トンボ 9
「結局、恵理子に憑いてたやつが何をしたかったのか、私にはわからないんだ」
ぽつんと呟く真紀子は、寂しそうにも見えた。
無表情に言う彼女はいつもと違ってよく喋る。
そこで違和感に変わる。
よく、しゃべる?
つつつ、と鈴音の頬を汗が伝っていった。つまり目の前にいる真紀子は、真紀子であって、違うモノなのだ。『バグ』という、何かの童話の人物に寄生された別の存在なのだ。
「三田村、『バグ』がとり憑く人間っていうのは決まってるんだよ」
「え?」
「『バグ』は……そこで働いてる人も、利用者も含めて……負の感情が強い場所に発生するんだ」
ロッカーでのあの秘密の会話がよみがえる。
水原沙織と、真紀子の会話だ。
インセクトが来るということは、そこの図書館は落第という意味らしい。
「三田村は知らないだろうけど、インセクトが来た図書館は、一新される。方針も、職員も、すべてね」
「……うそ、ですよね」
「嘘じゃない。つまりは、やつらが来た時点で、そしてこうして『バグ』が出た時点でこの図書館は『終わった』。新しい図書館にするためにやつらは来る」
「そんな! だって、尾張さんたち、がんばってきてたじゃないですか!
ひどいお客さんがきたって、みんなで……みんなで……」
「三田村」
静かに真紀子が呟く。
ぎくりとしたのは、なぜなのか。
「ここで働いてる連中が、この図書館を大切にしてるわけないでしょ」
愕然とする言葉だった。
それもそうだろう。恵理子の自殺の原因のことを考えれば。
「す、すっ、少しも、愛着はないんですか?」
「愛着はあるけどね、長く働くとね……空しくなってくるの。そりゃ、主婦のこづかい稼ぎにはちょうどいいと思うけど……ここをもっとよくしたいと思ってもそれが叶わないのがわかるとね、諦めるしかないじゃない」
諦めた先には、なにもない。
恵理子も真紀子も、ただ本が好きでここに残っていただけだ。
図書館は臨時のような下っ端の意見でどういうなるものではない。上の言うことを素直に受け入れるしかない。
だから。
うるさい子供を叱ってと言ってくる利用者に、曖昧に笑うしかないのだ!
絶望が鈴音の心を占めた瞬間、真紀子が目を細めた。鈴音の前に、学生服が在る。
あるはずのない、黒い詰襟の学生服の少年の背中。それは……歪みを正すためにきた、終わりを告げるための、使者。
「三田村さん、負けちゃだめだ」
まける? なにに?
意味がわからずに混乱する鈴音には、見えない。真紀子の姿が見えない。唯月の背中のせいで、見えない。
「平日なのにこんな朝からご苦労さまだ」
「……三田村さんがいないって」
「ああ、そうか。鈴音はまだ中途半端なんだね。そっか。それで気づかれたってこと。
ここで戦うとか、べつにいいけど」
挑発的に言う真紀子の声に、鈴音は動けない。
戦う?
もうすぐ開館時間じゃないのか? ここは時間も関係なかったっけ? どうだったっけ?
「私は恵理子みたいにはいかないよ!」
叫びと同時に爆風が起きた。唯月が鈴音を庇ってくれたが、それでも髪がぐちゃぐちゃになった。
唯月に抱きしめられるような格好になっていたが、肩越しに見えたのは帽子をかぶった少年の姿だった。少年? いや、あれは真紀子だ。真紀子が奇妙な形の鋏を持って崩れた棚の上に君臨するように立っていた。
鋏がぐにゃりと熔けた。
どろりとなり、そのまま二人を捕まえようと細長い棒状になって襲ってくる。ああ、あれはもしや、鳥かご?
唯月は素早く眼帯を外そうとするが、その手を棒が貫く。
「っぐ」
「おっと。見たところ向井くんはトンボのインセクトなんだろ? その『目』を使わせるわけにはいかないなぁ」
貫かれた掌が、上へ上へと引っ張られる。そこから赤い血がぼたぼたと落ちている。
「むっ、向井くんっ」
悲鳴のような声を鈴音が出すと、真紀子が笑った。
「三田村、どっちの味方なの。そいつはインセクト。私たちの場所を奪いに来たんだ」
「だ、だ、って……」
声がどもる。心臓がばくばくと鳴り、鈴音はずるずると上へと引っ張り上げられる唯月にどうしたらいいのかとおろおろした。
「向井くんは人間、じゃない」
あれ、でも。
じゃあ真紀子は?
どっちも、ほんとうは。
目を大きく見開く。肩越しに唯月が見てたのだ。眼帯が、なくなっている。奇妙な模様のある、そう、昆虫の瞳。
ドン! と唯月が次の瞬間床に叩きつけられた。自在に動くことが可能な鳥かごは変形し、唯月を標本の蝶のように床に張り付ける。
「インセクトって、もっと強いと思ってたけど、そうでもないんだ。拍子抜け」
あれ、このセリフって。
(各務さんも言ってた……)
何かがおかしかった。
唯月は痛がる様子を見せないし、真紀子は勝利を確信している。なんてちぐはぐなんだろう。
両目を唯月が閉じた。
「尾張真紀子さん。あなたの目的はなんですか? こんなことをしても、あなたには意味なんてないはずだ」
「確かに意味はない。私はもう、見限られてるんだから」
「あなたたちはみんな、『終わり』を決めているから……オレ、嫌いなんですよ」
呟きと共に唯月は両目を閉じた。そして開く。瞳の色が両方変わっていた。奇妙な模様はない。ただ、あるのは一対の毒々しいマダラ色の瞳。
「おい、オレはイヅキみたいに優しくねえぞ」
突然口調が変わった唯月が飛び起きる。全身に突き刺さっていたはずの棒が、折れていた。
空中に散る棒を真紀子は自由に動かして手元に集めようとする。よりも早く、唯月が真紀子の背後に居た。
「戻れ、本に」
「っ」
唯月の手が真紀子の首に伸びたと思ったら、真紀子は素早く帽子についていた宝石を回した。真紀子の姿が消えてしまう。
「自在移動だと……? じゃあ、あれに憑いてるのは」
まただ。一瞬で世界は元に戻る。
思わず尻餅をつく鈴音に、眼帯をつけた向井唯月が手を伸ばした。
「大丈夫ですか、三田村さん」
「……どうして、向井くんがいるの」
「……少し、用事があったので」
ためらいがちに言う唯月の言葉が真実か違うのかがわからない。
戸惑いながら手を掴んで立ち上がる。開館準備をする臨時たちがカウンターで笑い合っている。……仕事はできるが、ああやってかたまってお喋りに花を咲かせるのは苦手だ。
鈴音がいる開架の場所には幸いほかに人がおわず、唯月の存在は他の臨時職員には気づかれてはいないようだ。
安堵しながらうかがう。
「向井くんも、尾張さんも、きちんと説明してはくれないんだね」
小さく洩らすと、彼はちょっと困ったように眉根を寄せる。
「……三田村さんは……言わなくても気づきます」
「意味、わかんない……」
なにそれ。意地悪。
唯月は時計を見てから慌てて廊下に通じる戸口へと向かった。開館時は閉めている非常口だ。
逃げた、と鈴音は歯がゆく思う。
「三田村ー、開けるよー」
真紀子の明るい声にハッとして振り向いた。
背後に立つ真紀子にはどこにも異常さはない。けれども彼女はもう変わってしまったのだ。
「……そんな怯えた顔しなくても、危害は加えないって」
にこっと笑う真紀子の表情に怖がる要素などない。けれども気づいてしまう。真紀子はこんな『笑い方』をしない人だ。ダレなのだろう。
「尾張さんを、どこへ……やったんですか」
震える声で尋ねると、真紀子は目を丸くした。
「ふふ。乗っ取られるのは聞いたかもしれないけど、でも、尾張真紀子はどこへも消えない。ここにいるよ」
それよりもさ、と真紀子は続けた。
「向井には気をつけなよ。あいつは『トンボ』だから」
トンボと呼んでくれと唯月はそういえば言っていた気がする。
真紀子はくすくすと笑った。
「私の知るインセクト『トンボ』は、ちょっとイメージ違ってたんだけど……本物の『トンボ』なら、三田村はもうあいつに近づかないほうがいいと思うよ」
「?」
知らない情報ばかり。
どうしてなんだろうと鈴音は俯いた。開館しまーす、と誰かが叫ぶ。一斉に窓口につく臨時職員のメンバーたち。だがこの中に、正職員は一人もいない。
*
軽自動車に戻ってきた唯月の様子に、江口は「おかえり~」と迎え入れた。
助手席に乱暴に座った唯月の不機嫌さに江口は笑う。
「あらあら。けっこうやられちゃったみたいだね」
「……仕方ない」
「そうだねぇ。力を使えるナビゲーションが壊れてるもんね?」
「……壊れてない。ちょっと、調子が悪いというか」
「毎回のことだけどさぁ、唯月くんてどうしてそうなの? 『アゲハ』を見習ったらどうよ?」
呆れる江口を唯月が睨み付けた。普段は無愛想なだけに迫力がすごい。江口は「おおぅ」と奇妙な声を発して唯月から距離をとる。
「鈴音ちゃんのこと好きなんでしょ?」
「っ」
ボッと音がしそうなほど唯月の顔が真っ赤に染まっていく。耳まで赤くした彼は「ち、ちがう」と弱々しく否定した。まったくもって、説得力のない否定だ。
「……でもさ、ほんと考えたほうがいいよ。尾張真紀子さんは、たぶんちょっと変わった『バグ』だろうし」
「?」
「盗聴してたことを自分なりに咀嚼したんだけど、彼女はもうこの図書館を見限ってるんだよねぇ」
「……逆、だろ。『バグ』は自分たちの場所を守ろうとする。巣を守るのと同じ防衛本能が働くはずだ」
「ここの人たちはかなりの難敵みたいだねぇ」
背もたれに全身をあずける江口は続けた。
「尾張さんの目的がわかったのか?」
恵理子は苦情を言ってきた相手への復讐だった。では尾張真紀子は?
「尾張さんはたぶん、全部壊すことが目的なんだと思う」
「壊す?」
「彼女はいい加減今の生活に終止符を打ちたいと思ってるみたいだね。それに……職員の説得はちょっと聞いてて呆れるっていうか」
「? どういうことだ?」
「尾張真紀子に残されたチャンスはあと一回だと脅しながらも頑張れというのはさ、健常者への忠告だよ。
たぶん、あの職員と、尾張真紀子はタイプの違う病状なんだろうな」
「唯月はさ、次に苦情がきたら解雇だと思って頑張れるかい? 仕事だからって」
「それは……難しい。オレはインセクトだ。これしかできない」
「そこなんだよ。彼女はとても現実をみていると思うよ。次がないと脅されたならすることはひとつだ、次の職場を探す。今の職場を見限るんだ」
「…………」
「それがすごく難しいことだって尾張さんはわかってるから、余計に苦しんでるんだと思う。自分の経験がゼロになるんだ」
「江口」
「尾張さんはね、職員の人に、次に苦情がきても尾張さんに非がなければそこでゲームオーバーだと思わないようにと言ったんだよ」
唯月はその残酷さに表情を硬直させる。
インセクトの自分に同じことが言われたらどうなる? ゲームオーバーじゃない? いいや、終わりだ。そこで本当に『終わって』しまう。
「わかってないねえ。まあ、同じ症状になった人しか尾張さんの気持ちはわからないから仕方ないけど。だって、彼女はうつではなく、おそらく躁鬱に近いんだ」
「躁鬱って、あの、感情の落差が激しい……」
「まだ軽度だけど、その傾向はあるね。車道に飛び出したいとか、橋から落ちたいとか……言ってる『だけ』だと思うだろ?」
「……思わない」
唯月は真紀子の瞳を見た。あの危うい瞳を先ほど見てきたばかりだ。
彼女は冗談めかして言うだろう。死にたいと。あそこから落ちれば死ねると。