トンボ 10
車道に出て死にたいと。
車を運転してる人には迷惑だよねえ、と笑って話す真紀子の姿がありありと浮かんだ。
だが真紀子は、ただそれを実行に移していないだけだ。きっかけさえあれば彼女は言っていることをあっさりとやってしまうタイプの人間だろう。
そのことにダレも気づいていない。
言っている『だけ』で済んでいるこの奇跡を、だれも……そう『ダレ』も、理解していないのだ。
「館長補佐の八木沢さんとけっこう仲がいい時期があったけど、彼女から言われたのもきつかったし、結局八木沢さんはわかってないんだね」
江口の言葉に唯月は血の気が引いた。
嫌な、予感が。
する。
「江口……尾張さんは本当は、もう、死んでるんじゃないのか」
「……………………そうだよ」
あっさりと江口は肯定した。
無理に出勤して、職員に説得されて。
真紀子は。
あっさりと実行したのだ。
タイミングがきた。
その時が『きた』。
たったそれだけの理由で彼女は死を選び、その肉体を『バグ』に染め上げた。
「死体は……?」
「さっき会っただろ」
着ている衣服の下の状態を想像して、唯月は愕然とする。見えないから誰も気づかない。真紀子がすでに命を絶っていることを。
江口は前かがみになって、ハンドルにもたれた。
「死ぬことだけはだめよ、ってみんな言うけどさ、言う『だけ』だもんね。言うだけならタダだし、心配したことに一応なる。でもそれは、言われたほうにとって、果たしてストッパーになるかなぁ?」
「…………」
「どんなに苦しくても生きてないとって言うのは、心の弱った人には逆効果なだけだよねぇ」
逃げるわけではない。心の弱った人々は、決着をつけるだけなのだ。
世間からは逃げたようにみえることだろう。だがおそらくは、完全にタイミングがきたらその手のタイプの人々はあっさりと死ぬ。
未練がないのだ。
「ベッドから動けない人にとってはうらやましいかもしれないよね。自由に動ける体があって、好きなことができる。
そう『見える』だけであって、尾張真紀子の心は回復しようがないほどに落ちていた。心の傷っていうのはさ、見えないから厄介だって言うじゃない?」
「ああ」
「精神科の医者だって他人の心が見えるわけじゃない。彼らは統計と、慣れで相手を判断する。死ぬわけない。大丈夫だと。
そんなのわかんないじゃない。だって実際に」
病院に行き、接客と人が怖いと悲鳴をあげて訴えた真紀子にその医者は大丈夫だと言い聞かせたのだ。
お金に困窮している真紀子の生活のことも考えたのだろうが、その医者には真紀子は『見えて』いなかった。
「尾張さんは躁状態がすごく長いんだ。だから、医者も気づかない。鬱に落ち込んだ時に彼女は助けをまず求めるが、求めても今はダレも助けてくれない」
「一種の錯乱みたいな扱いになるってことか?」
「元来の彼女は明るくて前向きだったからね。鬱になってから彼女のベクトルは完全に別方向へと向いてしまった」
江口の語ることは真実なのだろう。尾張真紀子はすでにもう、いない。
「医者は彼女に、仕事に行くべきだと言ったそうだ。そりゃ、医者の考えはわかんないけどさ、一般人からすれば酷な話だよね」
人が怖いと言っているのに、おそらく真紀子は助けてほしいという信号を出して病院に言ったのだ。
だが医者の解決は心のケアだけで、彼女の生活を助けることはできない。
真紀子はおそらく閉じこもっていた一週間で冷静になっていったのだ。
無理をして仕事に行く意味はなんだ? 生活のためだ。金のためだ。だったらもう。
生活しなくなれば、お金も必要…………ない。
「考え方が極端だと彼女は職員にも言われていたよ。だけど彼女は元々賢いんだ。各務恵理子のしたことはすべて、尾張真紀子が冗談半分に彼女に言ったことらしいからね」
「なんだって……?」
「各務恵理子がやらなければ、タイミングがくれば尾張真紀子はあれと同じことを実行したはずだよ」
すべてはタイミング。
唯月は恐る恐る尋ねる。
「死んでいる真紀子は『バグ』として強い。なにせ各務恵理子と違ってもう死んでるんだからね」
「なんでみんなそんな簡単に死ぬんだ……」
悔しそうな唯月を、江口はなんてことはない顔で言う。
「確かにこの先には、彼女たちには幸せが待っているかもしれない。だけど、それはわからない。
唯月もゲームオーバーだと思ったのを、尾張真紀子も思ったはずだよ」
「っ」
「彼女は経験値がない。ここでしか働いたことがないから自信もない。年齢からすればまだチャンスはあるが、就職難の中で見つけるのは難しい。
次に働く場所はないとわかっていれば、彼女がやることはひとつだよ」
「そ、」
「諦めたと思っちゃいけないよ、唯月。唯月と同じ感じ方を彼女もしたはずなんだ。つまりはね、職員にとってそこで『終わり』でなくても、真紀子にとっては『終わり』だったんだよ」
ひとは、同じではない。
その職員の感じたことと、真紀子が感じたことはまったく一致しないのだ。
同じ言語だけ話していて、違う意味にしか受け取れない状態の真紀子にはおそらくなんの説得にもならなかっただろう。
では真紀子の魂は残ったまま、そこを『バグ』と同化して動いているのだ。肉体は腐っていくいっぽうだ。やるべきことがあるなら、早くに実行するだろう。
その目的は。
「尾張真紀子の目的は、恨みのある相手の貯蓄をゼロにすることだ」
「へ?」
「相手の生活をぐちゃぐちゃにするのが彼女の目的なのさ。意外かい? 破壊するって、どんな大層なものだと思った?」
「…………」
「でもさ、あるはずのお金が全部なくなってたら普通の人間はパニックになるよ。お金がないと生活できないようになってるからね、今の世界は」
**
帽子についた宝石をぐるりと回せばあっという間。
白い世界を真紀子は駆ける。ここに存在はしないのは人間だけ。ほかのものは、白く塗りたくられていても存在はしている。
メモをした家に容易く進入して、真紀子は銀行の通帳と印鑑をあっさりと見つける。これも『バグ』の能力として備わっているのだ。
暗証番号もわかってしまうから面白すぎて、笑いが止まらない。
真紀子はできることを一度にやるタイプだと知っている。だから、仕事が終わってまず白い世界に入って、職員の鞄から財布をすべて奪い去った。
なに食わぬ顔で時を動かし、そしてそのまま帰宅する。家に帰っても、誰も迎えはくれない。冷蔵庫の中にあるのはアイスだけだ。最近は固形物を食べると吐き出してしまうからだ。
スマホに入れてあるデータを眺めて、着替えをして白い世界へと足を踏み入れる。時の止まったその世界で、スマホの表示も停止している。
目的地へ導くのは、帽子についたダイヤ。くるりと回してそこへと跳躍するのだ。
それをすべて終わらせてから、職員の家へと家宅侵入していく。白い世界には誰も入れないので、堂々と盗んできた。
銀行の営業時間は終わっている。だが、大きなスーパーに設置してあるATMや、コンビニのATMからは暗証番号さえわかればお金はすべて引き出せる。
真紀子は淡々と様々なコンビニやATMをまわってお金をすべて引き出して鞄に入れていく。さすがに重くなってきた。
これはきっと、家族を養うためだったり、色々な理由があってのお金なのだろう。大事なものなのだろう。
だが。
関係なかった。
だれの未来も保障はされていない。真紀子は未来をみるのをやめた。他人の未来を踏み躙ろうと思っているわけではない。
チャンスがあるならば、挽回できるだろうと真紀子は単純に考えた。
綺麗ごとを言う職員の、「ここでゲームオーバー」じゃないというならば、今までの貯蓄がなくても……前を向けるはずだ。
前を向くのが当然ではないのか。真紀子は自分でゲームオーバーにしてしまったが、そうではないというならば。
「見つけた」
図書館の駐車場に現れた真紀子を待っていたのは、向井唯月。弱いインセクト。噂に聞いていた『トンボ』とは別人なのだろう。
持っていた鞄を地面に落として、真紀子はライターに火をつけて鞄に落とした。中に入っている紙幣がじわじわと燃えていく。
「尾張さん……」
「馬鹿なことしてるってあんたたちは思うんだろうけど、私はそう思わない。
私はお金が大嫌い。綺麗ごとで片付ける他人が大嫌い。知ってた? 私、お金を切り詰めるためにお風呂にまともに入れないの。シャワーもね。
食べるものだって、毎日200円って決めてる。お昼ごはんはどれだけ栄養が偏ってても、安くておなかにたまるカップ麺なんだよね」
「…………」
「父親を恨んでるけど、もうどうしようもないからそこは考えない。どうせあのひとは変わらないもの。
でも、さすがに庇ってくれた当時の館長に悪いからって自分なりに直してきたことを否定されるとさ、やっぱりだめだよね」
「……オレは、」
「ああ、ほかの臨時にも少なからず苦情がいってるのはわかってるよ? でもさ、その気がなくても全否定された人間は辛いわけ」
「尾張さんは、オレから見てもすごいと思いますけど」
「ありがと。だけどさ、子供に手を振り返さなかったとか意味不明な理由で苦情がきて、それで次がないとか言われてさ、あんたどうやってこれから過ごす?」
「…………」
「そもそもこの図書館、方向性がわかんないから気になってたんだよね。土日は親子連れがうるさいし、変な客がきても職員は助けてくれないし。
で、説得? ていうか、まあちょっと話した時に聞いたの。そしたら、『二度と来たくないと思われない図書館』を目指してるって聞いて、驚いたのが正直なところ」
めらめらと鞄が燃えていく。元々油でもかけてあったのだろう。
「なにそれ、って思った。べつにターゲット絞れって言ってるわけじゃないわけ。一般客すべてに同一のサービスを与えるなら、方向性は必要だし、全員意志統一は必要だけどそれもないし。
つまりはさ、八方美人図書館なわけ。子供がうるさいから注意しろって言ってきた客の言い分を無視するわけよ。だって注意したら、注意した相手は気分が害するもんね。
誰にでも心地いい図書館なんてあるわけないじゃん。だったら方向性をきちんと決めておかないといつまでたってもだらだらできるただの休憩所のまま。
これさ、水原にちょっと電話で聞いたの。どう思うって」
真紀子は薄く笑った。
「うちの図書館は住宅街にあるから、客層を選ぶのは難しいし、こうって決めちゃうのは無理だと思う……だってさ。
ハハハ! そういうことじゃないでしょうよ。水原って馬鹿なのかと思ったわ」
「尾張さん……」
「二度と来たくないと思わせないこと? 笑わせてくれる。窓口にも出てこない連中が机上で考えた企画でよくなっていくわけないじゃない」
「…………」
「どんな客がくるのか、毎日週刊誌読みに来るおじいさんとか、朝一番に入ってきて新聞だけ見て帰るおっさんとか、親子全部の利用者カードを使って無茶苦茶な借り方をする親とかさ、知らないじゃない」
でも。
「下っ端の私たちが何言ったって無駄だもんね。よくなるわけない。ていうか、客を待たせないとか意味わかんない」
そういえばこの図書館は待っている客に積極的に声をかけて応対をしているが、結果としてそれがいいかと問われればよくない面のほうが強い。
返却のパソコンまで使って貸出しをしてしまうため、そのあとにやってきた返却の客が今度は待つ羽目になるのだ。
「銀行だって郵便局だって、携帯ショップだって、『待つ』のが基本なのに、それを嫌がるのが不思議すぎる。病院だって待つものじゃない?
なのに、時間がないみたいなアピールする客にムカつかないはずないじゃない。ばたばたと係員が走り回って、まるでこれじゃ、テンプレートのない『店』みたい」
肩をすくめて、真紀子はうっすらと笑って見せた。着ているのは大きめの衣服だが、いつもの真紀子らしくない。
「尾張さんは理想の図書館と全然違うから、嫌なんですか」




