アゲハ 3
次に目覚めた時、そこは病院ではなく図書館内にあるラウンジだった。イスを並べて簡易ベッドの変わりにしているのだろう。
起き上がろうとした鈴音に、不機嫌そうに見下ろしている向井唯月の姿が目に入る。
「あ、向井く……」
「てめー、ほんっとトロくさいっつーか、なんでそうなんだよ!」
怒鳴る唯月が珍しいこともあったが、彼はいつからこんな乱暴な口調に変わってしまったのだろうか。
驚いて目を丸くしている鈴音に気づき、チッと舌打ちまでしてくる。
「オレはおまえの知ってる『トンボ』じゃねーよ。それくらいわかるだろ」
「え? ど、どういう……」
「めんどくせーし、オレそういうの嫌いだから省く。で、オレのことは『アゲハ』って呼べ」
「アゲハ?」
「そう。ま、この体が向井唯月だから仕方ねーけど、人がいない時はアゲハだ!」
「え? じゃ、じゃあトンボ、くんは?」
ゆりと話した夜に、鈴音がなんらかの力で彼らをあそこから消してしまったのだ。戻ってからの唯月と二人きりで喋るのは今回が初めてかもしれない。
喉には包帯が巻いてある。手当てをしたのはおそらくアゲハだろう。
「トンボはちょっと寝てるっつーか、ま、ここにはいねぇよ」
「いない?」
「いわゆる、なんつーの? こういうの、多重人格?」
唯月がそんな人物だとは思わなかった。
「トンボくんは大丈夫なの?」
「あー? 大丈夫じゃねえの? つーかほんともう、おまえさぁ……いい加減にしてくれよ」
足手まといになっている自覚はあったので、鈴音は俯いてしまう。
「ごめんなさい……私のせいで。それにわたし、『バグ』になる可能性が高いからあの白い世界にいるんでしょう?」
「…………」
無言でこちらを嫌そうにアゲハが見てくる。
彼はそのまま携帯電話を取り出して誰かに連絡をとってる。
「最悪だわ。まただ。こいつ、使い物になんねー。
は? いや、わかるけど……」
渋々というように通話を切って、アゲハは溜息を大きく吐き出す。
「それより木村佐和だな。あいつの目的がよくわかんねー」
「本を大切にしてほしいって、言ってたね」
「それだ。目的が曖昧で、かつ、範囲がでかい。
各務恵理子や、尾張真紀子みたいに特定の範囲での話じゃないからな」
「…………」
「それに、木村佐和はほかの二人ほど深刻な理由が、情報がない」
はっきりと唯月は言い放つ。
確かに鈴音も、佐和が何かに困っているとか、そういうプライベートな話は聞いたことがなかった。
壊れた本を見ては毎回辛そうにしていたが、せっせと修理していた。それは見事なもので、宇堂香奈も「木村さんみたいに糸縫いとか、色々やってみたい!」とはしゃいでいたほどだ。
「木村佐和についているのは『赤い靴』だろーな」
「ど、どんな話でしたっけ?」
あまり記憶にない。
あかずきんは世界的に有名だし、『青い鳥』も有名だ。だが鈴音はあまり馴染みのないタイトルに戸惑ってしまう。
アゲハはまた溜息をついた。
「簡単に言えば、執着心の強いある女の子が赤い靴履いて教会に出席したりしてて、それを見咎められて呪いをかけられて勝手に動き出してずっと踊り続ける羽目になるって話だな」
あまりに適当な説明に鈴音が首を傾げてしまう。
「主人公の女の名前はカーレーンだったか。どれだけ疲れても踊らされ続けるから、両足を切り落とす話だ。で、悔い改めるとか? そんな感じじゃなかったか?」
「りょ、両足を切り落とす……?」
「童話じゃよくあるだろ、そういうの。おまえみたいに意識がはっきりしてりゃ、異常な話だってことくらいはわかるんだがな」
なにかを『こらしめる』。
なにかの『参考にする』。
童話は子供たちに読まれるために、そこに教訓を入れることが多い。あかずきんは簡単に他人を信用するなと暗示しているし、青い鳥は幸せは身近にあるものだといっている。
佐和はなぜその物語に憑かれているのだろう。
こらしめる。
だが彼女は「お仕置き」はしないと言っていたではないか。
*
返却された本をぱらぱらとめくり、異常がないかを佐和は確認する。勉強机の一帯を占めるのは、毎日来る常連の中年男性たち。いや、もう中年ではないかもしれない。
勉強熱心に辞書を使ってナンクロを解いているのを眺めると、それもまたありなのかと思えてしまう。
逆に、利用者が自由に使えるパソコンでは小学生の三人組の少女が集まって何かを見ている。動画のアニメを見ているのは知っているが、注意するのやめるという職員からのお達しで放置している。
(見てるのが、違法にアップロードされた動画なんだけど……。ま、関係ないんだよねぇ)
一度職員によくないのではと進言したことがあったのだ。
「あれは調べ物をするために必要だという前提だったはずです。それに、誰かがあそこを占領していたら使いたいなと思っていても、使えない控えめな利用者が困ると思うのですが。
それにゲームの動画を見るのは調べものとは思えないのですが……」
「いや、ゲームの攻略法を調べるために見てるかもしれないですしね」
と、のんびり応じた正職員の男性を、佐和は信じられない目で見た。
それはふつう、家でやることではないのか? ゲームの攻略法を図書館で調べる? 意味がよくわからなかった。
べつにいいんじゃないですか。、と言う正職員は多い。図書館の複写法に関しても詳しくないから、簡単に全部コピーしようとするが、完全に違法に引っかかるようなことだと気づけば……真紀子が率先して止めていた。
その真紀子はもういない。
(市民のみなさんは知らないんだよねぇ。図書館を運営してる連中が、ここの窓口にほとんど立ったこともない連中だってこと)
司書でもなんでもない人物たちが選書をし、本や雑誌を入れているのだ。
正職員は公務員だ。長くそこに居ないのは、癒着を恐れてのことだとわかってはいるが、その負担はすべて臨時職員にくる。
同じ臨時職員が長くいるのは、図書館内の仕事を正職員たちが把握していないせいもあった。
ページが外れている児童書を修理用の置き場に持っていくと、山積みになっていることに吐き気がした。
修理する速度よりも、壊れる本のほうが多いのだ。これではいつまでたっても男わらない。それに正職員は修理作業はしない。
本は何度も読まれると壊れてしまうものだ。仕方ないとわかっている。でも、もっと大事に扱ってほしいと思うことはいけないことだろうか?
(専門の図書館に行ったら違うかな。やっぱりそうだよね。ここは公共だし、わたしは臨時だし)
不満はあっても、佐和にはどうにもできなかった。
「サワ、結局どうしたいの?」
背後から赤い靴を履いた少女が尋ねてくる。
「漠然とした願いは、あたしには叶えられないよ」
「そうね」
佐和はそう言って、窓口に戻ってしまう。
苦情に対して佐和はたいして何も思わなかった。恵理子や真紀子が神経質になったのは性格もあるだろうが、あの二人は真面目すぎるのだ。
「あのぉ」
窓口に来た老女に、佐和は笑顔で「どうかしましたか?」と問いかける。
「自分が生まれた日が知りたいんです」
「……それは、市役所に行かれたほうがいいのでは」
「違うんです!」
老女の勢いに佐和は驚いてしまう。
「あの頃は数え年で、一月に出すんです。私が生まれた本当の日は違う日で、それが知りたくて。それがわかるような本はありませんか」
旧暦で覚えているため、今の本当のものが知りたいそうだ。
佐和は考え込む。中規模で中途半端なこの図書館に、その比較になるような本があったという記憶が佐和にはなかった。
自分でインターネットで調べろというには酷な年齢だろう。仕方ない。
佐和は「お待ちください」といって、暦が載っている本を片っ端から目を通していく。旧暦と新暦を比べている本はやはりない。
そもそも本というのは、大抵の場合は「売り上げ」を気にして出版されるものだ。利用者の多くは自分の求める本があると思ってやってくるが、「売れない」本を作るほど出版社も暇ではない。
世の中を牛耳っているのは結局は金なのだ。だから売れる本は力が入っている。書店を見れば、売ろうとしている努力が見え隠れするではないか。
だが図書館は?
(全然みえないよねぇ)
そもそも図書館を「理解してもらおう」という努力を一切していないわけだから、利用者はイメージだけでやって来るし、注意をされると不愉快な顔をすることも多い。
「飲食禁止です」
そう注意した時も、「ガムは食べ物じゃないよ」と男は言ってやめてくれなかった。
注意書きは確かに小さく、目にも止まらないだろう。館内での電話の通話はやめてくれという注意書きも、まったく意味をなしていない。
だが注意書きにはすべて理由があって、書かれている。ガムやチョコなどの飲食を禁止しているのは、館内でガムを幾つもの本に貼り付けてだめにするという事件があったからだ。
飲み物に関しても給水機を用意しているにも関わらずペットボトルで飲んで、そのまま手を滑らせて、目の前の本を濡らしたという事例があったせいだ。
通話禁止に関しても、声が大きすぎて周囲の客からいくつも注意しろという苦情が寄せられ、注意した結果その男は怒鳴りあげ、暴れて窓口の机を蹴ったりとひどいことがあったのだ。
注意書きには意味がある。けれどそれを見ない、気づかない客。
この発信力のなさに、佐和はうんざりする。
よりよい図書館にするには、まず図書館はこんなところだというアピールをしなくてはならない。それが足りないと佐和はずっと思っていた。
思っているだけでは相手には通じない。言葉にしなければ通じない。
(ないなぁ)
佐和は仕方なく窓口に戻ってきた。本はないけれど、この老女では調べ上げるのは難しいだろう。
インターネットを使うしかない。答えを直接教えるのはよくないが、いいということにしよう。
素早く新暦と旧暦が比較されているサイトを見つけ、逆算してその老女の誕生日を割り出す。
「これがお誕生日だと思いますよ」
と、メモに書いて差し出すと、老女は目を輝かせ、「ありがとうございます」とお礼を言って去っていった。
何度も頭をさげて去る老女に笑顔で手を小さく振っていたが、彼女が途中で言っていたことが気になっていた。
「友達がね、図書館なら教えてくれるって言ったので寄ってみたんです」
(……なにが教えてくれるだ。人間検索機か、わたしらは)
便利屋か何かと勘違いしていないだろうか。一度、自分の家のプリンターがうまく印刷できないから、その方法の載っている本を出してくれと言って来る客がいたことも思い出した。
ネットをするのも好きな佐和は、「お使いのプリンターはどこの製品でしょう? 種類がわかれば、特定しやすいので」と申し出たが、男は「そんなの知るか」と怒鳴り返してきたのだ。
使っているプリンターによって様々に対応が違うというのに、なにを言っているんだと佐和は呆れた。
「説明書があるなら、そこにサポートセンターの連絡先があるので、そちらに連絡されてはどうでしょう?」
「うまく印刷する方法が載ってる本はないっていうのか!」
「お使いのパソコンのOSはどれですか?」
明らかに所持している知識に差がありすぎた。佐和はOSで違えば、探す本も変わってくることを理解しているが、客にそれは通用しない。
わからないと洩らす客に「サポートセンターに電話をするのが難しければ、近くの家電量販店の店員に聞いてみるのもいいと思います。必ず使っているパソコンの製造番号やOS、プリンターも同様にメモをしていくとスムーズにいくと思いますよ」
と、男性に言った。
使っているパソコンもプリンターの種類もわからないのでは、いくらなんでも本を探すのは困難だ。
男性は素直に帰ってくれたが、あれはそもそも図書館に来るべきことではないと今でも佐和は思っている。
利用者に対して、確かに腹が立つことも多いが、特に何も思わなかった。
ただ、本を壊されるのは佐和の心を一番苛立たせるものだった。老朽してしまって壊れるならまだしも。
「子供が目を離した隙に破いてしまって」
と本を返却に来る親の多いこと。
子供を大人しくさせる遊び道具のひとつに過ぎないのはわかるが、悪びれもせずに言う親の顔をじっと見てしまう。
すみませんと頭をさげる大人と、弁償しますと言う大人、破ってすみませんとも言わないで去る大人。




