二
街道が完成したのは約五十年前。王都の主導で作られたそれは全ての区間が石で舗装され、最低でも馬車がすれ違える程度の幅を持つ。主要都市間を繋ぐこの街道によって、ラファール王国領では周辺諸国と比較して割合安全に旅人が往き来出来るようになった。
かつて、旅人の安全を脅かすものの筆頭と言えばもちろん野盗の類だった。不整地で待ち伏せでもされればまず逃げられず、討伐隊を派遣しても追跡は容易ではなかった。
街道が整備されたことによってそれらは激減したが、代わって台頭してきたものがある。
旅人を襲うということでは野盗に似ている。だが、街道が出来たからといって襲撃の成功率が下がるとか討伐隊が派遣され易くなったとかいった計算をするでもなく、狼や熊のように人工物を警戒するでもない。
滅多に出会うものではないが、出会ってしまえば戦闘は避けられない。交渉の余地が無いという点では野盗より厄介ですらあった。
それの気配に最初に気付いたのは、荷馬車を引く馬だった。
「っと、どうした」
突然いななき、歩調を乱した馬たちを宥めようと、カーティスが手綱を引く。
それでも落ち着かないその様子は、まるで
「何かに怯えてるみたいな……」
アイザックが言い、二人は周囲を見渡した。
進行方向に対してほぼ真横、街道からいくらか外れた辺りに丘がある。その陰から、人影のようなものがばらばらと走り出てくるのが見えた。数は十前後か。小柄で、手に何かを持っているものもいた。
「あれは……」
それを見たカーティスが眉をひそめた。
かと思うと、急に手綱を強く引き、馬を走らせた。
「うわわっ!」
「しっかり掴まってろ!」
緊張を孕んだその声に、アイザックは慌てて荷台の枠を掴む。
走る荷馬車を追うように影の群れも速度を上げた。速い。見る間に距離が縮む。
程なくアイザックにもそれが何物なのか知れた。
緑色の肌の、小柄な二足歩行生物だった。凶悪な形相で、耳障りな声を上げながら追って来る。手には棍棒や剣を持っている。
ゴブリン――主に洞窟に棲む、雑食性の生き物である。猿よりやや優れた程度の知能を持ち、人里の近くに棲み着いた場合は家畜を襲ったり農作物を荒らしたりといった被害が発生するため、発見即駆除の対象となる。
それ故かゴブリンの側でも人間は天敵のようなものであるらしく、街道で旅人が襲われることがしばしばある。と言っても夜行性であるため、日中はそれほど警戒する必要は無い。
「――って聞いたんですけど」
「ンなこと言ったって出ちまったモンはしょうがねえだろ」
カーティスは前だけを見据え、手綱を握りしめる。
「町まで辿り着ければ守備隊がいるだろうが、くそっ、逃げきれるか……?!」
無理そうだ、とアイザックは思った。荷馬車の速度と、ゴブリンの速度。目算だが、どう見積もっても町が見えもしないうちに追い付かれそうだった。
腰に差した短剣を意識する。一応訓練は受けているが、実際にそれを使って戦えるかと問われると、些か心許ない。
カーティスはどうだろうか。旅慣れた行商人だ、確実に自分よりはましだろう。だがそれでも、複数のゴブリンを相手に出来るとは思えない。
熟練の冒険者や騎士、傭兵の類であればゴブリンの群れなど物の数ではないらしいが、普通の人間ではまともに相手しようとすると一対一でも分が悪い。
ならば、
「うまくいくかな……」
アイザックは小さく呟くと、懐から指輪を取り出した。飾り気のない銀無垢の指輪だった。表面に細かく魔術文字が刻まれている。
それを右手の人差し指に填め、荷台から身を乗り出した。
「おい、危ないぞ!」
カーティスが警告するが、無視。
一番手前のゴブリンを指差し、半眼で見据え、意識を集中する。
銀という金属それ自体が持つ〝力〟を探る。同調する。引き出す。
来た。
「――――!」
目を見開き、引き出した〝力〟を放った。
放たれた〝力〟は大気中で実体化、幾筋もの銀の光となり、先頭のゴブリンの足元に突き刺さった。砂煙が弾け、ゴブリンたちが叫び声を上げた。
「おおっ……!」
カーティスが感心したような声を出し、無意識にか手綱を握る手が緩んだ。
「速度を落とさないで! 直撃はしていないし、あまり連射も効かない!」
「お、おう!」
アイザックが言い、カーティスは慌てて荷馬車を再加速させる。
ゴブリンは先頭の一匹を含めて何匹かが衝撃に驚いて転倒したようだった。が、すぐに起き上がり、再び走り出す。多少距離は稼げたが、それだけだった。
指輪から文字が一つ消えた。また、判らない程度ではあるが指輪自体の質量も僅かに減少している。
銀魔術は本来儀式魔術に類し、即時型の術には向かない。魔術文字と組み合わせたこの使い方は、実は導師にもまだ明かしていないアイザック独自の工夫だったが、安定性や効率性など課題は山積みだった。
二発目は見当違いの方角へ飛んで行った。三発目と四発目は一発目と同じくいくらかの距離を稼いだ。五発目は一匹の頭を直撃し、昏倒させた。
六発目を撃とうとしたとき、突然膝から力が抜けて崩折れた。思ったより消耗が激しかったらしい。
「おい、大丈夫か?!」
カーティスの言葉に応える余裕も無い。一瞬意識を失っていたのか、どうにか顔を上げると、既に何匹かが荷馬車と併走している状態だった。
アイザックは腰の短剣を抜いた。ゴブリンが一匹、叫び声と共に跳躍し、手に持った剣を振りかぶりながら飛び掛ってきたのはそれと同時だった。
がら空きの胸に突き刺せば倒せそうに思える。いや、先に剣の攻撃を防がなければならないのか。
指輪が右手ではなく左手にあればここでもう一撃ぐらい撃てたのではないか。何発撃てても当たらなければ意味が無いか。弩の訓練でも受けておけば良かっただろうか。術自体に追尾性でも持たせることは出来なかったか。
益体のない思いがぐるぐると頭を巡り、結局身体は動かない。
やられる。そう思ったとき。
どこからともなく飛んで来た矢がゴブリンの頭を貫いた。
頭を射抜かれたゴブリンの身体は一度荷台に当たり、そして地面に落ちた。そのまま走る荷馬車から置き去りにされる。
「――――ッ!」
他のゴブリンが叫び声を上げながら、矢の飛んで来た方角を見る。アイザックもつられるようにそちらを見た。
進行方向、街道の向かう先から、何かがこちらへ向かって来ていた。
馬に乗った人間――騎馬だ。
数は五つ。四騎は手に剣を、そして一騎が、弓を持っているようだった。
見る間に距離が詰まり、彼らが革鎧を身に着けていることや、弓を持っているのが長身の女性であるらしいことが見て取れた。
「散!」
先頭の、隊長格と思しき男が声を放ち、それに応じるように他の四騎が展開した。このまま荷馬車の左右をすれ違う軌道に入る。そうやってゴブリンの群れを引き離す作戦であることが知れた。
すれ違う。
彼らの革鎧の胸甲に紋章があり、それがラルトンの町の紋章であることがアイザックには判った。
守備隊だ。町の治安維持と外部に対しての防衛を任とする組織である。ラルトンの町のそれは傭兵などに頼ることなく、原則住民の志願者によって構成される。
隊長格の大柄な男と、彼よりさらに背の高い男が荷馬車の左側へ。
そして右側へは、まず小柄な男、次に弓を持った女性、そして最後に、
「――へっ?」
最後尾の騎馬を見たアイザックは思わず呆気にとられたような声を上げた。
それと同時に、彼の身体は宙に投げ出されていた。