ソトガワのハナシ 2
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「ふ~たばちゃん」
部屋に入ってきたツクモに、フタバは溜息をつく。今日は来客が多い。
どうやらテントウが見つからないかわりに、狙いがこちらに変わってしまったらしい。
「どうしたの、ツクモ」
「いやぁ、キミ、ずぅっと変わらないなあって思って」
「そりゃそうでしょ」
動じないフタバに、ツクモは面白くなさそうだ。
「『ゆらぎ』が起こった時、キミは一番何もできなかったもんね」
「怒らせようとしても無駄よ」
ゆらぎ。
曖昧な単語で誤魔化されてはいるが、それは大きな出来事だったのだ。あるべき『歴史』を狂わせてしまうほどに。
擬似空間に存在するあの白い世界も、その名残だ。
すべては変わってしまった。
ツクモはフタバの背後にまわって、表示された図書館の画像を見て顔を綻ばせた。
「昭和時代から残る図書館かぁ、次は。すごく古くて懐かしいね」
「擬似空間の構築に時間がかかって困るわ。昭和以前の情報はそれほど多くはないから」
「そうだねぇ」
くすくす笑うツクモがなんのつくも神なのか理解しているからこそ、その笑いの意味もわかる。
「あれから何年なのかなぁ。憶えてないね」
「そうね」
「こうやってフタバちゃんが頑張ってるのは、インセクトたちのためじゃないから……ほんと、残酷だよね」
「インセクトは特別に調整された戦闘道具。それだけよ」
「でもさ」
そっとツクモがフタバが座るイスに少しだけ体重を預けた。
「ここで働く人たちは……特に彼らの動向を見守る人間たちは辛いよね」
つらいよね、と強調された。フタバとしては不愉快極まりない。
擬似空間の中は、タイムスリップしたと思わせるほどに精巧に作られている。登場する人物の細部も、心情も。
確かに偽ものだ。偽の世界だ。けれどその偽の世界に、情報をもとに作られた人間たちはみな、本当に生々しく『生きる』。
そこに持つ悩みも、辛さも、当時本当にあったものなのだろう。そして……。
先日赴いた柚木図書館で自殺した尾張真紀子も、各務恵理子も、あの悩みのせいで結局は追い詰められて死んだ。
目の前の透明なキーボードを軽く操作すると、その二人の情報が出てくる。各務恵理子はほぼあの擬似空間と同じような死に方をした。当時はマスコミに大きく取り上げられたのは、彼女がネットの様々なものを使って自分の遺書を広めたせいだろう。
だが。
真実は実は違う。
自殺したのは真紀子のほうが先なのだ。
彼女は追い詰められると錯乱状態になり、自分で何をやっているかわからなくなる時があり、気分が物凄く落ち込む。
躁鬱だとは医者には判断されていない。当然だろう。彼女は躁状態でも「普通」に見える状態をわざと狙って病院に通っていたのだから。
もちろんそのせいで彼女は障害者手帳も所持していない。病人であると悟らせないように注意していた彼女が錯乱したのは、八木沢に言われた……「次はない」という言葉だった。彼女は手首を切ろうとしたが、カッターのにぶい刃では埒があかないと暴れた。
しかし暴れ方が妙なのだ。彼女は冷静に戻った時のために、なるべく室内のものは壊さないようにと配慮をしていた。
薄給の彼女は壊れたものを再度買い直すほどの貯蓄はなかったのだ。診察費もかかる。それに落ち着いて生活していれば彼女の心は滅多に乱されることはなかった。
対人恐怖症に陥った彼女は家から出られないことに恐怖を感じ、しかし働かなければ生活費は稼げないと板ばさみになり、玄関でうずくまって数分間唸り声をあげて。
突然鬱から、躁状態になったのだ。気分が高揚し、彼女は放浪癖もあったので黒いパーカー姿で外に出た。危ない場所に座ってスマホでSNSをするのが趣味の彼女は、スマホをその時もっていなかった。
ただ、「思いついた」のだ。
無理をしてまで行った病院からは仕事に出ろといわれ、仕事先からは休んで治せばいいと言われたが臨時職員の彼女の病欠は10日は認められない。
見えない心の傷を10日で治せたら、彼女は11年もこの病にかかっていないというのに。
彼女の住むアパートの近くには橋がある。そう、図書館に通じる大きな橋だ。下をびゅんびゅんと車が通っているところだ。
擬似空間では恵理子が死んだ場所になっているが、本当は。
「よいしょっと」
と、軽い声をあげて真紀子は柵をのぼったそうだ。通りかかった大学生はあの女は何をしているのだろうかと不審に思ったと当時証言している。
真紀子は笑顔だったそうだ。
笑っていたのだ。
彼女はげらげらと笑い声をあげていた。本当に楽しそうに。
そして、急に全身からだらんと力が抜けて前のめりになった。
「『ゲームオーバー』だよ」
そう呟いたのがはっきり聞こえたそうだ。
あっという間に真紀子の体が地面に落ち、にぶい音がした。大学生はそちらに駆け寄った。飛び散った血が赤黒く広がり、避けることのできなかった車が彼女をぐちゃぐちゃに踏み潰したのだ。
そう、本当に、あの当時に生きていた彼らがどんな気持ちだったのかはわからない。擬似空間はただのニセモノ。
伏せられた写真立てをツクモが立てた。フタバが嫌そうに顔をしかめた。
「古いもの使ってるね、フタバちゃん。でもね、感じるよ。この写真立てをくれたのは、この写真に写っている中の一人、金髪のこのメイド服の人かな?
いいセンスしてるね。これはアンティークだ。大事にされて、魂が宿ってる」
「そんなのどうでもいい」
どうでもいいことだった。
その時代の自分は精一杯で、彼らのことをきちんと理解できなかった。いや、他者を理解できる人間なんていない。だけど。
今でも思い出すのだ。
崩れかけた天井を、持ち前の怪力で持ち上げて支えていたのは……この仲間の中でも一番辛い事情を持つ人物だったのだ。
血を額から流しながら笑ったあの顔に、フタバは文句を言ったのだ。
泣きながら文句を言ったのだ。けれど――――。
あれから何十年という年月が経とうとも、やることは変わらないのだ。
「ツクモは今の世界をどう思うの」
フタバが珍しく質問してきたので、ツクモはきょとんとした。フタバがツクモを嫌っているのは、ツクモ自身がよく知っているのだから。
「そうだね……ある意味平和なんじゃないかなあ」
「平和、ね」
「フタバちゃんが現役時代、あの頃は色んなものがごちゃ混ぜになってたじゃない?
科学も中途半端に進化中だったし、闇夜には人ではなものがうろついてた。表の世界で生きてる人間たちは、幸せそうに見えるのは一部だけで、あとはみんな暗い顔で俯いてたからね」
「そうね」
実際に真紀子や恵理子は世界に絶望していた。
報われない世界すべてに。
「科学は進化したし、化け物たちは『限定』された種しか存在してない。人間は今も苦労はしてるけど、自殺率はさがった」
「…………」
「キミは『ゆらぎ』の時に、『みた』ものね」
みてしまったもね。
その囁きにフタバは写真立てを伏せた。
ツクモは目を細めた。
「キミは酷い人間だねえ」
「知らなかったの。私はね、ずっと酷い人間なのよ」
昔も、今もね。
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インセクトとしての調整を終えた『スズムシ』は寝台から降りて欠伸をする。
「いつになったら出番来るかなぁ。いっつもトンボとかアゲハがやっつけて帰ってきちゃって暇でならないね」
「スズムシはさ、あんまりトンボの前に出ないほうがいいよねぇ……」
同じく調整を受けていた『アメンボ』が目を細める。
「? なんで?」
「その外見情報があんまりよくないっていうか……」
ふたりは別の件で擬似空間に行っていたのだが、戻ってきてからふぅむと二人して大きく息を吐いた。
「なんでナビゲーションはいっつも司書なんだろ」
「いいところに気づいたね!」
「ゲッ、ツクモ」
「やだちょっと、ふたりとも声揃えて嫌そうにしないでよ~」
「いや、だってインセクトであんたのこと好きなやついないでしょ」
スズムシに言われて「えー」と不満そうにツクモが声をあげた。




