彩の盾と剣の誓い(一)
翌朝。
小聿は、いつものように家族と朝食を摂り、水鏡殿に戻った。
ただ違ったのは、戻っていった先は居室の縁側ではなく、昨日彩芝と本を読み、語らった書斎であった。
書斎に誂えられた大きな書棚の前に立つ。
まだほとんど空と言って良いその書棚の一角に、わずかに本が並んでいた。
東宮・東の院から小聿がこの一条へ持ってきたもののだった。
古の歴史書。
そして、かの老人からの聖星祭の贈り物である異国の魔術書。
小聿は、もう何度読み返したかわからない古の歴史書のうちの一冊に手を伸ばす。
この一条に降ってきてから、昨日祖父とともに本を開くまで、彼は何よりも好きだった読書をせずに過ごしていた。
ただ、読まないにも関わらずこの歴史書を毎日膝の上に置いて過ごしていた。
この歴史書は聖国の建国の祖・舜堯と彼の血のつながらない弟であり、聖国建国の立役者であった彩恩の物語であった。
彼らが交わした会話が鮮明に描かれているその歴史書は、多くの者たちによって編纂されたという。それは史実に則った部分と編纂者の創作が入り混じっていると言われ、もはや千三百年以上たった今ではどの部分が史実通りで、どの部分が編纂者の創作や解釈によって変えられた部分なのか判別がつかない。
そのため、史実を詳らかにする資料としての価値に疑問を呈する研究者は少なくない。
それでも、小聿はこの歴史書がたまらなく好きだった。
舜業と彩恩がどんな言葉を交わしどんな思いでこの国を建てたかが綴られたこの物語は、幼い小聿の心をいつも熱くさせる。
舜尭の血を継ぐがゆえに、己が周りを不幸にしていると分かっているし、争いの元である血が己の身に流れていることに恐ろしさや厭悪感を抱く一方で、己の信念を貫き一国を建てた彼とその弟に憧憬の念を抱かずにはいられなかった。
初代皇帝・舜堯と建国の剣・彩恩は、星森の巫女とその夫の元に同日に生を受けた血のつながりのない兄弟だった。
舜堯は星森の申し子が戦乱の世を治める魂の持ち主として星森の巫女の元に授けた赤子であったという。そして、同日に星森の巫女がその身に宿した新たな命こそ、後に、舜堯を支え共に聖国を建てた彩恩であるそうだ。
卓の上に手にした歴史書を置き、そっと頁をめくる。
開いたのは、彼らが生まれ育った星森の宮を舜堯が一人旅立つ話の部分だった。
世が乱れ、生きとし生けるものが苦しむことを看過できぬと舜堯はある時立ち上がり、一人、家族の元から旅立った。
己の半身の如く思い、信じた弟である彩恩を置いて。
それは、これから己が歩く道が修羅の道であり、その道に大切な弟を道連れにしたくないから……。
後に、彩恩は兄を追って星森の宮を発ち、舜堯は弟の強い想いに心打たれ、二人は手を取り合って安寧を求めるための辛く長い道のりを進んでいく。
――――彩恩を置いていこうと決意した舜堯はどんな思いだったのだろう。
そして、舜堯に置いて行かれた彩恩はどんな思いだったのか。
小聿は、状況は異なれどかつていた場所を離れた己をほんの少し重ね、気の遠くなるほど昔の彼らの心を思う。
己の遠い祖先の心知る術はない。
けれど――――
卓の上には、彩芝が置いていった源彩恩にまつわる書物。
彩恩の末裔・源家宗家にのみ伝わるという書物をそっと開く。
――――『そなたの中には舜堯帝の血も流れておるが、もう一つ血が流れておろう?先ほどそなたが答えた源彩恩の血じゃ』
『その血が流れているからこそ、そなたは今こうしてここに儂の膝の上におる』
『儂とそなたに流れる源家の血は、そなたを傷つけたり悲しませたりするものではないとわかってほしい』
『それは忌むべきものでは無いのじゃ。そなたの中には、舜堯と共に、聖国を建て、守った彩恩の血も流れておる』
『これからは、源家の者として立っていなさい』
昨日、この部屋で彩芝が言ってくれたことが蘇る。
「源彩恩……私のもう一人の祖」
彩恩が己の末裔に伝えたかったことを知ることで自分が何を想うのかはわからない。
けれど、知らねば想うこともできまい。
小聿は端然と卓の前に座し、久しぶりに自ら本を読み始めたのだった。
「え?」
柄にもなく、彩芝は間の抜けた声を上げた。
昼食を食べ終えのんびり茶を飲んでいると、いつもはすぐに水鏡殿に下がってしまう小聿が目の前までやってきて端然と座ると昨日置いていった本を全て持ってきて、大変興味深かったと言った。
「全て……読み終えたのか?」
「はい。どれも楽しく読みました。特に……」
重ねた本のうちの1冊をとってパラパラとめくる。そうして、ある章を開き差し出す。
「こちらの彩恩が鏡合わせの大陸について、生前どのように言及していたかの部分は大変興味深うございました。鏡合わせの大陸は、彩恩の時代から独自の文化体系を持っておりますが、星森の大陸と同じように星森の申し子とそれに連ねたる五大精霊の加護の元に存在します。この大陸は、今もなお聖国の庇護を一部の地域は受けていますが、そうでない地域もございます。この現状が彩恩の唱えた『多大陸共生』に端を発していることが、驚きでございました。1300年以上前の理念が今も生き続けているわけですから。とはいえ、この多大陸共生の考えが、ある意味、現在聖国が抱える歪みの元であることも否定できません。それゆえ……」
一瞬でも、本当に読んだのか、読むのが嫌で読んだふりをして返しに来たのかと思った自分を彩芝は恥じた。
楽しげに語る孫息子をしばし茫然と見つめる。
ややあって、我に返ると、それではこんな関連書が西の書庫にある、自由に書庫に出入りして良いと伝える。すると、小聿はありがとう存じますと言って、柔らかく微笑んだ。
「小聿どの」
隣で同じように驚いていた妻の葵子が、彼を呼ぶと、はい、なんでございましょうと首を傾げた。
「この後、源家の星森の宮に行こうか思うのです。一緒にいかがですか」
「ぜひに」
にこりと笑って小聿は頷く。
それでは、一時間後に出発しましょうと二人は約す。小聿は一度、水鏡殿に戻って仕度してくると言って退がっていった。
そんな彼の後ろ姿が見えなくなると、残った一同は、わっと声を上げる。
「見ましたか、あの若君の笑顔。まことに本がお好きなのですね」
「いやぁ、こんなに難解な本をすらすらと読まれ、ご自分の考えも持っておいでとは驚きました!」
「愛らしい笑顔でございましたな。笑うとあんなに可愛らしいとは」
「ほんに、ほんに。あんな笑顔を向けられたら、もうたまりませぬ」
口々に皆が嬉しそうな顔をする。
それぞれが、ビー玉のような目をした小聿を心から案じていたのがわかる。だからこそ、彼の笑顔に心から喜んでいることも。
「いやぁ、さすが義父上。参りました。あんなに楽しげに、小聿どの自ら話されるとは。昨夜は、時間がかかるやもと案じておられましたが、ちゃんと義父上の気持ちは小聿どのに伝わっていたのですな」
芳崇も嬉しそうにそういうと、隣に座っていた靜子が頷く。
「小聿どのも、やはりお好きなことをして少しお心が晴れたのかも知れませんね。なんにせよ、安心いたしました。ねぇ、姉上さま」
息子が去って行った後を眺めていた湘子が、そうじゃな、と相槌を打つ。だが、彼女の紫の瞳はどこか不安げであった。
「ふふふ、これからあの愛らしい笑顔をたくさん見とうございますね。今日は星森の宮に行った帰りに、どこか甘味処にでも寄って参るといたしましょう」
そう言って、葵子は立ち上がると嬉しそうに支度をしに自室へと退がっていく。
やがて、それぞれが部屋へと退がっていくのを見送り、彩芝は小聿が返してくれた本を手に取った。
あの子は、どんな気持ちでこれらの本を読んだのだろう。
そして、読み終わった後、本当はどう思ったのだろう。
ああして、見事な感想を言って、嬉しそうに笑って見せたのは、心からのものなのだろうか。
自分の気持ちが伝わったのか、彩芝は自信が無い。
仮に、伝わっていたとしても、あの孫息子にとって重荷になっていないかと今更ながら心配になってくる。
「祈るんじゃ。それしかあるまいて……」
何か仰せになりましたか、と尋ねてくる家令の蕗迅になんでも無いと伝え、彩芝は本を抱えて自室へ帰って行ったのだった。




