彩の盾と剣の誓い(四)
ゆっくりあんみつを食べ、一条屋敷に着いたときにはもう日も傾きはじめていた。汗もかいたので、湯浴みをして新しい着物に着替え、夕餉のために本殿に行くからと髪を結き直してもらいながら、小聿はとてつもない眠気と倦怠感に襲われていた。
――――さすがに、1368段の往復が堪えたか……
「若?……若!」
髪を結ってくれていた蕗隼に呼ばれ、小聿はハッとした。どうやら、ぼーっとしていたらしい。
「ああ……すまない。少しぼーっとしてしまったよ」
照れた顔をして言うと、蕗隼は櫛を鏡台に置き丫角に結い途中の髪を解き始めた。
「蕗隼?」
不審に思い名を呼ぶと、夜着にお召し替えを、と言われる。
「なにゆえ?本殿に行かねば……」
「お食事は食べやすいものを後ほど水鏡殿にお持ちします」
「…………」
「お召し替えをしてご寝所へ。熱がおありなのはわかっておいででしょう?」
四年間、ずっとそばにいるこの側仕えはいつの間にか小聿の体調を黙っていても察知するようになっていた。
小聿はため息をついた。この眠気と倦怠感は動き疲れたからだけではなく熱があるからなのかと思った。
大人しく夜着に着替え、寝所に退がる。
しばらくすると、源家のお抱えの医師がやってきた。昨日、従弟の小慎が転んだ時にやってきた医師だった。
「お疲れが出たのでしょうな」
診察を終えた医師は、薬師に薬について指示をする。薬の名前を聞きながら、ああ、東の院にいた時に良く太医令に飲まされていたものだなとぼんやり思う。あの薬湯はどうも好きではない。ここでも飲まねばならぬのかと小聿は少し眉を顰めた。
「まだ、熱はそれほど高くありませんが、この後、上がるやも知れません」
「……大丈夫。少し休めば良くなるよ」
「いいえ、小聿さま。あなたさまがお身体がそれほど強くないこと、疲れるとすぐに熱をお出しになることは、太医令より聞いております。今日は剣宮の奥社まで行き帰り歩かれたのでしょう?無理は禁物です」
「なぜ、尚按が……そなたに……?」
皇宮にいた時に散々世話になった太医令の名を口にするとふふふと源家の医師は笑った。
「尚按はわたくしの従兄なのです」
「従兄……?」
「はい。わたくしは尚仙と申します。以後お見知り置きを。もっとも、なるべくわたくしと顔を合わせずに済むようにいてもらいたいものですが」
薬師と蕗隼が寝所に入ってくる。
蕗隼が粥を持ってきてくれたが、さっぱり食欲がわかなかった。数口食べて、もう嫌というほど飲んでいるあの苦い薬湯を飲み、小聿は寝台に横になった。尚仙と薬師が出ていき、蕗隼だけになる。
冷たい手拭いが額に乗せられ、その心地よさに息をつく。気遣わしげにこちらを見る側近に小聿は苦笑いをしてみせた。
「ここへ来ても、身体が弱いのは変わらぬな」
蕗隼は静かに首を振った。
「この数ヶ月、小聿さまはずいぶん無理をしておいででした。身体が悲鳴をあげても無理はありません。心と身体は繋がっているのですから」
「無理をしたつもりは……」
再び首を振られる。
「とにかくゆっくりお休みください」
キッパリ言われて、小聿はおとなしく頷き目を閉じた。蕗隼が明かりを落として、静かに部屋を出ていく気配がした。
最近は、眠りが浅かったがこの日は熱と疲れのせいであっという間に眠りに落ちた。
水鏡殿を辞し西の源家の家人の住居棟に戻ってくると自分の部屋の前に人影を見つけ、蕗隼は苦笑いをした。
暗くて顔を確認できないが、それが誰でどんな顔をしているのか、手に取るようにわかる。
果たして、蕗隼の部屋の前に立っていたのは彼の親友であり幼馴染みである汝秀だった。思った通り、すっかりしょげている。
「2736段はダメだろう」
ため息をつきながら言ってやると、むぅ、という唸り声が返ってくる。
「若のことを他の者に頼んでくるから、中に入っていろよ」
部屋の戸を開けてやると、汝秀は慣れた様子で入っていく。
蕗隼は水鏡殿付きの家人たちにいくつか指示をだし、自分はまた数時間後に水鏡殿に行く旨を告げると、親友が待つ自室に入った。
蕗隼と汝秀は、一条源家に代々仕える家の者だった。
蕗隼は岳家の者で、岳家は代々源家の家令(源家家臣団総代)を務める家だった。今は、祖父の蕗迅が家令を務め、父の蕗粛は祖父と共に源家の当主・彩芝を支えている。
汝秀は邦家の者で、邦家も長きに渡って源家に仕える家だった。父の汝杏は、葵子の側に付いている。
小聿が奥宮の湘子の元を離れ東宮・東の院に入った時、期限付きで蕗隼と汝秀は側仕えとして東の院に入った。
通常、聖国は十五歳で立太子の儀を執り行い正式な皇太子を定める。
二人は小聿の母・湘子の生家から彩芝の命により、小聿が十五歳になるまで源家を離れ東の院で彼に仕えることが決められていた。次の皇太子が、第一皇子の子虞になるにせよ、第二皇子の小聿になるにせよ、十五歳になれば皇族男児は成人となる。
そして、成年皇族となった彼らには、宮官の試を受け合格した者たちが仕える。
十四年間の勤めを終えたのち、蕗隼と汝秀はこの一条源家に戻り、それぞれの父の跡を継いで源家の家人として仕える予定だった。
その頃には、小慎も十四となっているはずで、彼に仕えいずれは一条源家の跡を継ぐであろう小慎を支える者として生きていくことが決まっていた。
しかし、この春、小聿は皇子の身分を捨て、母・湘子と共にこの一条屋敷に降った。そのため、彼らも共に東の院を出てここ一条屋敷に戻ってきたのだった。
中に入ると、汝秀は長椅子に黙って座っていた。
「今日は酒はなしだ。あとで、若の様子を見にいくからな」
「わかってる」
茶を出してやると、汝秀は黙って飲み出す。蕗隼も彼の隣に座って飲み始めた。
「反省している」
「そうだな。大いにしてくれ」
蕗隼が深く頷くと、汝秀はますます小さくなった。
「無理しているのはわかっていたのに。年明けから特に」
「うん」
「他の皆は、若が笑ったのを見て喜んでいたけどさ……絶対無理しておられるんだ」
「そうだな。相当無理をしておられる。だから、身体が悲鳴をあげたのだろう。一月に倒れられて、その後、央茜とのことがあり、源家に降る決断をなさった。今上帝に自らお話なされて、東の院を辞す支度を淡々となされ……」
蕗隼はため息をついた。
「それを、あの幼さで受け止め、こなしてこられたんだ。こんなこと……もし、小聿さまが大人であったとしても耐え難い話だったと思う」
汝秀は手に持っていた茶器を卓の上に置いた。
「ずっとご自分を責めておいでなんだと思う。朔侑のことも他の者たちのことも、央茜さまのことも……湘子さまと主上を離れ離れにさせたことも。あの方は何一つ悪くないのに。もう責めないでくれ、小聿さまは何一つ悪くないのだと言ったとしても、きっとご自分を責めることをおやめにはならないんだ」
「そうだな」
「俺は……無力すぎる」
「それは俺もだよ」
沈黙が落ちる。
「でも」
沈黙を破ったのは蕗隼だった。
「たとえ無力でも、俺は、小聿さまが俺を厭うて離れてくれ、と言わない限り側にいるよ。俺ができることなんて大してないのかもしれない。けれど、あの方に降りかかる火の粉を代わりに受ける盾ぐらいにはなりたいと思うんだ」
「うん」
「俺さ、爺さんと親父に言うよ。岳家が代々継いできた仕事は継がないって」
「え?」
「岳家は源家宗家の家令の家だろ。今、俺が小聿さまのお側にいられるのは皇宮でお側にいたから。でも、いずれ俺は次期当主付きにならなきゃいけない。若殿である芳崇さまか、小慎さまにつくことになるって、こっちに帰ってきた時に言われたんだ」
知らなかったという汝秀の呟きに、蕗隼は誰にも言っていないからなと笑う。蕗隼は続ける。
「でも、俺はやっぱりこのまま小聿さまのお側にいたいと思う。この先、小聿さまがどうなるのかはわからない。親父たちによると、加冠と同時に分家を構えることになるんじゃないかって話だった。小聿さまが分家を構えて、この一条からお出になるなら、俺はついて行こうと思う」
まだ先の話だけどさと彼は肩をすくめた。
「勝手に抜け駆けするなよ」
少しムッとしたような顔を汝秀はする。
「俺もいく。置いてくな」
汝秀は茶器を手にして、親友の前に差し出す。
「お前が若の盾になるなら、俺は若の剣になる」
ふっ……と蕗隼が笑った。
「なまくらでない事を祈ろう」
「そちらこそ、あっという間に壊れるなよ?」
二人の持った茶器が合わさり、鳴った。
後に、彩の盾と彩の剣と呼ばれる二人の誓いは、この夜、水鏡殿で眠っているであろう幼き主を思いながら立てられたのだった。――――いろどりの追憶・第二巻・百十三頁




