ソトガワのハナシ 3
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はあ、と三田村鈴音は冷たくなった両手に息を吹きかけた。手袋をしていても、手が冷たくなっているのは感じている。
平成のこの時代。これからしばらくしたら、大きな事件が起こる。それは世界をすべて変えてしまうほどの。
けれども鈴音はそれを知らなかった。
鈴音は実在している人物だ。知らないのは、インセクトたちだけだろう。
ナビゲーションシステム、とアナウンスがかかる。
フタバはその度に、通っていた小さな特殊な図書館に勤めていた三田村鈴音のことを思い出す。
「フタバ様」
呼ばれて振り向くと、鈴音にそっくりな、けれども若干若い娘が立っていた。いわゆるクローン体というやつだ。
「構築に時間がかかっていますが、あと3時間もあれば完成するかと」
「報告ありがと」
「はい」
笑顔で部屋を出て行くスズネをフタバは見もしなかった。
平成が慣れ親しんてきた時代に生まれたフタバは、そこで色んな経験をした。鈴音がいた図書館に行ったのも、その経験のひとつだった。
「図書館へようこそ」
それが彼女の口癖だった。フタバはなぞるように呟く。
「きっとここにはあなたの求める本があるはず。ここにはなくても、ほかの図書館から取り寄せることも可能です」
微笑んで言う鈴音は、奇妙な図書館にたった一人だけいる司書だった。
イスにもたれて、フタバは瞼を閉じて思い出し笑いをしてしまう。
「どのような本をお探しですか?」
「え? えっと、頼まれて来ただけよ。これ、あるかしら?」
検索機もない奇妙な図書館では、司書に尋ねるしかない。フタバが差し出したメモ用紙を受け取った彼女は、カウンターから出てきてにっこり微笑んだ。
「こちらの本ですか? ただしこの『物語』は決して幸せな内容ではございませんのでお気をつけください」
「? べつに内容なんて私には関係ないわよ。頼まれただけなんだから」
むすっとして言うフタバに、鈴音は小さく微笑む。
「この『物語』は、あなたが読むべきものですよ」
「え?」
見せられた本の表紙は白く、そこには題名がなかった。
「『イノセント・ブックス』です、お客様」
「イノセントブックス?」
「はい。本というのは、真実よりも、虚偽を語る『嘘』を蔓延させる原因にもなる、善にも、悪にもなるものなのです」
「本が?」
「ええ」
彼女は頷く。
「例えばベストセラーとしてテレビによく取り上げられる本がありますよね。けれどそれは『真実』を綴ってはいない。フィクションという虚偽です」
「…………」
「ノンフィクションと銘打っても、そこに一つもフィクションがないなど、誰が証明できましょう?」
鈴音はその本をフタバに渡してきた。フタバは気になって、本を開く。どうやら物語のようだ。
そこまで思い出して、フタバは眉間に皺を寄せた。
鈴音は知っていたのだろう。これから起こるであろうことを。
その大惨事と、未来を。
「この本を受け取ってしまった以上、もう引き戻せませんね。でも、受け取らなかったという世界もどこかには存在する」
「どういうこと?」
三田村鈴音は微笑んでいた。彼女は若いのに、なぜこんな辺鄙なところで司書などしているのだろうかと、不思議になってしまうほどに。
「『イノセント・ブックス』の物語の主役は、あなたです」
その言葉に、フタバは目を見開いた。
ゾッとして汗が背中を伝う。
慌てて本の後半部分を開くが、そこは真っ白だった。
「まだ『起こっていない』ことは記されませんからね」
そこまで思い出したあと、瞼を開けた。目の前は低い天井。定期的に流れる、ポーンポーンというキーボード待機の音。
ああ、あの時代には戻れない。
鈴音は言ったのだ。
「苦しむ人の出来事を垣間見ることでしょう。『人生』は『物語』とよく言われます。その主人公は『あなた』。
けれどもそこにかれらが現れたらよくよくお気をつけください。彼らは」
彼らは。
「『あなた』の運命を変えてしまう存在なのです」
ほんとね、とフタバは洩らした。
『ゆらぎ』によって、当時高校生だったフタバはすべてを失った。仲間も、友達も、学校も、家も、何もかも。
三田村鈴音はあのときに、フタバの仲間たちと同様に『死んだ』。
それでも生き延びている己に嫌気がするかというと、そうでもない。
フタバはポンとキーボードの一部を叩くと、空中から白い表紙の本が現れた。ハードカバーのそれには題名がない。
手にとってめくると、ひどいありさまだった。血まみれのページもあれば、涙でぐしゃぐしゃになったところもある。
「三田村さんのあの時の言葉、私はまだ忘れてないわ」
はて? なぜ私がここで司書をしているかですか?
そうですね。本が好きだからでございます。お給金もよいですし、なにより一人で己の好きなようにこの図書館を改変できるところが魅力でございます。
公共図書館のように、たくさんの人々に利用されるのはどうか? 民営では少々考えるところですが、市営ならばご遠慮いたします。日本は借金の国でございますよ。
市営図書館がどのようなところか、実態を知らないお客様では、その運営の仕方に怒りを覚えると私は思いますが。
え? どうしてそう思うのか? そうですね、実はこの図書館に来られるお客様に一人、司書の方がいらっしゃいます。
司書ですが、彼女は市営図書館の臨時図書館員。何が違うのか? 簡単です。アルバイトのことを臨時職員と呼ぶのでございます。
市によって線引きはございますが、臨時というのは、臨時的に雇うのが目的の職種でございますが、彼女はすでに十年はその図書館に勤務しております。
女性の年齢を言うのは気が引けますが、お客様も女性なのでここは聞かなかったふりをしてくださいませ。
彼女は34歳。24歳から10年はそこで働いているのです。賃金は毎月十万円程度。十万にならない月もございます。
一人暮らしをしておりますが、心に病を患っているために病院に毎月通いますが、精神科の賃金は意外に高いものなのです、ご存知でしたか?
家賃を払い、電気代を払い、水道代金を払い、電話代金を払い、情報収集のためにインターネットの支払いもしております。
そんな彼女はここにきて、わたしに悩みを語ります。
今の職場を離れたいと。彼女は自身の年齢と、本来ならあるはずのキャリアが一切ないのです。
市が雇っているのですから賃金は一切あがりません。ですが、彼女の勤続年数はすでに「臨時」と呼ばれる年数ではございません。
市の条例通りに契約期間満了して解雇したあと、約束はしませんがまたきてほしいという合図を送るのです。一ヶ月以上無給になる彼女は確約がなければ頷けません。
職を探しましたが彼女はですね、少し特殊でして、呪われた体質だったのです。彼女は、彼女の実家に縛り付けられる呪いがかかっていました。
妹さんが大学卒業後に彼氏のところへいったまま帰らなくても、そして結婚して出て行っても。
彼女には変化がなかった、と思われるでしょう? 違うのです。彼女は家が元凶だとわかっていたので、出て行く算段をつけようと行動をすでに起こしていました。
しかしここで不運なことに、彼女が借金を背負っていることに気づかされてしまったのです。
父親の借金だったのですが、その返済に彼女のカードが使われていることが判明し、彼女の毎月の給料は貯蓄していく計画とともに消えてなくなりました。
しかし彼女は諦めません。機会があればと挫けずに何度も試みますが、そのたびにまるで『決められたように』邪魔が入るのです。
最近の彼女で一番最悪だったのは、母親の死、でしょうか。
莫大な借金の詳細を唯一知っていた母は病で弱り、結局、自身の車を買うこともできなかった彼女は母の見舞いにも行けずに葬儀に出席しました。
病院がね、遠かったのです。バス? そうですね、それが直通バスに乗るには彼女の家からはるか遠い駅まで出てこないと乗れないのです。
ですが、返済のために彼女のバス代金は職場へ行くぎりぎりしか残していなかったのです。見舞いに行けるわけもありませんよね。
そんな彼女が守らねばならないと思ったのは一番下の弟でした。彼に借金を作らせるわけにはいかないと、カードは作らせず、なんとかせねばと考えたのです。
しかしその弟も母と同じく決断力が鈍い、やさしく言えば優柔不断な青年だったのです。
家族内で病持ちなのに不思議でしょう? 元々の彼女は決断力に優れ、リーダーシップをとるのがとても上手な人だったんですよ。元気で明るくて、にぶいところもありましたが、それでも前向きでしたよ。
彼女が決断力を発揮するのはその病がなりをひそめている間だけなのです。ですから、短時間で決断しなければ彼女のやる気は一気に消えてしまう。
精神科のお医者様のことも、彼女はうまく騙していたようですね。状態がいい時にしか診察に行かないのだから、状態が変化しているのを医者は見抜けません。
そう、彼女は元々頭の回転がはやく、賢い方だったのです。引越し費用や、準備、場所を考えていかねばならないと考え始めました。
その原因は彼女の父親にあります。彼女と、その弟に、借金の連帯保証人になれと言ってきたのです。彼女はその時、完全に病が隠れていたので、正論で父親を言い負かしました。
ですが、実の子供、しかも彼女は己のせいでもないのに自己破産者となった身、そんな彼女に連帯保証人になれと言ってくる男の神経が信じられなかったそうです。
家を出ようと計画し始めたのは、その頃です。彼女は彼女の持っている貯蓄だけでは無理なので、弟と一緒に住むこととして引越しを計画しました。
お客様はどう思われます?
借金だらけの父親を残して出て行くその娘さんの気持ちを。
薄情だと思いますか? そう思わない? ええ、そうですね、彼女は自己破産者。もしも父親が借金を返せなかった場合、借金は彼女に降りかかってきます。
自己破産をしてまだ十年も経過していなかった彼女がサインをするわけがありません。ふふ、そうですね、その父親も、母親に任せきりのお子様だったのでしょう。
え? それで引越しはうまくいったのか?
いいえ、それがうまくいかなかったのですよ、お客様。
彼女が、職場の人間関係で病が再発してしまったのです。隠しようもないほどに体調が崩れ、彼女の精神状態は危うくなりました。
医者が見抜けなかったのは、彼女は「自殺するタイプの人間ではない」ということでしょうか? いいえ違います。彼女は死ぬことに一切ためらいをもたない、思い切りのいいタイプなのです。
ほら、決断したら即実行というのが元々の彼女の持ち味だったのですから、自殺もそれに入るというわけですね。
一度走り出したら彼女は止まりませんが、医者が見抜いていたかは不明ですが、彼女の賢さには気づいていたようです。
彼女は錯乱状態に入り始めると、自分の大切にしている本や物を傷つけるのを防ぐために外に出ていくのです。本人は徘徊癖と言っていましたし、実際にうろうろしている最中でそのタイミングがくれば彼女はいとも簡単に死を選んでいたでしょう。
不思議ですよね、お客様。
生きていればいつかきっといいことがある、と、よく言う方がいらっしゃいます。それは実体験に基づくものもあれば、希望を持ってもらいたくて説得する場合もあるでしょう。
ですが、「いいこと」が「いつ」くることなど、誰が予想できましょうか? さらに悲劇が待っていたなら、その言葉を彼女にかけた人々は彼女にどうやって償いをするのでしょう?
しませんよね。償いなんて。
人間とは忘れやすい生き物でもあります。自身の発言を憶えていないことのほうが多い生き物なのですよ。
彼女は今の職場を辞めて、もっと賃金のいい職場を探そうと思っているとわたしに伝えに来たのです。
え? 一人暮らしをしていると言った? ええ、そうですね。二人暮らしをする前提で借りたアパートには彼女しかいないのです。
優柔不断な弟は、父を見捨てるか、それとも仕事場の近くで部屋を借りるか悩んでいると彼女に打ち明けました。それがさらに彼女の病の悪化に拍車をかけました。
彼女が一人ぼっちで弟が越してくるのを待って一年。なんという残酷な回答でしょう。




