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アゲハ 1

 唯月の言葉に真紀子は首を傾げた。

「べつに。でも、基本的なところは守ってほしかったかな。『図書館では静かに』。これくらいは常識でしょ?」

 あと飲食禁止もね。

 付け加えて笑う真紀子は、本当に最低限のことしか求めていなかったのだ。そのことすら、この図書館は応えてくれなかったのだ。

 それでも辛抱して働いてきて、そして、次はないと言われ、直そうとではなく……絶望したのだ。

 これ以上私にまだ求めるの、と。

 まだこれ以上、なにも報いをくれないのに求めるのと。

 人間というのはモチベーションがあがらなければ結局はやる気を失っていくものなのだ。やり遂げたと思った達成感もその一つだが。

 まったく変化をしない場所でさらに真紀子に求めるのは確かにかなりの苦痛になるだろう。

 もうちょっと給料をあげるとか、必ず契約更新をするとか、確約さえあれば真紀子はそれを糧としてやる気を出しただろう。

 だが……人間というのは落ち込んでいるところに『燃料』を投下されなければそれでおしまいなのだ。ガソリンの入っていない車に走れと命じるのは無理だろう、それと一緒だ。

 正職員の説得も、真紀子の『燃料』にはならなかった。説得というよりは、対話であったようだが、それでモチベーションがあがるわけがない。

 不可思議な衣装に変化した真紀子はけらけらと笑う。

「私の『燃料』はお金だった。でも、もうあの金額じゃああれが限界。毎月毎月、自分のでもない借金も返し続けながら生きていくのは、しんどいもんよ?」

 眼帯を外した唯月が顔を歪める。

 江口からは聞いている。真紀子の父親は親戚たちからも借金をしている。だからこそ、真紀子は親戚とも疎遠になった。

 助けてくれる、相談できる大人は誰もいなくなってしまったのだ。たった一人の、確かにストレスの原因にはなったが愛してくれた母親を除いて。

「もっと稼げるところに行きたかった。でも貯蓄できるほど残らないんだよねぇ……。引越しもできないしさ」

 仕方ないと諦めながら働いてきた。一度は庇ってくれた館長のことで立ち直ったが、その時代は彼女の母親が『まだ』生きてきた時代だ。

 母のためにも真紀子は死を選ばなかったに過ぎない。自分がいなくなったら母は本当にひとりになる、と。

「私の借金話なんて、みんな知ってる。この図書館で知らないのは、4月に配属された新人くらいじゃない?

 でもね、状況はなんにも変わらない。助けてくれって言ってないけど、誰も親身にはならない。そりゃそうだ、ここは仕事場で、プライベートじゃない」

 燃える炎は闇夜の中で異様なほど美しかった。

「とまあ、色々語っちゃったわけだけど、見逃してくれないのはわかってるよ」

「ああ」

「最後はこの図書館を見ながら戦いたかったんだ」

 駐車場から、大きな箱型の図書館を見上げる真紀子の瞳は真剣だった。長く勤めた彼女にとっては特別なのだろう、様々な意味で。

 唯月はゆっくりと視線をおろしてから、あげて真紀子を見る。奇妙な右目で。

「『青い鳥』のチルチル、尾張真紀子の『バグ』だな」

「ご明察! そう、僕はチルチル。マキコのパートナーだ」

 口調が完全に変わった。それはチルチルが表面化したからだろう。

 片手に持つ黒い鳥かごの形状が徐々に変わっていく。どろりととけて、唯月を攻撃するように照準を定めている。

 世界はまだ変わっていない。白い世界にいないというのに、なぜだろうかと唯月は警戒していたが、簡単なことだった。

 真紀子は隠すつもりはなかった。この腐敗した図書館の存在を。

 『バグ』が発生し、もはや取り返しがつかないのだと。

 周辺からは燃える鞄からのぼる煙も見えているはずだ。警察を呼ばれて困るのはインセクトたちのほうだろう。

 彼らはあの空間以外で戦えないのだから。

「僕の物語を知ってるかな? 結局は、貧しい家こそが求めていた場所だったという……そういうオチなわけだがね」

「……続編があります」

 チルチルが振り向いた。駐車場に停車してある軽自動車から三田村鈴音が静かに降りてくるところだった。

 唯月は目を見開き、一瞬で彼女を庇うように移動した。

「あまり知られてはいないですけど。それに、あれは『童話』じゃないですしね」

「三田村鈴音」

 チルチルが怪訝そうにする。だがすぐに表情が変わった。

 たとえ後輩の鈴音であろうとも、容赦をする気はなかったのだ。人間の肉体の腐敗は意外に早いのだ。急がねばならない。

 鞄が放つ炎を取り込んで形状変化をした鳥かごが二人を貫くためにきりきりと動く。庇うように立つ唯月はビュッと伸びた細い棒状のそれから鈴音を守るために彼女を突き飛ばした。

 ゆっくりと倒れていく鈴音の視界では、喉まで貫かれた、たくさんの大きな針に貫かれた唯月の姿がスローモーションで見えていた。

 憧れの職業だった。

 大好きな本を扱う、憧れの職業。

 学校の小さな図書室では満足できないけど、田舎の、しかも貧乏な私の家ではバスで遠出もできない。

 親に、叱られると怯えて、いつもお金がないことに悔しさを噛み締めていた。

 江口から真紀子も似たような境遇だと言われて車の中で何度も泣いた。きっと真紀子も最初は鈴音と同じように希望を持ってここに勤め始めたのだ。

 それなのに。


「鈴音さん!」

 怒声に、昔のことが走馬灯のように脳内を駆けた。

 どうしようもない父。苦労ばかりするお人好しの母。夢想ばかりする……私。

 目の前には背中がある。学生服の彼は、私を庇うようにして立っている。

 何が、起こっているの。

 私は、私はただ…………本が好きなだけなのに。

 アア……羽虫の音がする。ぶぅんぶぅんと、耳障りな…………ちいさなちいさな、ムシのハネのオト。

 貫かれた唯月が苦しそうに血を撒き散らしながら手を伸ばしてくる。どすんと地面に尻をついた鈴音は、まだ相手の攻撃が終わっていないことに驚いた。

 オワリ。

 唯月が必死に攻撃から庇おうと両手を広げる。

 でもそんなの無意味だ。

 そう、無意味なのだ。

 ムイミなのは、どうして?

(だって私は)

「『トンボ』!」

 叫んだ瞬間、唯月の瞳が奇妙な唸りを起こした。ヴヴヴ、と奇妙な音を発した刹那、彼は両腕を素早く見下ろして、ぐるんと体の向きを変えてその腕を交差させた。

 ばきん! と襲い掛かってきていた鳥かごが防がれる。鳥かご以上の硬度のあるもので防がれたせいだ。

 だから、鳥かごは負けた。

 驚くチルチルとは違い、唯月は目を細めた。

「『トンボ』の瞳に捉えた獲物は『喰われる』」

 呪文のような呟きだった。唯月の足元の彼の影が急激に大きく伸びたかと思ったら、膨らんで盛り上がった。そこに在ったのは、闇色のなにかだった。

 なにかは鈴音には理解できない。ただそこに大きな闇があって、悲鳴をあげるチルチルを呑み込んだのだ。いや、その前にその闇色の塊から幾つも手が伸びた。獲物を捕まえて、たべた、のだ。

「ぐっ、おの、れ」

 間一髪なのかそこは白い世界に変わっていた。そして、左腕を失ったチルチルが震え上がるような冷たい瞳をしていた。

「弱いトンボじゃなかったのか、おまえええええ!」

「『トンボ』という名を持つインセクトはオレだけだ」

 小さく言う唯月の影は、この白い世界にも存在している。鈴音は動けなく、ただ見守るだけしかできない。

 いや、わかる。わかっているのだ。

 江口から言われたではないか。君はトンボの力になれるよと。

 マキコさんを救いたくないかい?

(はい、救いたい。でも、たぶん尾張さんはそれを望んでいない)

 なぜ鈴音がここにいるのか。それはまだわからない。だけど、わかることがあるのだ。

 自分は、向井唯月を知っていて、彼もまた、自分を知っているのだ。

 白い世界に普通の人間は存在できない。まけないで、と彼は言った。

(それって、どういうこと?)

 まだわからないことは多い、だけど、鈴音は唯月が本来の力を発揮しているのを感じている。インセクト『トンボ』。それはその魔眼で捉えた相手を捕食する能力者。

 白い駐車場を駆け巡るチルチルを影が追いかけている。唯月はそこから動かないが、チルチルを視線で追っている。そのインセクトの瞳で。

 影に追いつかれたチルチルが完全に影に覆われてしまい、そのまま消えた。影の中に完全に。

 影は唯月の足元に戻ってきて消える。そういえばこの白い世界の中には影は存在していなかったはずだ。

 白い世界が消えうせ、そこは元の駐車場だった。こんなものなのだろうか? なんだか違う気がする。違和感がしていた。

「違う」

 ちがう。

「『インセクト』の戦いじゃない」

 呟く鈴音に、驚いたように唯月は肩越しに見てくる。彼が怪我をしていたのも忘れて、鈴音はよろめきながら立ち上がる。

「違う。ちがう」

 なにが。

 どう。

 ちがうのか。

 自動車から江口が飛び出してくる。

「唯月!」

「ツクモ!」

 消えた。

 消えた。

 江口も、軽自動車も。

 向井唯月も。

 そこには鈴音しかいなかった。

「…………へ?」

 わけがわからない。

 何が起こったのかわからなかった。

 ぱちぱちぱち、と拍手が聞こえた。音のするほうを見ると、手すりの上に誰かが立っている。それは同じ図書館に勤めている深井ゆりだった。

 ゆりは真紀子よりも年上で、勤続年数は長い臨時職員ではあるが、彼女自身が鈍く、気がきかないとみんな言っているので多くは求められない人物だった。

 そしてなにより、ゆりと鈴音はあまり喋ったことがない。

「よいしょ、っと」

 手すりから軽々と跳躍して鈴音の前まで来たゆりに、鈴音が露骨に怯えた表情をみせる。するとゆりは困ったように笑う。

「怖がられた、かな」

「深井さん……見てたんですか?」

「見てた。同じ『バグ』だから」

 さらりと告白をされて鈴音は一歩後退りをした。アスファルトの地面が少しだけ音をたてる。

 ゆりはのほほんとした表情で「でも」と続ける。

「三田村、あんたもでしょ?」

「え?」

 まけないで。

 なぜ、こんな時に唯月の言葉を思い出すのかわからなかった。

「あんたの『能力』で、嫌なインセクトどもはどっかに飛ばされたわけだ。フフッ、ざまあみろだわ」

「……深井さんは、どうして、『バグ』だって……」

「各務や尾張よりも先に『バグ』になってたわよ」

 笑顔で言うのがさらに不気味だった。唖然とする鈴音に彼女は笑いが止まらないらしい。でも、やはり夜なだけあって笑い声を必死に堪えている。

「いいわね、その反応。そもそもあいつらは、あたしを見落としてたのよね、『最初』から」

「さいしょ、から?」

「そう。目的は各務でしょ? 各務はわかりやすいもん」

「深井さん……」

「こういう『バグ』もいるの。共生関係、って言うのかしら」

 だが、おかしいではないか。では目の前の彼女は深井ゆりなのか、それとも『バグ』なのか。

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