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テントウ 1

***


 深井ゆりはトンボもアゲハも、その戦い方を見ていた。

 トンボは確かにあまりにも目立たない。なぜなら彼の戦い方の真髄は、べつのところにあるからだ。

 本物のトンボは肉食だ。飛んでいる最中に、餌を捕まえて食べる。

 インセクトのトンボは鈴音の前では決して本気で戦いはしなかった。

 やつが戦ったのを見たのは、いつだろう? はて? いつだろう?

 思い出せないが、『バグ』が語る。捩れた世界の中で、歪んだ存在として生まれたインセクトのことを。

 ゆりに囁くのだ。

 トンボと対峙していたのは長靴を履いたネコだった。細身の剣を持って戦いに挑むその敵を、トンボは攻撃をあっさりと受けてそして。

 己の影に喰わせた。

 本人が戦えないわけではない。実際、攻撃を受ける前まではまったくの無傷だったのだ。

 だが己の肉体の負傷を彼は気にせず、ただただ、やり遂げることを望むだけ。

 彼とは違い、アゲハは完全に対戦を楽しむ、戦いの好きな男だった。

 恵理子を待ち受けていたアゲハはあの白い世界で恵理子と壮絶な戦いをした。

 猟銃を放つ恵理子の銃を粉微塵に粉砕し、彼女の武器を容赦なく破壊した。恵理子を殴り、蹴り、追い詰めたが、なにかが理由で見逃した。

 命からがらで逃げた恵理子は結局死んでしまったけれど。

 不可思議な力を使うトンボ。そして、強力な力を使うアゲハ。

 それぞれまったく別の存在だというのに、なぜか同じ肉体の中にいる。

 いわゆる、多重人格。

 深井ゆりは、アゲハが捨てた携帯電話を拾い上げていた。彼の部屋には何もない。生活していたかも謎なほどに。

 電話はまだ通話中だった。

 深井ゆりはその相手に声をかける。

「もしもし」

 応じる声はないと思っていた。

 だが、応じられた。

<無事ですか、アゲハ>

 声に覚えがあって、一瞬電話を落としそうになった。

<音声認証失敗。あなたはアゲハではありませんね>

「そうよ」

<音声データ照合。深井ゆりと判断します>

 ぎくりとしてしまうが、心を落ち着ける。

「インセクトどもは死ぬわ。木村佐和の手によってね」

 わざとそう言うと、相手は淡々と告げた。

<トンボはすでに帰還。一時的にそちらと接続しましたが無事に帰還し、事情は把握しています>

「……なぜ電話に出てるのが『あなた』なのか、とても気になるわね。『三田村鈴音さん』」

<その問いの答えをあなたに返したところで無意味。あなたは死ぬのですから>

「は?」

<すでに決定事項。アゲハは戦闘不能。帰還に移行>

 そう言うなり、通話は途切れた。

 確かに三田村鈴音の声だった。そして妙なことを言っていた。

 深井ゆりは死ぬと。

(冗談じゃない)

 よくはわからないが、トンボもアゲハも戦闘できる状態ではないのだ。ならば勝算はこちらにある。

 木村佐和は毒りんごを持つ魔女のようなものだった。

(今なら、漁夫の利を得られるかもしれない)

 インセクトたちは木村佐和には劣勢のようだ。だがべつにゆりは佐和につくつもりはない。

 だが気になる。

 三田村鈴音はてっきり『バグ』になる前兆を持った娘だと思っていたのに。『バグ』でなければインセクトということになる。

 インセクトの異質さは普通の人間でも『わかる』ものだ。周囲から明らかに浮いてしまう存在で、溶け込むことはない。

 それに江口に連れられて現れたのは向井唯月一人だけで、三田村鈴音は普通に市役所からの採用でやって来た臨時職員なのだ。

 接点は二人にはない。

 それにゆりが彼女を『バグ』だと思ったのは、彼女が江口や向井唯月を図書館の駐車場から『消した』のだ。あれは『どこか別の場所へ飛ばした』というほうが正しいのかもしれないが。

 携帯電話を床に投げ捨て、ゆりは職場に出勤するべくきびすを返した。



 ラウンジに寝かせてあるアゲハが気になるが、掃除を担当している業者の人々には事情を話しておいたし、なんとか大丈夫だとは思うが……。

 鈴音は佐和をちらりと見遣る。何事もなく朝会が始まる。館長の言葉は相変わらず小学校の校長めいた長ったらしいもので、まったく意味がわからない。おまけに職員のやる気があがるような内容でもない。

 次に伝達事項があるかどうかを館長補佐と、係長が続けて言う。

 なにもない。

 おかしなくらいに。

 いつもと変わらない。

 けれども変わっているのだ。

 恵理子が、真紀子が死に、それでも無関係に図書館は……。

 当然ではあるが、なぜいつも通りなのか。

 俯いて、膝の上に置いてある自分の拳を見つめる。

 結局自分という存在がわからなくなってきた。

 『バグ』になる可能性の高い存在だと思っていたが、なにかそれも納得できない。

 朝会が終わって、業務が開始される。臨時職員たちは開館準備に取り掛かるために早々に立ち上がった。

 1日が始まる。

 佐和が小さな笑みを浮かべたのが視界の端に見えた。

 違和感がとても強い。

 どうしてと思っても、誰も答えはくれない。鈴音はトイレに行くふりを装ってラウンジに駆けていった。ドアを開けて中を見て、はっ、と息を呑む。

 向井唯月はそこに居た。全身の紫色の斑点は消えてしまっているが、もっている雰囲気がまったくべつものになっていた。

「……むか、いくん?」

 唯月とは思えなかった。今まで見た、トンボや、アゲハとは、全然違う……ベツモノ。

 イスに腰掛けて、片足だけ腕で抱えている彼は、ゆっくりとこちらを見た。すべてを射抜くような、寒気しかない怖い瞳だ。

「だ、れ……?」

 問いかけに、唯月は無表情で応じてくる。

「だれって……『おまえ』は知ってるだろ」

 今までの唯月の誰よりも無愛想だ。眼帯を邪魔そうに外してポケットに無造作に突っ込んでいるが、その瞳は昆虫のそれではない。

 だれ、だ?

「スズネ、報告はアゲハから聞いている。もうオレしかいないから、『覚悟』しろ」

 かくご。

 その言葉の重みに鈴音は身を軽く引く。

「あなたは……誰なんですか。私をどうして巻き込むの……私は誰なの……」

「敵の名前は木村佐和だったか。開館時間じゃないのか」

 ぶっきらぼうに述べる言葉にあっとして鈴音が身を返す。あれは『誰』だ。

 ドアを閉めて駆けていく鈴音はそれでもわかってしまった。あの男はトンボでもアゲハでもなく、そして鈴音が何者かを確実に知っている。

「開館しまーす」

 宇堂香奈の放送が館内に響き、全員が一斉にすべてのドアの鍵を開けて、自動ドアのスイッチを入れる。朝一番に新聞に読みに来る中年男性や、ベビーカーを押して入ってくる母親。

 いつも通りのはずだった。

 けれど自動ドアをくぐった瞬間に、ベビーカーに乗っている赤ん坊以外がその場で電流を受けたように息を呑んだ。何事もないような様子だったが、鈴音は佐和の仕業だと気づいてしまった。

 電気が流れている場所はすべて彼女の自在にできる領域のはずだ。そして彼女はまずはこの図書館を試験的に使うと言っていた。

 なにをするつもりだ。

 恐怖を感じながら鈴音はローテーション表を確認して、貸出カウンターの席に腰掛けた。

 視界には、新聞を広げて呼んでいる中年の男性。佐和はじっとそちらを見ている。どこか楽しそうに見えるのは勘違いなのかもしれないが……。

 料理の本が置いてある棚を眺める女性客は早速色々引っ張り出しては、棚の右端に置いている。元の場所に戻さない客だって多いのだからいつものことだと鈴音が見ていた。

 その女性は借りる本を選んで窓口にやって来た。バーコードリーダーを使って、その本の情報を読み込んでいく。その時だ、異変が起こったのは。

 返却のところで利用者の一人が悲鳴をあげたのだ。あちぃっ、と右手を押さえている。

「大丈夫ですかっ?」

 宇堂香奈が慌ててカウンターをまわって、座り込んだ客の様子をうかがう。

 利用者は「あれ」と呟いて「なんでもない」と立ち上がって、開架のほうへと行ってしまう。不思議そうにする香奈だったが、同じ貸出にいる佐和がうすら笑っているのがかなり不気味だった。

 そうすると今度は児童フロアのほうで子供が大泣きする声が館内に大きく響いた。

 驚いて鈴音は窓口を離れて児童フロアのある一階を覗く。すると、本を持っている子供が突っ立って涙を流し、傍に居る母親が慌てている。

 これは明らかに佐和の仕業だろう。

「木村さん……」

 鈴音は静かな怒りを灯らせて窓口に戻ってくる。

「なにを、したんですか」

「機械を通した本を乱暴に扱うと、それが跳ね返ってくるようにしただけだけど?」

「どういうことですか!」

「わたしの能力じゃ、こういうのが限界かなって、まあただのお試しだから死ぬようなことはないって。ちょっとビリッとくるだけ」

「そういう問題じゃないと思います」

 小声で文句を言うと、佐和は肩をすくめた。

 利用者から見えるカウンターで大声で佐和と喧嘩をするわけにはいかなかった。それに、これは明らかに『バグ』の起こしたことで……通常ならば、受け入れられるような事柄ではないのだから。

 イスに座っている佐和は、珍しく怒っている鈴音に対してまったく態度が変わらない。

「わたしがやりたいのは、『ペナルティ』なんだよね」

「ペナルティ、ですか」

「そう。延滞したやつはそのぶん借りれなくなる。本を壊したやつはまあ今と変わらないけどさ、なんつーのかなぁ、『意識』を変えたいのが本音だね」

「意識」

「そ。『ここは無料でやってんじゃないんだぞ』っていう、意識ね」

 ああそっか。じゃああれ、やってみようかな。

 佐和はどこか楽しそうに呟く。

 返却カウンターでお茶を零して、というのが聞こえる。宇堂香奈が本の状態を確認していたが、その時一斉に、近くにいた客たちがその利用者を罵倒したのだ。

「ふざけんじゃないわよ! あたしの税金も使って買った本にお茶零すとか、『借りてる』意識ないわけ?」

 甲高く非難する女性客はハッと我に返ってから首を傾げて不審そうにしている。

 頬杖を軽くついて、佐和は「あれはちょっとないかぁ」と洩らした。

「どうするのが一番いいのかなぁ。難しいね。ねえ三田村、いい案ない?」

「……木村さんは、なにがしたいんですか」

「だから、『罰』と、『報い』と、『赦し』かな?」

 苦笑する佐和は、けれどもゆっくりと立ち上がった。

「使えないんじゃかったの、あのインセクト」

 苛立たしげに佐和は顔をしかめた。鈴音の知っているインセクトは、ラウンジで休んでいる向井唯月くらいだ。

 世界が一瞬で白く染まった。そして利用者も、ほかの職員の姿も消えてしまう。

 残された鈴音が、目の前の佐和が赤い靴の喪服姿でぎろりと鈴音の背後を睨んだ。振り向いた鈴音は一瞬で腕を掴んで引っ張られて唯月の後ろへと移動させられる。

 じとりと見られた鈴音に、唯月がぼそりと言う。

「『おまえが一番危ないから』さがってろ」

「?」

 不思議そうに瞬きをする鈴音から視線を外し、鞭を持った佐和が不愉快全開で唯月を睨んでいた。

「どういうこと? あんたには動けなくする『毒』を使ったはず!」

「ああ。おかげでトンボもアゲハも使い物にならなくなった」

 淡々と言う唯月は、軽く首を傾げる。やはり違う。鈴音から見ても、別人だとわかる。『彼』はトンボでもアゲハでもない。では……だれ?

 鞭を構える佐和は、ダン! と一歩足を踏み出す。刹那、床下の電気系統の様々なものが彼女に反応を起こし、ばちばちと火花が散った。

 それを唯月はなんということはないように見ている。彼は面倒そうに眉根を寄せた。

「確かにおまえは『難敵』みたいだ」

 唯月はぼんやりと言う。構えていた佐和としては逆に不審になったことだろう。

「それにデータ上でおまえは『死んでない』から、殺すわけにはいかないみたいだし」

「? なに言ってんの、さっきから」

「でも、オレしか残ってないならやるしかないからな」

 瞼を閉じ、そしてゆっくり開ける。唯月の両目が、金色になっていた。

 両手をズボンのポケットに突っ込んでいる唯月は静かに呟く。

「『みんなキエロ』」

 洩らした言葉はまるで呪詛。

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