水滴の音
ポタ ポタ ポタ
水滴の落ちる音。
この水滴は、何だろう。
眩しさで目が覚めた。昨夜、誰かがカーテンを雑に閉めたのだろう。重たい瞼を開くと、今日も知らない天井が私を見下ろしている。
コンコンコン!
あまり品を感じないノックが聞こえた。はい、と返答しようとしたが、口が乾いているせいか声が出せなかった。
ガチャリと音を立てて扉が開いた。
「うわ、起きてる」
メイドの格好をした若い女性は、眉間にしわを寄せて横になっている私の近くに来た。
「顔を洗いますからね。じっとしていてください」
そう言いながら、持っていた洗面器にタオルをざぶんと入れて、雑巾を絞るように捻り、痛みを感じるくらい強い力で私の顔を拭いた。
「ちょっと……」
やっと声が出た。どうやら声は出せるらしい。
「え?喋った?」
女性はとても驚いた顔をしている。こちらだって人形ではないのだから、そこまで驚かなくても良いのに。
「痛いですよ。貸してくれたらいいのに」
手を布団から出した。そうだ、そうすればいい。
「ヒッ!何で!?」
メイドの女性は化物を見るような目で私を見て、慌てて洗面器を手に部屋から出て行った。もちろん、洗面器に入っていた水がそこら中に散っている。
私は差し出した手を顔に当てる。触っただけで顔は分からない。手を見ると、カサカサしていて、それなりに年なのかもしれない。
左手を出してみると、薬指に重たい指輪がある。私の知識では、大抵の場合は結婚指輪と呼ばれるものだけど、配偶者がいるのだろうか。
体を起こそうとしても、重たくて動けない。力が入らないという方が正しいのかもしれない。
暫く天井と話すことにした。あまり私は丁寧に接されていないわね。私を見ていて楽しい?もちろん返事は無いが、暇つぶしするものが無いから仕方が無い。
また暫く時間が経つと、何やら何人も人が集まってきた。
「奥様、体調はいかがでしょうか」
医者のようで、脈拍を確認したり、聴診器を当てたり。
「体が動きませんね」
私がそう言うと、この医者も驚いた顔をしたが、柔らかく微笑んだ。
「そうですね。奥様は寝たきりという状態ですから。しかし、お話されるということは、ここ数ヶ月で一番体調が良いということでしょう。何かしたいことはありますか?」
私は少し考えた。何も知らないのだから、何から聞こうか。
「私の名前と生い立ちを教えて欲しいわ。色々忘れているみたい」
医者はうんうんと頷いた。
「私の知っている範囲ですが。あなたはジョセフィーヌ・ハドソン様ですね。ウォード伯爵家のご長女で、現在はハドソン伯爵夫人でいらっしゃいます。私はウォード伯爵家の頃からの主治医ですよ。あなたがお若い頃からよく知っております」
私が若い頃既に医者だったなら、私より年上だ。医者は小太りだが肌はつるんとしていて、私の方がカサカサの、よく見ると少しシワもあるのは恥ずかしい。それも、女性だと尚更。
「どうして私の体はこんなに不自由なのかしら」
貴族の女性らしいから、少し丁寧な言葉を使ってみることにした。
「ええ、奥様は三回目のご出産時に、出血が多く生死を彷徨われました。それ以降、起き上がることが難しくなったのです」
出血、なるほどと思う。そして三回目の出産ということは、三人の子供がいるのだろうか。
「子供達はどうしているの?」
医者は気まずそうに目を伏せた。
「お一人目と、三人目のお子様は残念ながら……二人目のルーカス様はお元気で、今は学園に寮から通っているそうですよ。奥様、ここがどこだか分かりますか?」
医者の言葉には妙に説得力があるものだ。私は首を横に振った。
「ここはウォード伯爵家の別荘なのですよ。奥様を心配した旦那様が、奥様が幼い頃から気に入っていたここで過ごすように、ご実家を説得されて来たのですよ」
旦那様がいるらしい。思わず左手を見ると、医者は満足そうに頷いた。
「ここは住みやすい所なの?」
「ええ、旦那様がきちんと管理するようにおっしゃっていましたから」
「夫は、ここに来るのかしら」
「毎月、ここに来る時間を作っておりますよ」
ふと、会ってみたいと思った。会いたいわ、と口にすると、医者と近くで見ているだけだったメイド達が驚いた顔をして、何やらこそこそと手に口を当てて話している。
「奥様、すぐに、すぐ旦那様をお呼びします!」
医者はそう言うとバタバタと部屋を出て行った。メイド達も出ていく。メイド達は、面倒くさいことになったわね、と吐き捨てるように呟いていた。
誰も来ない部屋でまた天井と話すのも飽きた頃、ドアが激しくノックされて、大きな音を立てて人が駆け込んできた。
その勢いならノックをする意味は無いだろう。
「ああ!ジョセフィーヌ!!僕が悪かった!!許してなんて言わないから!!ジョセフィーヌ!!」
顔の整った男だった。中年の、しかし中年男の典型の様なだらしない体つきはしていない、スマートな男だ。大泣きしながら私にしがみつく男に誰かと聞くのも可哀想な気がして、先程の流れから何となく誰かの予想はつくものの、当たり障りなく確認するように考える。
「そんなに泣いて、声も変になっているし、私ちょっと目も悪くなってきてるみたい。あなたのお名前を聞かせてくれる?」
男がガバっと音がする勢いで顔を上げた。その時、メイドも追いかけて来ていたのかその男の後ろに来た。それから男性の使用人のような人も部屋に入ってきた。
「ああ、もちろん。イーサンだよ。ここにいる。分かるかい?」
「イーサン。久しぶりなのかしら。色々よく分からないのよ。ごめんなさいね」
「ジョセフィーヌが謝ることは一つもないんだよ!!悪いのは僕なんだ。もう一人子供が欲しいって、望んだから……」
この人は、こうやってずっと後悔してきたのだろうか。私にそれを許す権利はあるのだろうか。
「ルーカスが元気なら、それでいいじゃない」
許す、許さないは別として、学園で頑張っているらしい子供に目を向けてはどうか。夫はガクガクと頷いている。
「君の言う通りだ。ルーカスは成績も優秀で、立派な子だ」
「たまには甘えさせてあげてください。失敗しても、責めないで寄り添ってあげてくださいね」
夫から、スパルタな親の姿が見えた気がして、思わずそう助言する。
「ああ!もちろん。おい!今の言葉を記録しておくように!」
男の使用人がメモを取っている。何だかこの夫は面白い人だ。
「ここの生活に不自由は無いか?」
何となく、この何も無い部屋よりも、この人の近くの方が飽きない気がする。
「カーテンをちゃんと閉めてくれないから早朝から眩しいのよ。顔だって痛いくらい拭いてくるし。それにお腹も空いたところよ。水しか置いていないし届かないのよ」
朝から溜まった不満をぶつけて見ると、夫はものすごい勢いでメイドの方を見た。使用人の男がメイドの首根っこを押さえて、何だかドラマみたい。
「どういうことだ?妻は食欲が無くて拒否していると聞いていたが?」
そんな低い声も出せるのね。でもちょっと怖いわ。
「ねえ、私の家には帰れないの?」
夫はまた体をぐるんとこちらに向けて、忙しい人。
「君が良いと言うなら!!もちろん!!」
「そうしてくれる?」
メイドは男の使用人に捕まえられたまま、部屋を出た。夫は時間の許す限り、私の隣で色んな話をしてくれた。
でも、そろそろ眠くなってきてしまった。
「ねえ、あなた。きっと次に目が覚めたら、また私は色々忘れていたり、分からなくなっているかもしれないわ。許してくれる?」
「もちろん!!当たり前さ!!」
「それを、忘れないでね。眠たいの。お休みなさい」
「ああ、お休み。愛しい人」
目を閉じる時に、夫が私にキスをした気がした。ああ、いい男だったから嬉しいわ。
ポタ ポタ ポタ
水滴の落ちる音が教えてくれる。
今度は、誰を渡るのか。
今度は幼い子供のようだ。病院の中。父と母と、たまに祖父母が交代で付き添いに来ているらしい。ちょうど、目が覚めた時にいた母が教えてくれた。
私が話すと、母はとても喜んだ。父も駆け付けてきて、写真や動画を撮ったりなんかして。
私は学校のプールで溺れてしまったらしい。
たくさん話して、子供の体力のせいか、すぐに眠たくなってしまった。お休みなさいが言えたかどうか分からなかった。けれど、母と父は目を潤ませて、大好きと言っていたから、幸せな気持ちになれた。
ポタ ポタ ポタ
水滴の落ちる音はまだ終わらない。
最期の一滴まで、誰かのどこかを渡るのだろう。
最期を横取りしているのか、新たな始まりを横取りしているのか。
その後を知らない私には分からない。ただ、水滴が落ちて爆ぜる音を聞いて渡るだけ。