幕間
母の選択
母のことを、カイは多く知らない。
名前も、
年齢も、
どんな研究に関わっていたのかも。
ただ、声だけは覚えている。
灰街の夜。
停電が起きると、母はよく、ランプを灯した。
「暗いほうが、よく見えることもあるのよ」
それが口癖だった。
母は、考える人だった。
工具や端末を前にすると、
必ず一度、手を止める。
「……それ、本当に必要?」
「今、決めなくちゃだめ?」
カイが幼い頃、
その“間”がもどかしくて仕方なかった。
父は言っていた。
「母さんはな、
答えを出す前に、
“失われるもの”を見る人だ」
ある夜、
珍しく母が泣いていた。
声を殺し、
小さく、小さく。
「……行かない」
誰かと通信していたらしい。
「戻れって言われても、行かない。
だって……」
言葉の先は、聞こえなかった。
ただ、
母は端末を切ったあと、
カイを強く抱きしめた。
「あなたは、選んでいいの」
それだけを、
何度も、何度も言った。
数日後、
母は“選ばなかった”。
上層へ戻る道を。
記録を回復する機会を。
研究職への復帰を。
代わりに、
灰街に残った。
「後悔しない?」
そう聞いた父に、母は首を振った。
「後悔する選択を、
最初から排除する社会のほうが怖い」
母は、ある日いなくなった。
病気だったのか、
事故だったのか、
それとも——。
理由は、誰も教えてくれない。
灰街では、
“いなくなった”理由を探ること自体が、
危険だから。
今。
ヘリックス・アカデミーの寮で、
カイは天井を見つめている。
評価。
適応。
安定。
それらの言葉が、
母の顔と、どうしても重ならない。
「……母さん」
呟いた名前は、
管理ログにも、履歴にも残らない。
だが確かに、
彼の中に生きている。
選ばなかったという、意志として。




