トンボ 8
ちがう。そうじゃない。
そんな綺麗なことを言われても、真紀子は「そうですね」と笑うだけで誤魔化した。
なぜなら、もし誰かがきちんと真紀子を見ていたら八木沢はあんなことは言わなかったはずだからだ。
つまりは、真紀子の対応を想像でして、忠告してきたにすぎない。
真紀子が大勢の来館者をいちいち覚えているわけがない。冷たく対応したかもしれないが、子供相手にかなりきつい応対をするとも考えにくかった。
「次はないって言われて、それで尾張さんのやってきたことが全部なくなるわけじゃないと僕は思います」
綺麗ごとだ。
経験値はたまっても、解雇されればそこでおしまいだ。新しい職を探すのにも時間がかかる。
それほど貯蓄もない。多くの希望を出さなければすぐに見つかるかもしれないが、それでも不安は大きい。
守ってくれていた母はもういない。どれほど辛くても仕事に出ろと医者は言う。
怖さを克服するには確かに己でなんとかするしかない。職員や同僚は、休んだほうがいいという。しばらく休んで気分を変えろと。
どちらかといえば、真紀子は後者をとりたい気分だった。
長時間の緊張で窓口に立っていると微熱は発生するし、家に帰れば疲れて今度は食事を抜く。
これでは倒れて病院行きになってしまう。病院に行けば治療費がかかる。
借金問題を抱えてから、真紀子はお金のことばかり考えるのが本気で嫌になってきた。
この世に未練などたいしてないが、それでもなんとか生きているのは趣味があるからだ。
馬鹿にされるかもしれないが、真紀子はゲームが大好きなのだ。本も好きだが、ゲームもだ。
新しいゲームを買うにはお金がいる。だから働くという循環が真紀子の中には出来上がっていた。それがなければ、真紀子は恵理子などよりも早く死んでいただろう。
ベッドで横になっていた真紀子は、視線を動かす。
「ほらね。絶望しかない」
「……チルチル」
「青い鳥は君にはいないんだ。見つけられない。青い鳥だった母親はもう死んでしまっていて、誰も守ってくれない」
「ふふ」
小さく真紀子は笑った。
「あんた見てたから知ってるよね。見てるって。見てる人は必ずいるから、庇ってくれる、守ってくれるって」
「そんなこと、嘘だってマキコは知ってるよね」
「わかるに決まってるじゃん。子供じゃないんだし」
「誰かが見てるなら、マキコへの苦情にあんなこと職員は言わないもんね」
にこっと笑う少年は悲しそうに見つめてくる。
「マキコはエリコが『バグ』にやられたって知ってるんだよね」
「……それしか考えられないし、こうしてあんたの姿も見えてるしね」
つまりは。
「自分も、『バグ』ってことだよね」
起き上がってから、真紀子は笑う。
「私は恵理子とは違う。ねえチルチル、何ができるの? どんなふうにすればいいの?」
内側からチルチルの声が聞こえた。ふうんと真紀子は応じる。
**
鈴音はしばらく休んでいた真紀子が出勤してから、彼女が落ち込んでいるのに声をかけられないでいた。
何かがあったのはわかるけれど、それだけだ。鈴音は元々、ほかの臨時職員と親しいわけではない。
元々無口だった真紀子はさらに無口になり、窓口に座るとそのまま座って、やってくる客に備えるだけになった。
出勤して二日目だった。
(?)
何かがおかしいと鈴音には思う。それは、彼女の雰囲気とは違う……なんというか、よくわからない意味で。
瞬きひとつ。
それだけで、周囲の風景が真っ白になった。
鈴音はこの空間を知っている。ここは歪んだ世界、あるはずのない……世界。
「こ、ここ……」
配架する本を持ったまま、硬直する鈴音は周囲を見回す。開館前のこの時間帯は、真紀子が率先して動いてた覚えがある。てきぱきとカレンダーを変え、準備をすすめていくのだ。
だというのに。
この異空間にいるということは、『バグ』がやはりいるのだ!
どこにるのだろう。近くにいるのだろうか? 距離はわからない。というか、この空間のこともよくわかっていないのに。
ひと気のない館内を歩く。ここに存在できるのはおそらく『バグ』に関係しているモノだけだろうから……。
「三田村」
真紀子の声に、ハッと振り向く。両手で抱きしめるようにして持っている本に力を込めた。
真紀子は普段とまったく変わらない。痩身の体躯は、すらりとしているというよりも、栄養が足りていないようにも見える。
「あなたもこの白い世界にいるってことは、『バグ』?」
それとも。
「近く……なっているのかもね」
「ちかく?」
「平日はインセクトがいないから楽でいいけど、逆に困るのにあなたは気づいていないのね」
「尾張さん……『バグ』なんですね」
「まあね」
平然と言う真紀子は、普段と変わらない。
彼女の姿はまったく変わっていないし、何も変化がない。だからこそ不気味だ。
整然と並ぶ棚の間を真紀子は歩いてくる。腕を組み、悠然と。まるでこの空間そのものに馴染みがあるとでも言いたげな……。
「あの、尾張さん、『バグ』ってなんなんですか?」
それが根本的なことだった。なぜならば、おそらく……向井唯月とバグたちでは、完全にみているものが違うはずなのだ。それは人間で言えば、個々の正義や理念のように。
真紀子は視線をふいっと動かして、すぐ横に設置された読書用のイスにどすんと腰掛けた。
知ってどうするのかなど、真紀子は無粋なことは言わなかった。ただ、「なんだろう」と呟いた。
「この場所にいるってことは、恵理子にも憑いてたことは知ってるわけだ」
「はい。それが……初めてです。急に世界が真っ白になって、各務さんの姿が、違っていました」
「そう」
正直に言ったのは、真紀子に嘘をつきたくないということもあったが、信用されたいという願いもあった。
真紀子の姿は変わっていない。だが彼女は向井唯月をインセクトと確信している。自分よりも状況にも、何もかも詳しいのだ。教えてくださいと素直に頭をさげた。
「確かに、『司書』では応えられない。なぜなら、『資料』がないから」
苦笑する真紀子は椅子の背もたれに大きく体を預けた。
「向井が来た理由はわかってる。この図書館は『バグ』がでるほど『ひどい』ってことだから」
「それが、よくわかりません。ひどいことと、なぜバグが繋がるのか」
「簡単に言っちゃえば、妖怪とか、ほら、つくも神とかあるでしょ。ものの変化した姿、思念の塊とか?」
「?」
「三田村さぁ、ここに勤めて思うことない? がんばっても、ムダだって」
「っ」
ぎくっとした。
まだ数ヶ月の鈴音でさえそう感じてしまうのだから……長くここにいる真紀子は相当強く理解しているはずだ。
報われない、と。
「土日も祝日も返上で働いても、休日出勤手当てがもらえるわけじゃないし、来館者は増えるから体はくたくた。しかも、図書館使ったことない連中が多いからうるさいし、人任せが多すぎる」
「……それは」
「給料もあがらない。しかも、市の契約だから一回雇用切られて、また採用されて、有給全部リセットされて。そりゃね、いいお客さんはいるよ」
「はい」
「でも、いい客は記憶に残らない。悪い客は残るけどね」
その通りだ。
「私の知り合いにデパート勤務の子がいるんだけどさ、五千円しか出してないのに、一万出したって言い張る客いるんだってさ。でもさ、そこはデパートで信用を重視するから客の言うこと聞いちゃうの」
「それって……犯罪じゃないんですか?」
「犯罪だよ。でも目ぇ瞑るわけ。信用が落ちるほうが痛手なんだってさ。
バカだと思わない?
そういうことする客に、信用があるわけないじゃん。言うことなんて、誰が信じるのさ?」
「尾張さん……」
「監視カメラでもつけとけば一発じゃない? でもそれをしない。うちの図書館だってそう。迷惑な客は来るけど、警備員置いてほしいっていう下っ端の意見は通らない。『予算がないから』」
ふふっと真紀子は小さく笑う。
「どんな会社だって予算はないもんだと思うけど。でもその中で、いいようにしていこうって努力していくものでしょ? でもここは、しない」
「…………」
「臨時の意見は、まったく聞き入れられない。私たちは上からの無茶な言い分を受け入れるだけなんだから」
「それは……はい、わかります」
回覧板がまわってきた時、鈴音は不思議になったものだ。新しく試みたいという事案がそこにはあったが、やってみたいひとを募集ではなく、職員も臨時も強制参加が義務になっていたのだ。
しかも、そのために必要なものを作るのもなぜか臨時の仕事だった。いいやあれは、善意でやっていたと言ったほうがいいかもしれない。
「あんたがまだいない頃ね、開館時間1時間延ばしたことがあるんだ。お試しってやつ」
「え?」
「結果どうだったと思う? 新しい利用者の獲得にはならない。常連が居座り続けるだけで、変化なし。おまけに私たちは変則的な時間勤務にあわせて大変だった」
意味がなかったと、真紀子ははっきり言い切った。
「その代打で祝日に今開いてるわけだけど。まあ、確かに利用者にとってはありがたい話だとは思うわけ。でも、土日がつぶれてんのに、祝日まで付き合わされる身としては給料あげろって思うじゃない?」
鈴音も、利用者は喜んでいますと胸を張りたかった。だが、来館する利用者たちは図書館がどんなところで、なにを目的とするところなのか理解をしようとはしない。
涼める場所。暖かくすごせる場所。お金を使わなくていい場所。無料で本が読める場所。
「ほら、よく怪談話にあるじゃないか。多くの人間が集まる場所には、それ相応の思いや、念がたまるって」
「気持ち、ってことですか?」
「ファンタジーだと思うだろ? でもそうなんだよ。ここは多くの本が集まる場所。そして人が集まる場所。
本に思念が宿らないなんて……誰も言っていない」
「……本は読者を大事にするんです、よね?」
「そうだよ。それに、長く読まれる作品は特に」
あかずきんのことが浮かんだ。
真紀子は立ち上がり、それからゆっくり歩いた。慌てて鈴音はそれに続いて、一階の自動フロアへの階段を下りていく。
上から見下ろした児童フロアは確かに親子向けではあるつくりだが……誰もいないならばなかなかいいと思える空間でも、母親たちの井戸端会議の場所になるとわかっているから鈴音にはいい光景には見えなかった。
「あそこにある絵本のコーナー。恵理子が大好きな本があるんだけど」
「……あかずきん、ですか?」
「よくわかったね。うん、そう。同じバグでも、私はあかずきんは見えない」
ミエナイ。
その言葉に鈴音が怪訝そうにする。
「物語って、そこで終わってるんだよ、三田村。入り口があって、出口はないの。入ったらそこでおしまい。
わかりやすくいえばね、入り口が出口なんだよ」
「よくわかりません」
「うん、ちょっと今のは私も難しかったかなって思ったよ。本はさ、表紙を開いて読み手を引き込むでしょ、で、終わると表紙をパタンと閉じる」
いりぐちと、でぐち。
「私に憑いてる『バグ』は、恵理子のやつとは話がまったく繋がってない。つまり、本ってのはね、シリーズを除けば1冊ですべてが完結してる『世界』なんだ」
「この、白い、世界は……まさか」
まさかと鈴音の表情が歪む。
閉じた世界。あるはずのない世界。そう、つまり『ここ』は。
「物語に通じる『トンネル』の中なんだ」
入ってきて、出る。でも、その先に待ち受けているのは……本の中の世界。ここを通ってあかずきんは恵理子の元へとやって来たに違いない。
ではなぜこんな場所が存在できるのか。
「さっき言ったじゃん。たくさんの心が、念が、気持ちが、すべてが混ざって……『バグ』になるんだ」
「尾張さ……」