トンボ 6
意味がない。
そんなふうに聞こえて唯月は悲しくなる。
鈴音を送ったあと、結局……そう結局はまた戦う羽目になったのだ。
恵理子が狙っている相手の家に現れてしまったから。
満身創痍状態で追い返したが、そのあとすぐに恵理子が自殺するとは思わなかった。しかも、彼女は前々からその準備をしていたのだ。
唯月は左側の窓の外の景色を、ただぼんやり見る。
「各務さんは、まじめな人だった」
「だろうね。だから、『本』も彼女に巣食った」
ソレが、その事実が唯月にとっては辛かった。
あかずきんが選ばれたならば、あかずきんは恵理子を救いたいという意志を持って具現化したはずだ。
片方……一方通行なんてないのだ。相互関係なのだから。
おまえにわかるものか。
何度も、本の人物たちに言われてきた。だがそのたびに、気づいていないだろう……彼らは泣きそうな顔をしているのだ。
きっと誰よりも、親よりも近くにその相手をみてきたのだ。
「……わからない。オレは所詮はただの『トンボ』だ」
「え? なんか言ったあ?」
「なんでもない。この事態、どう収拾つけるんだ?」
「しばらくマスコミは騒ぐだろうけど、ネットのほうが続きそうかな? あと、それに便乗するんじゃない?」
唯月が目を見開く。
「……いるんだな、もう『バグ』が」
「あそこの図書館員はよほど本に好かれてるんだねぇ」
江口はけらけらと笑いながら、車を運転し続けた。
**
各務恵理子の騒動はしばらく続いたが、三ヶ月もすれば沈静化……いいや、『飽きる』ものだ。
自分には関係ないと思う客。そう人間は思考を切り替える。誰だってそうだろう。
まさか己の身に起きるなんて思わない。
恵理子を執拗に責めていたあの女性に関しては、どうなったのか鈴音は興味はなかった。おそらくマスコミは放置しないし、恵理子の名を騙って勝手に正義のミカタ気分で制裁したヤツらもいるだろう。
そんなものなのだ。
バスから降りてそこに、向井唯月が立っていたことに鈴音は驚いた。今日は確か土曜日。
だが彼はこちらの道を通らないはずだ。
「どうかしたの、向井くん」
「各務さんの事件から三ヶ月経ちました」
ぼそぼそと言う唯月は、鈴音の歩調に合わせて歩き出す。
「インセクトっていうのは、ヤツらと同類なんです」
「え?」
「ただちょっと種類が違うっていうか……『バグ』は童話から多く出てくるんだけど、インセクトは逆なんです」
「逆?」
「自ら、寄生させる宿主になるんです」
「……向井くんにはナニがついてるの?」
「たぶん、今のあなたに言ってもわからないから言いません」
そっけなかったが、本当にそうなのだろう。唯月は嘘を言っている様子ではない。
「あなたたちは『本の味方』なのだと言ったけど」
「そうです。執行者と、やつらには呼ばれることもあります。でも、童話の連中には嫌われてます」
「味方なのに?」
「…………」
隣を歩いていた唯月がふいにこちらを片目だけで見る。
「ミカタ、って……三田村さんはなんだと思います?」
「え?」
「捉え方はひとそれぞれなんですけど、オレたちインセクトは……正しい姿に戻す、それだけです」
「ただしいすがた?」
「各務さんはあかずきんに巣食われていました」
それは、この目ではっきりと見た。まさかすぐに彼女が死んでしまうとは思いもよらなかったが。
眉間に皺を寄せる鈴音を、それでも静かに唯月は見ている。
「それは、あかずきんが各務さんを助けたいと願ったからなんです」
「え?」
「各務さんは図書館員だ。今も児童書とも関わり深い。あかずきんに、何か思い入れがあったのかもしれません。オレにはわからないけど」
「…………」
「一人暮らしの各務さんをきっと、仕事中『ずっと』見ていたのはあかずきんだけだったはずです」
「それ、は」
意味を、理解してしまう。
正職員たちは事務室にいる。窓口にいる臨職たちは自分たちのことで手一杯になると他人のことなど見ていない。
どこで。
どんなふうに。
だれが。
行動したかなど。
詳細にはわからないではないか。
だがそれを見ていたのだ。『あかずきん』は。恵理子がどれだけ苦しかったか、その苦しみを押し殺して仕事をしていたか、見て、感じたのは……!
「物語の登場人物たちは同じ話を繰り返していますが、読者や、自分たちを大事にする人たちのことは大好きなんです」
「そう、なんだ……」
「ええ。誰だって、大切に読み込まれたらうれしくないですか? 大切にされていると、人間だって実感するのと同じようなもので」
そうかもしれない。でもそれが本にあるとは思えなかった。
あかずきんは色々な作者が訳をし、絵本にしている作品だ。だからといって、恵理子だけを特別視するのはおかしいではないか。
少し俯いて歩く鈴音のほうを見ずに、唯月は続けた。
「各務さんが毎回『おはなし会』に選ぶ本の中に、あかずきんがありました」
ぎょっとした。おはなし会とは、鈴音の図書館の中にある館内行事の一つで、図書館員が絵本や紙芝居などの読み聞かせをするものだ。正直、鈴音はあまり得意ではない。
「これです」
唯月が鞄から出してきた絵本は、装丁は古いものの中の字は大きく、読みやすい。強弱をつけられるように文字の大きさにも工夫がある絵本だった。
そこに、バスケットを持った赤いずきんの少女の姿が描かれている。にっこり笑って、こんにちは、と言いそうな。
「この本は正された。媒介がなくなりましたからね」
「そ、……各務さん、は」
「『バグ』っていうのはなにも、救済のために具現化するんじゃないんです。確かに読み手を、読者を大事にしているから過激な手段に出るやつもいる」
「…………」
「具現化しているのは今回はあかずきんでしたけど、彼らは媒介を乗っ取るんです」
「それは、占拠してしまうってこと……」
「そうです。三田村さんが歪んでいる、と感じたのはそのせいなんです。彼らは本来、コチラに存在してはならないんです」
「でも」
でも。
「じゃあ、向井くんは?」
その問いかけに、唯月は足を止めた。たった一瞬だが。
唯月は無表情のまま告げる。
「特殊なので」
「トクシュ」
「三田村さん、またあの歪んだ世界に入ったら……まずはオレを呼んでください」
「え?」
呼ぶ?
「名を呼ぶだけでいいです」
「えと、いづき、くん、だっけ?」
唯月は頬を少しだけ赤らめて、「ち、ちがいます」と小さくムッと言い放つ。もしや、照れているのだろうか。
「オレの名前は『トンボ』です」
ちりちり、と耳元で何かが聞こえた気がする。みえたのは、秋空。
あの独特の羽を使って飛ぶ、おおきな目の、ムシ。
「本名、じゃないよね?」
「唯月だって、本名じゃあない、です」
なんだか言いにくそうに言うものだから鈴音は曖昧に笑うしかない。
「とても言いにくいんですけど」
唯月はやっと本題に入ったようだ。
鈴音に言いたいことがあったからバス停で待っていただろうに。いったいどれくらいあそこに立っていたのだろう? バスが定時通りにくるわけはないし、今日だってゆうに15分は遅れている。
「オレがここに一人でいることの意味を、考えてください」
「意味」
それって。
鈴音は、右肩にかけている鞄の紐をきゅ、と握り締める。
「まだ、『バグ』は出るってこと?」
向井唯月はそのためにいるのだ。だから彼が帰っていないということは、そういうことなのだ。
なぜ自分があの歪んだ世界に入れるのか、見れるのかはわからない。そういう体質もあるかもしれない。
けれども恵理子はおそらく役割を果たしたのだ。
あの図書館に巣食ってた歪みを、表に引っ張り出す引き金を彼女は見事に引いたのだ。
あかずきんに己の復讐をさせたかったのが本当の意味じゃない。あれはあくまで、あかずきんのしたかったことだ。
恵理子がしたかったことは。
向井唯月が来たときから、彼女は考えていたのではないだろうか?
追い詰められて、自殺する準備を整えながらも……あの図書館を、本を、好きだったからこそ……『正して』しまいたいと。
「向井くん……じゃあ、じゃあまた、出るの? 各務さんみたいに追い詰められた人が、あんなふうになるの?」
ゆるい坂道を二人はのぼっていく。途中の公園を通り過ぎる時、ふと恵理子のことが脳裏を掠めた。
「三田村さん、あそこの人たちは……追い詰められてる人が多すぎる。たぶん、自分で気づいていないから余計に」
**
苦情、がきた。
尾張真紀子は帰り際に八木沢に呼び出されて、いやな予感を覚えつつついていった。
二人きりでの会話は、かろうじて覚えている。
二度目の苦情だ。一度目は職員課に直接きたが、当時の館長が庇ってくれた。一人の意見で真面目に働いている子を解雇するのはおかしいと、戦ってくれた。
その館長はいない。
今度の苦情は図書館に直接きた。なんてことはない、モンスターペアレントらしい……横暴で、我侭、自己中心的内容だった。
なによりも、子供をダシにして苦情を言ってくる時点で腐っているとしか思えない。
「尾張さんは、きっぱり言うほうだし」
ふくよかではあるが、八木沢は真紀子の事情をとても汲んでくれるいい館長補佐だ。
「だからワンクッションおいて喋るといいと思うの」
おかしいでしょ、と背後で声がした。
真紀子はそれに気づいていたが無視をしたのだ。気づかれてはならないから。
「その時の対応を覚えていません。すみません、解雇にされても、いいです」
真紀子は表面には出さなかったがぐったりしていた。
なんて稚拙な内容なんだと思った。子供が手を振ったのに、振り返さなかった? だと。
気づかなかったという考えがない。自己中心的ものの考え方。苛立つというよりも呆れた。
「次は庇ってあげられないから気をつけて」
八木沢はそう心配そうに言っていたが、真紀子は「はい」と短く応じただけでやる気は出なかった。
だって所詮、あなたにとっては他人事。
解雇にならない公務員とは違って、五年以上も働いている真紀子にとってはそれはもはやただの警告にすぎない。
次にきたら解雇だと。
もう解雇にすればいいじゃないかといっそ思った。
向いてないのだ、この仕事に。
庇ってくれた当時の館長に報いるために、無愛想ではあるがなんとか口調を工夫したり、表現を柔らかくしたり、来館者により真摯に向き合おうと思ったのだ。
それからがんばって三年。それでも駄目だと思い知らされる。
ほかの人から見ればなんてことはないだろう。だが真紀子はそうではない。
恵理子と同じように一人暮らしをしているが、真紀子は一度精神疾患……つまり鬱の経験者でもあるのだ。
境遇も立場も恵理子と似ていたが、決定的に違うのはそこだった。真紀子は落ち込むとすぐに自殺しようという考えに陥ってしまう。
「かわいそうなマキコ」
背後の声は優しい。優しすぎて、目の前の八木沢がただの豚に見えてくるほどだ。
庇うだと? 庇ってくれたか? なにからだ? なにも、なにも庇っていない?