八
重心は左右の脚に均等に。
弓を持つ左手と弦を引く右手、そして右の肘の三点が一直線に並ぶように。
腕の力ではなく背筋を使って真っ直ぐに引く。
引き手を顎に固定し。
的を見据え。
「良いわ――射って」
イザベルの言葉に、アイザックは弦を開放した。
放たれた矢は真っ直ぐに飛び、狙い違わず――と言えるほどでもないが、かろうじて的の端に突き刺さった。
「おおー」
後ろで木剣の素振りをしていたコレットが歓声を上げた。
アイザックは残心を忘れず、射ったあとの姿勢を意識しながらゆっくりと弓を下ろした。
「――うん」
それを確認したイザベルが、横手から声を掛ける。
「良いわね。基本は今やったような感じ。あとはまあ、ひたすら反復練習かしらね」
「はい。ありがとうございます」
答え、アイザックは一息つく。
訓練場の一角にある、弓を学ぶための射撃練習場である。
壁で区切られた奥行きのある空間で、奥には木製の円盤から鎧を着せられた人形までいくつかの的が並んでいる。
今、他にここを利用している者はいない。弓を持ったアイザックと、傍らのイザベル、そしてコレットの三人だけがいた。
「痛……」
アイザックが小さく呟いた。
的に当たるまでに何本の矢を射っただろうか。彼の手には、弦が当たるなどして出来た無数の傷が付いていた。
腕や背中も張っている。明日は筋肉痛だろう。
「今日はもうこれぐらいにしておいた方が良いわね。二、三日身体を休めて、筋をよく伸ばしておきなさい」
イザベルは言いながら、壁際の棚から包帯を取り出し、アイザックに渡す。
アイザックが包帯を受け取り自分の手に巻き始めると、イザベルは彼に気付かれないように、コレットに目配せをした。
それを受けたコレットはしかしイザベルが何を言いたいのか判らず、小首を傾げる。
イザベルはアイザックの手元とコレットとに交互に視線を向け、それでも伝わらないとなるや少しずつ身振りも交え、最後は指でびしびしと指し始めた。
ようやく悟ったコレットが、木剣を壁際に置いてアイザックの元に寄る。
「貸して。あたしが巻くよ」
「ああ、うん、ありがと」
しかしその頃には既に殆ど巻き終えられていて、結局彼女は最後に少し縛っただけだった。
イザベルが額に手を当て、小さく溜息をついた。
「でも、何で弓を学びたいなんて?」
イザベルが問うた。
訓練場の一角に射撃場を見たアイザックの頼みというのがそれだった。
少しで良いので弓を教えて欲しい、と。
「ええと、魔術です」
「魔術?」
「はい」
昨日、ゴブリンの襲撃を受けたとき――
アイザックはそれに魔術で対抗した。
引き出した〝力〟を単純な運動力として目標に叩きつける。俗な表現をするならば、攻撃魔術。
それは元来、儀式魔術である銀魔術が得意とするものではなかったが、
「元々、確たる目的もなしに思い付きで組んだ術だったんです、あれは。ある日、ふっと思い付いて」
そうして出来上がったのは、威力こそそこそこと言えるものの、狙った場所にろくに当たらず、連射も効かず、効率も良くない、甚だ中途半端な代物だった。
それでも実際に使うことになるなどとは考えてもいなかったので、アイザックはそれでよしとしていた。
だが――
自分がもっと射撃というものに明確な意識を持っていれば、もっと使い勝手の良い術が組めていたのではないか。
そう考えたとき、思い出したのは矢を射るイザベルの姿だった。
彼女並の技術をすぐに、などと無茶なことを要求するつもりは無論無い。だが少しでも体験することはきっと役に立つに違いない。
そう思って教授を請い、そして実際、アイザックは確実な手応えを今、感じていた。
「私は……魔術のことなんて全く判らないけど、本当にこれが役に立つものなの?」
不思議そうに問うイザベル。
「ええ。引き起こすべき現象を強くイメージ――えっと、心に思い浮かべることは、魔術の基礎にして且つ奥義でもあります」
アイザックのその答えはイザベルにも納得の行くものだったらしい。
「基本即ち奥義。うん、それなら判るわ。武芸にも言えることね」
そう言って彼女は頷いた。
「気が向いたらまた来なさい。私の手が空いていなくても誰かしら対応出来るようにしておくわ」
そう言うイザベルに礼を言い、アイザックとコレットは守備隊西方支部を後にした。
ぶらぶらと町を歩き、アイザックの自宅に着く頃には陽はすっかり落ち、町並みを赤く染め始めていた。
「叔父さんはまだ寺院か。どうするコレット? 今日もうちで夕食食べていく?」
「んー、そうさせて貰おうかしら。一度うちにも来て欲しいんだけどね。アイザックが帰ってきたって言ったらお父さんが久しぶりに会いたいから一度連れて来いって。
まあでも今日はこの日記の解読を少しでも進めて欲しいから」
「魔術の組み直しもしたいんだけどね……」
そんなふうに言葉を交わしながら、家の正門から敷地に入ろうとしたとき、
「――待って。誰かいる」
コレットがアイザックの肩に手をかけ、言った。
「誰か?」
「それに血の匂いがする」
「血?!」
アイザックには何も感じられなかったが、門から一歩下がる。
コレットが靴の踵に手をやり、硬い音と共に何か金具を取り外した。右手で握ると、細い枠が拳の正面を覆う。そのまま殴るためのものに見えた。
やっぱ武装してたんじゃないか。そう思いながら、アイザックも懐から指輪を取り出して填める。
「誰?! 出て来なさい!」
敷地の内側、門柱の脇が、陽の方角の関係で陰になっていた。
コレットがそこに向かって声を掛ける。が、反応は無い。
「――人を呼ぼうか?」
アイザックが言う。
すぐ隣は寺院だ。聖堂騎士も二名ほどが常駐している。
潜んでいるのが怪我人なのか、或いは誰かに怪我を負わせた者なのかは判らないが、どちらであっても対応出来る。
と、
「待て……なるべく人は呼ばないでくれ」
それは聞き覚えのある声だった。
「えっ――?!」
慌てて駆け寄るアイザック。コレットもそれを追うように着いて来る。
そうして飛び込んだ二人が目にしたのは、
「……よう」
門柱に寄りかかるようにして座り込んだカーティスの姿だった。
そして憔悴しきったその顔のこめかみの辺りから、血が一筋、つうっと流れ、そのまま彼は気を失った。