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遅くなりました。
(1月3日、誤字脱字訂正)
あれからどこを歩いたのか覚えていない私は、いつの間にか部屋に戻っていて。驚いた顔をするマールに声をかけることなく、マールが控えている部屋のドアをすり抜け寝室に入る。そして乱暴にドレスを脱ぎ捨てるとそのままベッドへと倒れこんだ。
考えれば考えるほど、思考はどんどんループする。こんなんじゃいけないと、頭ではわかってはいる。しかし考えをやめることはできない。
私は、なんのためにここにいるのだろう、と。
私は、ひどく脆弱な存在だった。他の魔族よりも弱く力のない、逃げ回ることしかできない下級魔族。だからあの当時、兄の加護を求めて水晶宮にやってきた。
いや加護なんか必要なかったのかもしれない。常に誰かに狙われる毎日は、兄が即位してからは収まったのだから。
きっとあの時は、愛情だけを求めて水晶宮に行ったのだろうと今ならわかる。帰ってくるはずのない兄の帰りを待つ、その1人きり毎日に嫌気がさしていたから。1人きりの毎日は本当に寂しかったから。
しかしシスカの姿を見て更なる絶望に襲われて。
気がつくと、この水晶宮でも私は1人きりだった。誰からも構われることなく、ただひっそりと時間が過ぎていく、そんな毎日。きっとそうやって、果て無い寿命を終えるのだろうと思っていた。
それなのに、知ってしまった。名前を呼ばれる喜びを。
アルヴィ様だけが私の名前を呼んでくれた。この水晶宮の誰もが知らない、私が孤独ではなかった時代の名前を呼んでくれた。両親や兄が居た、あの暖かい時代の名前を。
なのに私はまた、こうやって閉ざしてしまうの?
アルヴィ様のことを、シスカに釘を刺されたくらいで諦めて逃げてしまうの?
ううん、そんなのは絶対に嫌。今度こそ何かが変わるってわかっているのに、また逃げるだけの毎日なんて、そんなの絶対に嫌。
ふぅっ、と大きなため息をついて私は勢いよくベッドから降りると、そのまま脱ぎ捨てたドレスを着なおし寝室のドアを乱暴にあけた。するとオロオロとしているマールと目が合う。
あれからどうしていいのかわからなかったのだろう。マールは自分の部屋の戻ることもなく、どこか所在なさげにすとんと椅子に座っていた。
「い、妹様!?」
「ちょっと行ってくるわ」
「こんな遅くにどこへ行かれるんですか!?」
「……アルヴィレッド様の所へ」
「ダメです、行かせません!!」
私の言葉にマールはさらに目を大きく見開くと、ガシッと私の腕をつかんで自分のもとへと寄せて。そして今までに見たこともない、怖い顔つきで私のことを引き止める。振りほどこうにも、私の力はマールには及ばない。マールは貴族の出で、私よりも本来なら上位に位置する魔族なのだから当然だ。
「離しなさい、マール!」
「なりません!!絶対に行かせません!!!」
「貴女に私の行動を止める権利はないはずよ!!」
「いいえ、あります!私は陛下に、貴女のこと任されているのですから!!!」
ずきんっ、とマールの言葉に私の心が少し痛む。
わかっている。マールは私の本当の意味での臣下ではない。兄の命令でここにいるのだということを、頭では理解している。だからマールが本当に私の行動を制したいときは、陛下の名前を口にするのだ。今までの私なら、それで留まっていただろう。マールの言葉に、ほんの少しだけ痛む胸を無視しながら。
だけど。
私は自分から変わりたいと、変わらなければいけないと思っている。ここでマールに止められるわけにはいかない。
私は大きく息を吸うと、呼吸を落ち着ける。そして目を伏せ、いつもよりも少しだけ低い声を意識してマールに命令した。
「マール・ヴィクトール、その腕を離しなさい」
「!?」
そんないつもとは違う私の様子に驚いたのだろう。ビクッと肩を震わせると、マールの先ほどまでの頑なな態度が困惑したそれに変わってきた。……腕をつかむ力が変わらないところはさすがだけどね。
「離しなさいと言っているのが聞けないの?マール・ヴィクトール」
私の更なる言葉に、成す術をなくしたマールはそっと私の腕を離した。確かにマールは陛下に、兄に言われて私についている臣下だけれど。本当に私の行動を邪魔する権利があると言われれば、それは『否』だ。
下級貴族のマールが魔王の妹である私に逆らうということは、死を意味することなのだから。
腕を離してくれたマールを振り返ることなく、私は部屋から出ようと歩みを進める。しかしそんな私の背後で、マールがぽつりと呟くのが聞こえた。
「……ずるいです、妹様は」
「え?」
「いつもそうやって自分で納得して、わたくしには何も相談してくださらないんですもの」
いつもとは違うマールの声に振り向くと、そこには静かに涙を流すマールの姿があった。その姿に私の胸は、つきんと、先ほどよりも大きな音を立てて痛む。
マールのことは嫌いではない。むしろ好ましく思っている。孤独な毎日の中で、それでも心を捨てないでいられたのはマールが傍にいたからだと私はわかっている。例えそれが、マールの意思ではなく命令だからであっても。
ふうっ。
私が深くため息をつくと、マールの肩が怯えるようにびくんと揺れる。その姿にまた少し胸が痛むけれど、それを見ないふりをして私はマールのそばへと足を進めた。
「ねえマール、何故行ってはいけないの?」
そして私はマールに尋ねた。本来なら先にこれを聞くべきだったのだ。想いだけが先行して、何も聞かず命令してしまったけれど。落ち着いてマールに尋ねるだけでよかったのだ。マールが理由もなく、私の行動を制するわけがないのだから。
私の問いかけにしばらくマールは逡巡すると、ごくりと喉を鳴らして覚悟を決めたように声を出した。
「……妹様が、妹様じゃなくなる気がするのです」
「え?」
「いつも冷静で穏やかな妹様が、アルヴィレッド様によって変わっていくのが……怖いのです」
それは予期せぬ、マールの言葉だった……。