恨むべきは雨
雨が降っている。
聖都は梅雨の季節を迎えていた。
わずかに開けた窓から雨音が聞こえる。庭に植えられた紫陽花が雨に濡れて艶やかだ。
「…………」
窓に面した卓の前に座していた幼子は、無言で卓の上に突っ伏した。
「痛い……」
頭が痛い……ものすごく。
解き途中の数式が頭の中をぐるぐる回る。
「えーと……あとはどこがまとまるだろう……?」
もう少しあの数式を整理すれば、答えに辿り着きそうな気がするのに、頭痛が邪魔して、数字がまとめた先から踊り出す。
重い頭を卓から上げて、頬杖をつきながら紙の上でペンを走らせる。けれども、どうもうまく行かない。全てはこの頭痛のせいな気がしてならない。
再びペンを放り出し、彼は卓に突っ伏す。
「失礼いたします、お茶をお持ちしました」
ふいに戸が開いて、中に一人の青年が入ってくる。その青年は、部屋の卓に幼子が突っ伏しているのを見てギョッとしたような顔をした。
慌てて茶器を乗せた盆を置き、幼子の元に駆け寄る。
「若!?大丈夫ですか?まさかまた熱が……!?」
卓に突っ伏す幼子を起こし、慌てた様子で小さな額に手を当てる。
「ん……?熱はなさそうですね……どうしたんです?気持ち悪いのですか?お腹が痛いのですか?」
矢継ぎ早に訊ねると、幼子は力なく首を振り、弱々しく違う、と言う。
「ならば、どうなされたのです?」
「痛い……」
「痛い?」
「頭が……痛い。朝からずっと……でも、熱ではない。なんなのだろう……おかげで、この問題が解けない……」
そう言って紫色の瞳が宙を漂う。
「今日はもうおやすみしましょう。着替えてご寝所へ移動なさってください」
「……そんな時間は、ない」
「1日休んでも、若なら大丈夫でしょう?」
幼子は首を振る。
「そんなことはない。認定試験まであと一月。このままでは、間に合わない……」
「間に合わなければ、来年の冬に挑戦なされば良いではありませんか」
「いやだ。九月には入る」
幼子は頑なだ。この子は、時におどろくほど頑なになることがある。普段は、周りの声を、様子を気にして、大人しく言うことを聞くのに。
「では、尚仙どの呼んで参ります」
青年が屋敷にいる医師の名前を口にすると、むっと呻く声が返ってきた。
「どのみち、頭痛のせいで問題も解けないのでしょう?相談してみましょう」
そういって、青年――蕗隼は立ち上がる。持ってきたお茶を淹れて、お茶を飲んで待っていてくださいと言うと、屋敷の医師を呼ぶために水鏡殿を離れたのだった。
「あー……これは天気痛ですな。あとは、こんを詰めすぎて、肩やら背中が凝っておいでなのです」
「天気……痛……?」
医師の尚仙から飛び出した聞きなれない言葉に言われた幼子――この水鏡殿の主・源小聿はその紫色の瞳を瞬かせた。尚仙は頷いた。
「ええ。今日は雨でしょう。気圧が低い。こうした気圧の変化に反応して、自律神経のバランスが崩れて頭が痛くなったり、古傷が痛んだりするのですよ」
言われた小聿はため息をついた。
「私は気圧の変化にも弱いのか……」
「若君は繊細ですからな」
はははと尚仙は笑う。
「天気痛は寝食をおろそかにせぬこと、適度な運動を心がけること、何事も無理をせぬこと、などが大切です」
「…………」
「……耳が痛いですね、若」
隣で聞いていた側仕えの汝秀が苦笑いをする。
そんな側近を小聿はムッとした顔で見る。
「寝ているし、食べているし、運動もきちんとしている」
「寝るとは寝室に入ることではありません。眠ることです。若は寝台の上で本を読み続けているので、寝ている時間は少ないです」
あっさり言い返されて、小聿はますますムッとしたような顔をする。そんな彼の肩のマッサージをしながら蕗隼は口を開いた。
「食べる量ももう少し増やしてください。大きくなれませんよ?」
「…………」
尚仙はくすくす笑う。
「若君、二人の言うこといちいちもっともです。きちんとお兄さんたちの言うことは聞いてください」
「…………」
尚仙は静かに立ち上がる。
「秀英院大学受験資格認定試験まであとひと月。焦るお気持ちはわかりますが、体が資本です。適度に休みつつ受験勉強をなさってください。後ほど、自律神経を整えるための薬湯を薬師に持っていかせます。それを飲んで、体を休めてください」
そう言って、尚仙は水鏡殿の勉強部屋を出ていく。
「また……薬湯……」
きっと飲みにくいに違いない。小聿は顔を顰める。
「雨……はようやまぬか……」
水鏡殿の幼き主は忌々しげに雨が降り頻る外を睨みつける。彼と雨の因縁は、大人になっても続くこととなる。――――いろどりの追憶・第二巻・百四十八頁




