九
先に動いたのはコレットだった。
倒れたカーティスの側にしゃがみ込み、様子を確認する。
「――意識なし。呼吸、正常」
それを見てアイザックも遅れて駆け寄ると、懐から一枚の呪符を取り出した。
表面の魔術文字を指で撫でながら合言葉を呟く。
「光よ」
すると光が生まれた。手持ちの角灯ほどの光量の、白く無機質な光だ。
それでコレットの手元を照らす。
「ありがと」
コレットは小さく礼を言うと、カーティスの怪我の具合を診ていく。
やがて、丸めた手拭いでカーティスの額の辺りを押さえながら、
「傷らしい傷はこの頭部の裂傷だけかな。それもあんまり大きな傷じゃない。
見た感じ、気を失ったのは主に疲労によるものと思う」
「うん」
アイザックも頷く。
寺院でも学院でも基礎的な医術については学んでいたが、それよりもコレットの対応の方がずっと素早かった。守備隊ででも学んだのだろうか。
余計なことは言わず、助手に徹する。
「どうしよう。家の中に運びこもうか? 人は呼ばないでくれって……まあさすがに叔父さんに報告しないわけにはいかないけど」
「そうね……」
コレットがそう呟いたとき。
横手から、アイザックの呪符よりも強い光が来た。
「――?!」
敷地の外、道路側を、二人で振り返る。
光はほんの一瞬で消えたが、光で描かれた文字や図形のようなもの――呪印の残像が空中に残っていた。
そしてその下の地面には、小柄な人影が立っていた。
小柄な、しかし幅はあるがっしりとした体格の男。ゆったりとした上衣をまとい、顔の半分は髭に覆われている。
見覚えのある男だった。
「えっ――」
「ジャンゴさん……?!」
「なんと」
コレットとアイザック、そして現れた人影――ジャンゴの三人が同時に声を上げた。
ジャンゴは眉をひそめた表情で二人を見た。
「アイザック殿とコレット殿? 何故こんなところに……。いや、それよりも」倒れたカーティスに視線を向け、「その男に用があり申す。お渡し願えますかな」
「……何でですか」
アイザックは小さく身構えながら聞いた。
ジャンゴの方から吹き付けてくる強い〝気配〟にあてられ、身が竦む。敵意? 殺意? そんなようなものにも思えるが、はっきりとは判らない。
「……それはお答え出来かねる」
ドワーフもまた僅かに身を沈めたようだった。開いた両の手には武器らしいものは持っていないが、先ほどちらりと見えた呪印はおそらく〈門〉などと呼ばれる、離れた場所同士を繋いで移動する比較的高位の術だ。ジャンゴは魔術師なのだろうか?
アイザックは填めたままの指輪を意識しながら脳裏に攻撃の術を浮かべた。
守備隊の訓練場で矢を射りながら組み立てた術は――まだ駄目だ。
元からの術ならば、この距離なら威嚇ぐらいにはなるかも知れない――相手が魔術師でも何でもないのならば、だが。
魔術での戦闘、というものにそもそもアイザックは馴染みが無かった。学院ではそれを専門に学び、傭兵や兵士になる者もいるが、アイザックはそんな訓練は受けていない。
ジャンゴが魔術師なのかどうかもまだ判らないが、もしそうならばこの場で戦って自分やコレットが無事で済むようには思えない。彼がカーティスに何の用があるのかも判らないが素直に引き渡した方が良いのではないか?
アイザックがそう思ったとき、ふいにジャンゴが深く身を沈めながら両腕を大きく振りかざし、
「――ッ?!」
振り返りざまに背後からの杖の一撃を受け止めた。
受け止めた、と見えたが実際には正面から受け止めたわけではなく、振り下ろされた木製の杖を掌底で側面から叩いて軌道を逸らしたのだった。
ジャンゴの背後から一撃を放ったのは金属鎧を着た騎士だった。鎖帷子の上から板金の胸当てを重ねている。
その胸当てには天空神の紋章がある。寺院に常駐している聖堂騎士だ。
剣は持たず、武器は今しがた一撃を放った一八〇センチほどの杖と、腰に下げた戦棍。
見れば、騎士の背後にもう一人同じような格好の騎士と、そして黒い聖服をまとった司祭の姿があった。
「叔父さん?!」
アイザックの呼びかけに叔父は小さく頷きのみを返し、それからジャンゴに向けて声を放つ。
「何者かね? ここは天空神のおわす神聖なる寺院のすぐ隣で、また私の家だ。そこで私の身内に危害を加えようというのは、故あってのことであろうな?!」
その問いかけにジャンゴは答えず、
「――ふッ!」
身を大きく振りながらすり足で騎士の方へ間合いを詰め、鋭い呼気とともに右の拳を真っ直ぐに放った。
騎士は手に持った杖でそれを受け止めようとする。が、ジャンゴの一撃は乾いた音と共にあっさりと杖をへし折り、そのまま胸当ての中央に打ち込まれた。
胸当てが弾け飛び、派手な音を立てて地面に落ちた。
騎士は二、三歩後退ると、へし折られた杖を捨てて腰の戦棍を構えた。
もう一人の騎士も同様に戦棍を構える。
ジャンゴは拳打を放った姿勢のまま、騎士二人を見据える。アイザックの位置から見える背中が、どこか一回り大きくなったように思えた。
コレットが立ち上がった。右手に、靴から外したあの金具を握り込んでいる。騎士たちに加勢しようとでも言うのか。
アイザックは咄嗟に彼女の手を掴んでその動きを止めた。
「何を……!」
「駄目だ」
抗議するコレットの目を見据えて言ったあと、アイザックは地面に転がった騎士の胸当てに視線を向けた。元々儀礼的な意味合いが大きく、必要なときにはすぐ外せるようになっている部品ではあるが、素手で殴られてあっさり外れるものでもない。そのうえ、その中央は大きくへこんでいた。
何らかの魔術だろうか。それとも、肉体的な鍛錬であれだけの力を得られるものなのか。
いずれにしろ板金の胸当て越しでなければ無事では済まなかっただろう。
二人の騎士が木製の杖を捨てて金属製の戦棍を構えたのは、相手を〝制する〟つもりで戦っては勝てないと判断したからだ。
戦闘。
昨日、ゴブリンの襲撃を受けたときも身の危険を感じはしたが、あれはどちらかと言えば災害のようなものだった。
だが今、目の前で行われているのは明確に敵意を持った者同士の戦闘だ。
コレットはこういう場に居合わせた経験があるのだろうか。ただの勘だが、あの守備隊隊長やイザベルがそういうことを許すようには思えない。
この戦闘に、コレットやアイザックが割り込む余地は無い。
だが、
「ふむ……」
ジャンゴは呟くと、視線を二人の騎士に、叔父に、順に向け、そして肩越しにこちらを振り向いた。
アイザックとコレットを――否、アイザックを見て、言う。
「一人では少々分が悪そうであるな。ならばこの場は退くといたそう」
「逃がすか!」
その言葉に騎士たちが攻撃を仕掛けようとする。
対しジャンゴはいつの間にかその手に握っていた何かを掲げた。
呪符だ。アイザックの位置からはっきりとは見えないが、見たことのない形式だった。
ジャンゴがその符を両手で引き裂いた。
途端、その破れ目から光が解き放たれ、空中に呪印を描いた。ジャンゴが現れたときにも見た、〈門〉の呪印だ。
強さを増す光の中、ジャンゴはまっすぐにアイザックを見据え、そしてあの握った右拳を左肩の付け根に当てる仕草をしていた。
そしてそのまま、消えた。
「今の男は何者だ……。アイザック、知っているのか?」
ジャンゴが姿を消してしばしの間を置いてから、叔父がアイザックに問うた。
「名前はジャンゴ・ウェストウィンド――昼間に師匠の家の前で会いました。師匠の知り合いらしいんですが、詳しくは知りません」
「〈西の大陸〉の名前だな。ドワーフか。
……そこの男は?」
今度は倒れているカーティスに視線を向けて問う。
そのカーティスは未だ目は覚まさないまま、穏やかな寝息を立てていた。
「この町に来るときに荷馬車に乗せてくれたカーティスさんです」
「昨日言っていた行商人だな。――怪我をしているのか? とりあえず、家の中に運びこもう」
「はい」
アイザックが答えて立ち上がると、まるでそれと入れ替わるようにコレットがその場にへたり込んだ。
「――コレット?」
「あれっ……? 何か、膝に力が入らない……」
今更のように、先ほどの戦闘の空気にあてられたらしい。
ややあってそのことを自分の中で認めたらしいコレットが、呟くように言った。
「……止めてくれてありがとね、アイザック」
「うん……」
アイザックはどう答えて良いか判らず、とりあえず叔父と共にカーティスの身体を抱え上げた。