トンボ 5
「ようこそ、インセクト。おまえはエリコをいじめに来たあのブタを守る邪魔者だ。殺してやる」
両手を広げるその人物の、陰になった部分が少しだけ見えた。恵理子だ。美しい恵理子の顔が憎悪に染まっている。いいや、本当にあれは恵理子なのだろうか?
中性的なその立ち振る舞いからは、恵理子の雰囲気が微塵も感じられない。
「スズネちゃんが見えてたから、あんたは絶対に今日はその子から目を離さないと思ってたけど正解だったみたいだ!」
きひひと笑う彼女は、薄い笑みを唇に浮かべた。
「上の連中は下の人をただ踏みつけるだけだものね! エリコの気持ちがっ!」
刹那、その場所すべてが白く染まった。
公園内にあったものも、土も、景色すべてが白に染まる。
「エリコがどれだけ泣いたか、悔しかったか! おまえなんかにわかるわけない!」
「……確かにわからない」
否定しない唯月は、心配そうに見ている鈴音に一瞥を遣ってさがるように指示をして一歩前に出る。
「所詮は他人なので、理解し合えるほうが気持ち悪いと思います」
「まあね。そりゃそうだわ。だからさぁ、理解ないやつはとっとと消えろっつってんのよおっ!」
フード姿の恵理子ではない。そこにいたのは妙齢の金髪の女だ。猟銃を、構えている赤いフードの女は壮絶に美しい。
「おまえごときのインセクトに、この『あたし』が負けるとでも!? ジョーダン!」
猟銃を構えて彼女は奇妙に跳んだ。ありえない空中浮遊だ。逆さまになりながら、彼女は照準を唯月に向けている。
引き金に指がかかっている。終わりだと鈴音は直感的に悟る。
あの猟銃の威力がどんなものかなんてわからない。だけどきっと、この距離では自分も無傷ではすまない。
唯月はひゅっ、と小さく息を吐き出した。その隠された右目の前髪を軽く払う。白い眼帯が見えた。
「しねしねしねしねしねしねしねしねしね!」
哄笑とともにトリガーが引かれた。はらりと、眼帯が落ちたのが……不思議なほどゆっくりとみえた。
そこは白い空間だというのに、周囲は本が並んでいる。そこは図書館だった。真っ白な図書館だ。
見覚えがある。
そこは柚木市立央図書館だ。
並んでいる本の題名はすべて……あかずきん。
「どれほど」
唯月は囁く。
「どれほど『有名』でも、オレは役目を果たすだけだ」
それが彼の存在意義だとでも言ってるような声音で呟くと、唯月は跳んだ。その跳躍はエリコよりもはやい。
引き金を引く前に唯月はエリコの背後に移動していたのだ。
右目はひとにはありえない色と、不気味な模様。
「ばぁか」
エリコはそう言って、唯月のほうを振り返った。猟銃をすぐさま背後に向けて引き金を軽く引く。
激しい音。
鈴音は耳を塞いで座り込んでしまう。
「ワインはいかがぁ?」
続けてエリコはバスケットからずるりと何かを取り出した。禍々しい色をした液体の入った、それも銃だった。ウォーターガンに似ている。
「おかしもあるの」
手榴弾を投げるエリコに防戦一方の唯月は、両腕で顔を防御しているだけで、体のほうはまったくの……無防備。
制服はぐちゃぐちゃにされ、鮮血が飛び散り、ひどいありさまだった。
「よっわ~! なにこの弱さ。笑っちゃう。コレが天下のインセクト様なわけ? なめられたもんね」
エリコはせせら笑いながら、右手に猟銃。左手にウゥーターガンを持ったまま着地した。
ここには重力など意味をなしていないのかもしれない。いいや、常識なども。
両腕をおろした唯月は静かなままだ。表情も平坦としていて、怪我などまったく気にしていないようだった。不気味だ。
「柚木市立中央図書館には『バグ』が巣食っていた」
「? だから?」
「『あかずきん』じゃない。各務恵理子に巣食う『寄生虫』にすぎない」
「……あんたたちインセクトはそう分類するけど、まあ実際、こうしてあたしたちは媒介があれば実体化できる」
彼女はふふんと笑った。
「宿主はあたしたちを愛してくれている対象だけ。寄生じゃない。共存。そして、あたしはエリコを守る」
ぎらぎらと、殺意を宿した瞳で彼女はわらった。歪んだ笑みだ。
「各務恵理子から即刻退去を命じる」
「そうすればまだエリコは多少のお情けはもらえるってえ? そうね、まだ昼間にあのババアにくそぬるい術しかかけてないものね!」
強く言い放ったが、すぐにあかずきんの女は静かに続けた。
「じわじわと殺すつもりよ、悪いけど。
エリコがどんな目にあってきたと思うのよ。公務員の連中なんて何もしてくれやしない。そりゃそうよね。所詮は他人事だもの」
「各務恵理子の事情は、聞かされていない」
「でしょうね。インセクトはただ『狩る』だけ。あたしたちを物語りに戻すのが役目だものね」
物語に、戻す?
鈴音が顔をあげて、二人を見遣った。確かに、あかずきんが成長すればあのような姿になるかもしれない。そう、思えた。
「あたしはあんたたちがダイキライ。一番嫌いなのは、エリコのクソみたいな男運じゃないわ。
あたしが嫌いなのは、限界が近いエリコに誰も気づかないこの世界そのもの!」
「だから唆して、体を奪ったのか」
「バカね。あたしはエリコが死ぬのを止めたのよ。むしろ感謝して欲しいわ」
「…………」
「インセクトのお坊ちゃま。お高くとまってる高給取りさん!
あのままいけば、エリコは確実に自殺していたわ。それを止めたんだから、感謝して欲しいくらいよ」
「復讐させるために生かしただけだろ」
冷たく応じる唯月は、なんだか不気味だった。体がぼろぼろなのに、負けるわけがないと確信しているような気配すらする。
「フフッ。あたしたちは『読み手』の味方。エリコもあたしの大事な大事な読み手の一人。
クズババアを始末して、なにが悪いってのよ!」
「各務恵理子を犯罪者にするのか」
「犯罪ぃ? そんなもん、わからないようにできるからあんたたちが来てるんでしょ」
刹那だ。どこから取り出したのか、唯月が背後に隠していた右手を前へと大きく出した。
持っているのは奇妙な形のピストルだ。オモチャのようにしか見えない。駄菓子屋にありそうなほど、ちゃちなつくりだ。
「力の差がわかってないのかしら?」
「わかってないのは、どっちか」
唯月が引き金を引いた。ずっ、と奇妙な音がしたのはその直後だ。
は? とエリコが洩らした。彼女の腕が、落ちたのだ。文字通り、両腕がそのまま切断されて落ちた。
「これで攻撃できない。悪いが、オレはあまり攻撃は得意じゃない」
呟く唯月はオモチャのピストルを投げ捨てた。どうやらそっちは目くらましで、彼は何かを仕掛けて、引き金を引いたと同時にそれを発動させたらしい。
血は吹き出さない。ただ、エリコは落ちた両腕を見て舌打ちした。
「ショボいわね」
「さすがにしぶとい」
「なめんじゃないわよ。こっちは有名な童話の主人公なんですからね!」
そう叫んだのと同時に、またも世界が切り替わった。
パーカーのポケットに両腕を突っ込んだまま睨んでいる恵理子と、自分を庇うように立つ唯月と……座り込んでいたはずなのに、『立っている』自分。
わけがわからない鈴音は、ちらりと恵理子がこちらを見たのがわかった。
「今回は見逃してやるわ。両腕が使い物にならなくなったし」
パーカーに突っ込まれた手。無傷のように見えるけど、違うのだろうか。
「あたしを止めたければ、あの図書館そのものをなんとかしないと無駄だと思うわ。
あんたがあたしを止めたところで、意味なんて、ないのよ」
そう言うなり、恵理子はきびすを返して早々に去っていった。
眉根を寄せてそれをじっと見つめていた鈴音を、唯月が覗き込む。しっかりと眼帯をしていた。
「三田村さん、やっぱり見えてた」
「えっ、あ、うん、しっかり」
「……そう」
感情の見えない声音で呟き、唯月は結局バス停でバスが来るまで一緒にいてくれた。
その間、鈴音は尋ねたのだ。インセクトとはなにか、と。
「企業秘密だけど、みえてるなら教えたほうが安全だと……思いますから、言いますよ」
唯月は無感動にぼそぼそと喋った。
「ようは、童話とかに登場する人物が、人間に取り憑く……化け物なんです。やつらは」
「さっきのは、各務さんにあかずきんが憑いてたと?」
「正確には少し違うんです。あかずきんって、書いてる作家によって多少なりとも省略されたり、違っていたりするじゃないですか」
「うん」
「各務さんに憑いてるのは、読み手……ニンゲンが作り出した『あかずきん』という物語の大筋の塊なんです」
「……つまり、人間の想像の産物ってこと?」
「そういう思念を『バグ』といいます。正しくない。バグってるって意味で使ってます」
「…………」
「三田村さんがあの白い世界を歪んでいると感じたのは、それも関係しているんです。バグってるから、歪んでるからやつらの力が発揮できる範囲はあの歪んだ世界になる」
「時間経過は、してないの?」
「しません。歪んでますから。各務さんだって無茶苦茶な攻撃してきたじゃないですか。それがありえる空間なんです」
でも。
鈴音は拳を小さく握り締めた。
「各務さんは言ってたけど、追い詰められてたのを救ったって。
向井くんたちは……どっちの味方なの?」
唯月はちろりと視線だけこちらに向けた。
「オレたちは本の味方で、人間の味方はしない組織なんで」
「は……?」
「各務さんの事情も、憑いてるバグの事情も、オレにはどうでもいいことなんです。言われた通りに仕事をするだけなんで」
「それじゃ……でも、各務さんを犯罪者にはしないって……」
「三田村さん」
まっすぐに、唯月がこちらを見た。ちょうどバスが来るのが見える。
「『インセクト』って…………意味、知ってますよね」
バスが停車して、昇降口が開く。唯月が「じゃあ」と手を振って去っていくのを最後まで見送らずに鈴音はバスに乗り込んだ。
最悪だ。
学生で満杯の車内で、鈴音は悪寒だけを感じる。
各務恵理子が無残な死体で発見されたのは、次の日のことだった。
***
恵理子の部屋には遺書があり、そこには図書館の個人情報で得たある人物への恨みが書かれたものだった。
そこで止まれば話は済んだというのに、恵理子はネットのブログにそれを書いていたのだ。
「ハハハ! やってくれるなあ」
「笑い事じゃない」
むすっとする唯月に、江口は軽自動車の運転席で大笑いをしたまま続ける。
「すごいじゃない、彼女。自分への悪口全部書き留めてたんでしょ。でもって、相手の個人情報も掴んでたと。
録音もしてたらしいじゃない、簡易的なの持ち込んで。リッパリッパ!」
「……江口、おまえも公務員だろ」
「いやあ? まあそうだけど、これであの館長さんがバカってことが丸わかり。
臨時に丸投げってのも多少は見所があっていいんじゃないかなって思ったけど、世間はすぐに飽きちゃうから意味ないよね」
無言で不機嫌になる助手席に唯月は、視線を窓の外に向けた。
「アゲハがやったことが、そんなに腹が立つ?」
「穏便に済ませようと思ってた」
「済むわけないじゃん! アゲハはよっぽど気に入ったんだな、あの図書館」
「……巣窟」
「そうだなあ。うん、まああれじゃあ直らないし、むしろ臨時の子たちは風当たりがきつくなるよね」
「? どうして」
「そりゃ、ただのアルバイトだからだよ」
青くなる唯月に、江口は気づいていないようだ。
「館長なんて、どうせ退職前のじじぃが来るところだし、まともにやるわけないでしょ。
それにさ、各務恵理子はまだマシだったかな」
「どこが」
「のっとられてはいたけど、自分の意識がある時に自殺したんだ。橋から身投げしたんだからさ」
だけど。
「どうして自分が死を選んだか考えて欲しかったんだと思うけど……バカな上の連中は考えもしないだろうな」