」
微かに唇を動かして呟いた。刹那。ブワッという音と共に凄まじい風と光が蓮を襲う。反射的に顔の前で腕をクロスさせ、飛ばされないように必死に踏ん張る。体のあちこちに小石や葉っぱが当たるのがわかった。息をするので精一杯で、声すら出ない。苦しい。すると突然、風が弱くなり、ぴたっと止んだ。目を開けようとした瞬間、一気に風が吹いた。その衝撃で尻餅をつく。
「っ……!」
声にならない声が出る。前方から女のハイヒールのコツ、コツ、という音が聞こえてきた。見上げると目の前に何かが……今朝起きてから影すらも見かけなかった、人がいた。
「やあっと気付きましたか。知ってはいたけど、ここまで鈍感だったとは」
上品に口元に手を置いて、くすくすと笑う女。
「っ、だ、誰だ! ここはどこだ!!」
「まぁまぁ、そんなに警戒しないでください。落ち着いて。私は成宮 蓮さん……貴方の味方です」
「味方……?」
「はい、味方です」
そう言いながら蓮に向かって手を伸ばしてきた。掴まって立ち上がれ、という事であろうか。一瞬考えた蓮は、戸惑いながらも女の手を取った。
その女はスラッとしていて背も高く、どこかの民族の長が着るような衣服を身にまとっていた。
その優しい微笑みからは到底嘘をついているようには見えない。それに他に人間がいない故にこの女を頼る以外、どうしようもできない。
「少し、私の話を聞いて頂けますか?」
蓮は少し戸惑ったように小さく頷いた。ありがとうございます、と言って目を細めて微笑む女。気のせいかもしれないが、どこかでこの微笑みを見たことがあるような気がする。だが今はそんなことよりも女の話だ。
そう思ってもう一度女の目を見つめると、ふと女の笑顔が消え、無表情になった。瞬間に背筋がピンと伸びた。何が起こるのだろう。そう思うと次第に心拍数が上がってきた。無駄に大きな音を響かせる自分の心臓を片耳に、女の話を聞いた。
「率直に言うと、貴方が思っている通り、ここは夢の中です。でも、普通の夢とは少し違う。いわゆる明晰夢と呼ばれる夢です」
「めいせきむ……?」
「はい。簡単に言うと、今夢を見ている、という事を自覚している夢のことです。現に貴方は夢であると分かっていますよね?」
「その明晰夢がなんなんだ、もし本当に夢の中なら早く起きないと寝坊して学校に遅れるから手短に済ませてくれないか?」
「その点はご心配なく。この世界はあちらの世界と昼夜が逆転した時間になるのでまだ夜の8時頃です。まだ大丈夫ですよ」
女は少し首を傾げながらまたにこっと微笑みかけると、綺麗な長い髪が揺れた。
さっきの無表情はどういう意味だったのか。聞きたいことはたくさんあったが、取り敢えず女の話を聞くことにした。
この世界ではあちらの世界の事を現界、この夢の中だという世界の事を夢界と呼ぶという事を聞いた。蓮がいつも生活している現界で、いつものように眠っている蓮が、この夢界にいる夢を見ているそうだ。夢界では現界と同じように学校があるらしく、基本的に夢界のことはその学校で学ばなければならないらしい。夢の中でも学校に行かなくちゃいけないのは憂鬱だが、全く新しい生活が始まるようでそれはそれでいいかもしれない。
「──っとまぁ、取り敢えず最低限の事はお伝えしました。詳しい事は先ほど話した学校で教わってください。あ、最後に一番大切な事を忘れていました。この夢界の事は誰にも言わないでください。友人にも、恋人にも、家族にも……誰にも言ってはなりません」
「……分かった」
「あと、夢界で現界での自分を特定できるような事を言うのも禁止です。名前なんてもってのほかです」
「でも……俺の名前知ってたじゃないか。それはどういう事だよ」
「簡単に言うと私は夢界を治めているんです。夢界に誰がいるのか、それを把握する為にも私だけは本名を知っている必要があるのです」
「ふーん……」
大変な仕事してるんだな、と思いながら返事をした。いろいろ不明な点はあるが、学校とやらで教えてくれるなら大丈夫だろう。
「それともう一つ……」
「ん?」
「本名を晒してはいけないという事は、ハンドルネームのような、夢界での名前が必要になります」
「あぁ、そっか……」
「また明日、夢界に来た時にいろいろと書類が必要になるので、その時までに考えてきてください」
「分かった」
「それでは取り敢えず今回はお開きにしますか」
そう女がそう言うと、長い袖を振り払ってそれまでは少ししか出していなかった白くて細い腕をあらわにした。それに見とれているとそのまま女の手は蓮の顔を掴むかのように、目の前で大きく開かれた。
「おやすみなさい、良い夢を」
指の隙間から見えた女は微笑みながらそう言うと、目の前でぐっと拳を握った。その瞬間、蓮の意識はふと、途切れた。
第一夜、読んでくださりありがとうございました!
私、椿希の処女作となります。初めてのことでわからないことも多々ありますが、温かい目で見守ってくださると幸いです!
それではこの辺で失礼します。次回もよろしくお願いします!!