ソトガワのハナシ 4
相変わらず彼女の貯蓄は少しです。食べるものも完全に偏り、食費を削ってなんとか生きる日々に誰が希望を見出しましょうか?
彼女の病が再発し、とうとう医者にも隠せない段階になってきても、医者は彼女の生活を知っていたので仕事に出るように強要しました。
ですが、職場に出た彼女は対人恐怖症がそこで起こり、平然と窓口にいましたが微熱が出て頭痛がとまらなかったそうですよ。
職場の人間は病のある人間を使うのを嫌がります。しかしお客様、彼女を追い込んだのはその「職場」でございました。
不思議なことですよね。愛してやまない本のためにと低賃金で身を削るような思いをして、土曜日も日曜日も祝日も犠牲にして尽くしてきたのに。
彼女は上司たちに色々言われたそうです。彼女は元来はきはきとものを言うため、聞いている人には少しきつく感じるかもしれませんね。
ですが愛嬌はあった。それは彼女が、己の接客が未熟だと認識し、なんとか自身で頑張った……ことなのです。
それでも彼女の体調悪化によるせいなのか、彼女だとおぼしき人物あてに苦情メールが届き、彼女は上司に「次は庇えない」と言われたそうです。
さらには別の上司も、体調を気にして病欠をとったほうがいいと言い出した。知っていますか、臨時職員の病欠はたった数日なのです、正規職員は二ヶ月もとれますのにね。
馬車馬のようにこき使われ、さらにまだこき使おうをしている者たちの言葉ではありませんよね。
彼女の病は見えない病。風邪でもないので数日で治るわけがありません。かといって、職場で倒れられると職場が困る。
傷病手当がもらえると聞いて彼女は安堵しましたが、支給が一ヶ月以上先だということまでは彼らは説明しませんでした。
毎月の支払い、税金の支払い、ここでも金に頭を悩ませられるのかと彼女は頭がおかしくなりそうだったと言います。
病欠が終わると、彼女は仕事に出ると上司に言いました。上司は無理に出なくても充分に治してからと言いますが、心の病は完治しないのです。完治したようにみせかけて、潜んでいるものなのです。
現に、それまで普通だった彼女の病が完全に表面化してしまったように。
彼女は支払いのためにも出勤すると譲りません。上司はそこは家族を頼るように言います。彼女には屈辱的でした。
いまだに何も決められない弟と、プライドだけが高くてだめな父親にどう頼れというのか。しかも結婚した妹は彼女の病を「演技」だと言い張ったそうです。
そんな理解のない家族に助けを求められますか? 求められませんよね?
彼女の自殺願望はまったく消えることなく、今も燻っています。それを医者が見抜ければ、なにか変わるかもしれませんがどうでしょうか。
彼女の知り合いは、彼女は簡単に身投げする図を想像できると言う人ばかりだそうですよ。
彼女自身も言います。「タイミングって大事よね、すずねちゃん」と。
彼女は何をするにもそのタイミングがきたら、やるしかないというような人物です。死ぬのも、まったく同じ考えでしょう。
彼女のことをよく知らない彼女の上司たちは、彼女に自殺願望があるという告白を聞いて、「思いとどまって」と言ったそうですよ。
そうでしょうか?
わたしは彼女の友達ではありませんが、彼女のことを今お話したぶんだけは理解しているつもりです。
そして同様に、彼女は死ぬ間際、おそらく躊躇はしないでしょう。
守らねばならない弟のことも、愚鈍な父親も、理解しない妹のことも。
執着するものがあるからまだ死なないだけだと彼女は言っていました。彼女は収集癖があるんです。好きな本や映画を集めるのが好きなんです。だからここにも来るんですよ。
ですが彼女はもう弟さんに、自分が死んだら自分の買ったものはすべて彼に譲ると言ってあるそうです。ネットオークションに出せばそれなりにどれも高値で買取がつくだろうし、少しは貯蓄の足しになるだろうと。
彼女はもう、タイミングを待つだけの状態なんです、お客様。
彼女は一時期、税金の支払いやほかの支払いが一斉にきて、食事も満足にできない日々を送ったと言っていました。
毎日コンビニで200円のクリームコロッケを一つだけ買って、お米だけはあったのでそれで暮らしたそうです。お昼はばれないようにと姿を消して、持ってきた水筒の水で誤魔化していたそうですよ。
二人で暮らすつもりだったわけなので、家賃も高いですし、彼女の給料は借金返済の時と同じように圧迫されていました。
そこに、上司からのことばです。
お客様ならどう思いますか?
頑張って尽くしてきたのにと思うでしょう? 悔しいでしょう? 次は解雇だ。と宣言されたわけですからね。
ですが、賃金もあがらない、賞与もない、なんの変化もない職場でモチベーションがあがる働き手などいるでしょうか?
彼女は少なくともまったくモチベーションはあがらなかった。むしろこの賃金でもっとサービスを向上させろと言われたわけですから精神的におかしくなるのは当然ですよね。
彼女はその図書館のためにと色々と進言し、言われなくても便利に使えるようにと影ながらあれこれやっていたのですが、それは評価されなかったわけです。
利用者がすべてということなのでしょう。
ですがその考えでは、その低賃金で働いている方々は納得するでしょうか? しませんよね。
しかもね、その苦情は彼女のミスではなかったのです。わたしのつてで調べたのですが、彼女に向けて苦情を送ったのは有名なモンスターペアレントの女性だそうで、なんだか腹が立ったからという理由で、でっちあげを書いてメールをしたのです。
ねえ? お客様、ではどちらに真実があるでしょう?
もちろん、なんの非もない彼女はただ標的にされただけの獲物なわけですが、上の正規職員たちはそうではなかったわけです。
彼らが窓口に立つのは一日に1度の頻度です。ほぼフルタイムで窓口対応をしている彼女たちの「なにを」評価できましょうか?
たった一部の、自分の思い込みと、人づてに聞いた話で、「相手」がどんな人物であるかと決定づけてしまうのが人間です。
彼女の上司は、残念ながらそうだったようですね。とても有能な方だと聞いていましたが、やはり腐った土壌にいる以上、そこにいる人間は腐り、麻痺していくものです。
おしまい、です。
え? つづきですか?
そうですね、彼女が転職するために動き出した、とだけ申しておきますね。
心配したように見せかけて、結局は彼女自身のことを心配してくれもしない職場や正規職員を彼女は二度と信用しませんよ。
その市営にとっては痛手ですね。彼女、病がなければ本当に優秀なんですよ? 自力で、できなかったパソコンも使えるようになっていますし、わからないからと本を参考にしつつやったりととても勉強熱心なんです。
本当なら資格がばんばんとれているはずなのに、お金がないせいでそれもできなかったというのも痛手ですよね。
ふふ。彼女、自動車免許を持っているんですが、一発で合格したんですよ。
え? すごくない? ふつう?
そうですかね? 教習所で配布された問題集と答え、それに教習所で試験的に使えるパソコンでの問題と答えをすべて暗記して試験を受けたから落ちるわけないと言っていましたよ。
嘘か本当かはわかりませんが、問題集は前日に徹夜で何度も何度も繰り返し暗記できるように頭に叩き込んだと言っていました。自動車免許をとるのにもお金がかかるので、落ちるわけにはいかなかったそうなんです。
すごいと、思いません?
ああ、話がそれました。そういう彼女の事情を知っているからこそ、わたしは市営の図書館などいきたくないのです。
だから、ここで司書をしています。
ええ……たとえ、ひとではないお客様が来られても、わたしは平気ですから。
「……尾張真紀子の事情にけっこう似てる」
ぼそりとフタバが呟いた。
けれどもあれは架空の世界の話だ。収集したデータをもとにして作り上げた偽の、世界。
だがもしも。
いいや、考えるはやめよう。なぜならば、歴史ではすでに尾張真紀子は自殺をしているのだから。この世に存在しないのだから。
そしてお客様。
わたしは司書であることに誇りがございます。ですから、今お話した彼女のような侮辱を受けることを決して赦しはしないでしょう。
「ええ、そうね。結果がたとえすべてでも、上に立つものがその判断を誤ってはいけないわ」
イノセント・ブックスに記された部分はまだ途中だった。この本の主人公はフタバであると彼女は言った。
あと3時間で構築は完了する。ではそれまで、少し眠らせてもらおう。椅子に背中を預けてフタバは瞼を閉じた。
*****
『ゆらぎ』が起こる前、そこは混沌とした世界だった。
人間社会牛耳るその世界の裏で蠢く闇は確かにあったし、そしてそれを商売にする輩もいた。
妖撃社、と呼ばれる妖魔や妖怪などを専門に退治する会社があった。その日本支部を、なんの因果か兄から託されたのがフタバだったのだ。
彼女は超常現象を信用していなかったが、そこの社員はくせもの揃い。
だが、悪人は、いなかった。
何も変わらないと信じていた。少しずつその不可思議な世界を信じてみようという気持ちにもなっていたのに。
ソレが、起きてしまった。
隕石が落下したとか、次元に穴があいたとか、どこかのSFのようなことではなかったのだ。
『ゆらぎ』。まさに揺らぎだった。
世界すべてに波紋のようなものが一斉に起きて……闇に潜んでいた存在たちが、まず、半分以上消えた。
人間の数も、減った。そのゆらぎの大きな原因は新たな生命体の登場によるものだったのだ。
本に出てくる登場人物たちが、すべて……そうすべて、実体化したのである。
彼らは人ではないので血を吐いて死ぬこともないけれど、妖怪も、人間も、ほかの生物たちも半数以上消える原因になったのはそのせいだったのだ。
彼らは世界を支配した。
対抗手段がないと頭を抱える、偉い地位にいる人間たち。
対抗手段はあったのだ。彼らは物理的に存在しているので、それを殺せばいいのだ。だが物語の種類によっては素人では敵わない。
そして最悪なことに、実体化した彼らは、己たちも含めてすべて……敵意、悪意しか持っていなかったのだ。
友好関係が築けるはずもなく、殺戮は続き、借り出されたのは自衛隊や、軍隊、そして、実体化でも彼らでは倒せない「幽霊」などの怪異を霊能者たちは相手にした。
フタバの会社もそれにおわれ、社員たちも疲労がたまっていたが、いつもの悪態をつくやり取りで……思えば、一番幼いフタバを安心させてくれていたのだろう。
そんな時、ある図書館がその生命体たちの住処になっているという情報が入ってきた。きちんと調査をしたらその通りで、三田村鈴音は蔵書されている本のことで助言するために同行したのだ。
フタバは、自身になんの能力もないことを自覚していた。足手まといになることも。
だから見送ってしまった。いつものように。




