息子の手
夕餉の席に、息子の小聿は来なかった。
息子の側仕えの一人である兪佳が、戻って湯浴みをしたら少し熱っぽい様子だったのでこちらには来ず水鏡殿にて食事を摂る旨を伝えにきた。すでに、医師の尚仙も小聿の元に行っているとの報告が上がった。
小聿を連れ出した葵子は、無理をさせてしまった、申し訳ない、とこちらが見ていて申し訳なくなるほど小さくなってしまっていた。母には、どうか気にしないでほしい、きっとすぐに良くなるからと伝え、湘子は食事を早々に済ませ、先に本殿を辞した。
足早に息子の起居する水鏡殿へと足を運ぶ。
彼の寝室の前に控えている舎人や侍女たちに、しばらく息子のそばにいる旨を伝えそっと中に入る。
寝室の中央に配された天蓋付きの大きな寝台に近寄り、紗の帷を潜って中に入れば、小さな息子が赤い顔をして眠っていた。
首元に手を伸ばすと、明らかに熱があることがわかって湘子は眉を顰める。額に置かれた手拭いを再度冷たくして乗せてやると、わずかに口元がほころんだように見えた。
息子の小聿は、身体が弱い。
東の院にいる時も、彼が熱を出した、しばらくは会えないと言う知らせが奥宮にいる自分の元によく届いていた。皇宮という制約の多い世界では、たとえ母親であっても、東宮にいる息子にはそう簡単に会えない。それゆえ、体調を崩したという知らせを受けるたびに、ヤキモキしていた。
滅多に会えない息子だったが、彼についての報告は毎日のように湘子のもとに届いていた。
難しい本をすらすら読みこなし、東の院にて専門家から講義を受けている。
さまざまな芸事もどれも熱心にこなし、驚くほどの才を発揮する。
武術においても、魔術においても身体が弱いながらも、鍛錬を積み、大変将来が楽しみだ。
心優しく、東の院の者たちに大変愛されている。
本当に、幼子か、自分が産んだ子どもかと疑いたくなるほど、話に聞く息子は優秀だった。
ああ、きっと変わり者の妾の血ではなく、才能豊かな父親に似ているのだろうと思った。
誰にでも穏やかに優しく接するところも彼とそっくりで、最愛の人の良いところ継いでくれているのだと思うと嬉しかった。
たまに顔をあわせると、聞いていた通り、受け答えも居住いも驚くほど落ち着いていた。
湘子の中では、小聿を授かるまで幼子といえば源家の分家の子どもたちや一条源家の家人の子どもたちだった。
そして、十も満たない子らはその成長具合に差や個性があるにせよ、総じて己の感情に素直で、大人に守られる存在だった。自分と実際に己の周りにいる人々で社会はできていて、考えればいいのはその小さな社会のことだけだった。
実際、湘子自身も成人するまでは一条や源家の人々とごくわずかな友人と好きな芸事を己に叩き込んでくれた師だけが彼女の世界だった。
聖国一の名家と言われる一条源家の大姫でありながらも、父が身を置いている政治の世界や領地のこと、国のこと、民のことなどはどこか遠い世界で、思いを馳せようとしたこともなかった。大人になって、ようやく、両親や分家の当主たち、一条の家人衆の背中を見て、考えなければなないことなのだと思えるようになった。
第三皇子であった舜棐の妃となり、目の前で最愛の人が民のために日々心を砕く様を見て国に、民に目を向けなければならぬのだと意識するようになった。
だが、幼い小聿はそうではなかった。
わずか五つでも、己の立場の危うさや素直な思いが時に大きく人を動かし、国を傾ける可能性があることに意識を向けているようだった。
理解しきっているとは言わぬが、それでも、その立ち振る舞いから彼が普通の子どものように己に素直に今生きる小さな世界だけに心配っているわけではないのは一目瞭然だった。
それを見るたびに、ああ、無理をしているのだ、この皇宮という大人たちの思惑が錯綜する場所で、この小さな息子は目一杯無理をしているのだと感じ、胸が痛んだ。
息子を大切に思ってくれる人たちが傷つき、命を落とし、罪を犯したことを、この小さな息子は己のせいだと思っていることはわかっている。そうではないのだと自分が、周りがどれほど口を揃えていっても、この心優しい息子は己を責めるのをやめはしないだろう。
身体を強く産んでやれず、居場所も境遇も辛い場所。
自分は母親なのに、彼の側に常にいてやることもできず、甘えさせてやることも守ってやることもできなかった。
あの園遊会で、腹を蹴ってくれたこの子をこの世に迎えられたことは後悔していない。
けれど、こんな思いをさせるためにこの子を産んだわけではないのにと何度も思った。
ただ、この子の幸せを最愛の人と見守りたくて、それだけを望んで、この子を産んだのにと。
皇宮で息子が辛い思いをする度に、舜棐は心を痛めていた。
その様を見るのもまた辛かった。
一条源家に降るという辛い決断をしたのも、この子だった。
本当なら、息子を守るために自分がすべき決断だったのだ。
どこかで、いつか、彼を多くの人が認める世がくるのではないかと彼を取り巻く環境が改善されるのではないかという甘い期待を抱いてしまっていた。そうして、自分も息子も舜棐も救われるのではないかと淡い期待を捨てきれずにいた。
そうした甘さが、息子を追い詰め、本来は自分がするべき決断を幼い息子にさせることになってしまった。
――――『母上、申し訳ありません。私が弱く、情けないが故に、母上を共に源家にお連れすることになってしまいました』
舜棐に臣籍降下を認めさせ二人で本宮を辞し、奥の宮まで送ってくれた息子は、自分にこういった。
――――『私一人、源家に参ることも考えたのです。母上は陛下のお側に居たいだろうとわかっているのに……』
目を伏せてうめくように息子は言った。
――――『それでも、私は、母上をここへ置いていくのが恐ろしいのです』
昨年の年の瀬に、目の前で毒に倒れた母を見て、この子はさぞや怖いと思ったのだろう。
――――『これは……私のわがままなのです』
皇宮という政治と権力と人々の思惑が錯綜する場所で、人が死ぬということは珍しいことではない。それは理解している。それでも、それを黙って……自分が大切だと思う人がそうして消えてしまうのが受け入れられぬのだと消え入りそうな声で彼は言った。
――――『何をいうか。母をここにおいて行ったら、許さぬぞ。そなたの側が私の居場所じゃ。私のほうこそ、かような思いを、決断をそなたにさせてしまってすまぬの』
そうして抱きしめた息子の小さな体は震えていた。
「すまぬの……小聿……」
わずか五歳でぼろぼろになってしまった息子を前に、自分はかける言葉さえ持っていない。
彼の心がこれから先、救われることを祈るしかない。
その不甲斐なさに、居た堪れなくなる。
こうして歯を食いしばって生きていることは、きっと息子にとって苦しい日々だ。
それでも、自分はこの子に生きていてほしい、いつか、心の底から笑ってほしいと思うのだ。
白い小さな手を両の手で包むようにして握り、湘子はずっと動くことなく息子に寄り添っていたのだった。――――いろどりの追憶・第二巻・百二十頁




