みどふぅぅ
……どのくらいの時間が経っただろう。
この沈黙を破るのは、きっと俺じゃない。そんな気がしたから、俺は草を揺らすひんやりとした風や、ミドリの肩越しに見える赤い空、そしてどこからか聞こえる部活の掛け声を感じていた。
すると、ふいにグスっと鼻をすする音がした。
目を向けると、ミドリの左手がゆっくりと持ち上っていた。手のひらは、胸の高さまで来るとそこで止まった。
相変わらず俯いたままのミドリの表情はわからないが、気持ちは十分に伝わった。
だから、俺はその手に蜘蛛のオモチャを握らせてやったんだ。
「……上坂ぁ」
そんなかすれた涙声が下の方から聞こえた。
「まったく。情けない声を出すなよ。出会った頃から、お前は泣いてばかりだな」
つい、そんな言葉が漏れる。
俺たちは何一つ変わっていなかった。あの当時のままの二人なんだと思った。
それが――とても嬉しかった。
自然と俺の手がミドリの震える肩に伸びて、二人の距離がゼロに近づいていく。
風に乗って、女の子の優しい匂いが届いた。
俺は、どんな言葉をかけるべきだろう。「これからよろしくな」、「また一緒に遊ぼう」、いや違うな。
「ミドリ、会いたかった」
これだな。
これが俺の本心だ。
俺が伝えるべき言葉は、それで十分だ。
――――俺たちの、新しい関係が始まる予感がした。
「みどふぅぅ」
…………突然狂ったわけじゃない。俺は『ミドリ』と言おうとしたんだ。
言おうとしたら、そんなヘンテコな言葉になった。
何が起きたんだ?
そう思って左に視線を向けると、俺たち二人の距離がマイナスになっていた。
つまり、さっきまで俺のわき腹があった場所に、なぜかミドリの拳がくい込んでいたんだ。
顔を上げると、左足に重心を乗せ右半身を前に出したミドリの姿が映った。
まさか! こいつ!
身の危険と、ミドリのスカートのことが頭をよぎる。
迫りくるミドリの足の裏。
幼き日、俺がミドリにぶちかました思い出の足刀蹴り。
白。
そんなことを考えながら、ごーろごろ、ごーろごろ。後ろに吹っ飛ばされた俺は成す術もなく斜面を転がった。
……誰か止めてくれ。
気がつけば、ぼー、と空を眺めていた。
ようやく回転が止まったみたいだ。
夕焼け空に昇る月が綺麗だ。どうやら俺は生きているらしい。
体は大丈夫。
視界はどうだ?
立てそうか?
……行けそうだ。
自問自答を繰り返す。どんなに追い詰められても冷静でいろ。親父の教えだ。
ゆらりと立ち上がる。
「ふっ。……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。今の俺ならば、どんな悪魔の役も演じられる自信があるね。
「ばーか」
後ろから、能天気な声が聞こえた。
振り向くと、俺が転げ落ちてきた斜面の途中、一分ほど前まで俺もいたその場所で、ミドリが満面の笑みで立っていた。
「あんた、何一人で盛り上がっちゃってるの? キモっ」
その笑顔には似つかわしくない言葉の数々。
親父、すまん。もう教えは守れない。
「てめえ、なにすんだ! このやろう!」
もう許せん!
「きゃ~~~」
なよなよした感じで逃げ出すミドリ。追いかける俺。
これが砂浜なら立派なラブコメにもなろう。
しかし、現実は否!
捕まったが最後。ミドリ、お前に明日はない!
そんな足の速さで俺から逃げ切れると思うなよ。小娘がぁ!
「よいしょ、っと」
あっ……。
「じゃあね、上坂~」
そう言い残して、ミドリは自転車で走り去った。
俺の自転車で。
鍵、付けっ放しだったっけ。
人気の少なくなった河川敷堤防の上で、ただ呆然と立ち尽くす。
俺には、謎ばかりが残された。
今日のミドリは、全部、この為の芝居だったのだろうか?
去り際のミドリの瞳が赤いように見えたのは、夕日のせいだったのだろうか?
俺は、この後どうやって家に帰るのだろうか?
特に最後の謎が気になった。