涙は華に託して
源家に降ってから床に就く時間がずいぶん早くなった。
東の院にいた頃には、聖星森堂に礼拝へ行ったり、東の院の書庫で本を読み耽ったりしてしまって早く寝ろと側仕えに怒られてばかりだった。
けれど、こちらにきてからはこれといってやりたいこともやらねばならぬこともなく、夕餉をとって、湯浴みを済まし、寝室で祈りを捧げ、そのまま寝台に潜り込むのが常となった。
日中体を動かすことも、頭を働かせることもないせいか、大して眠くはならなくて、寝台の中で眠らずにいることが多い。
時々様子をみに心配性な源家の家人たちが来るたびに、寝たふりをしてやり過ごす。
それでも、夜がふけると次第に眠くなり、うつらうつらと微睡む。
そうして、しばらくするとまた目が覚めて、朝を迎えるのだった。
そっと寝台から抜け出して、天蓋の紗をくぐる。
寝所の窓から外を見れば、空に細い細い三十日月が見えた。
音を立てぬように気を配りにながら窓を開けると、庭からひんやりとした風が吹き込んできた。
その風の冷たさが心地よくて目を閉じると、脳裏に東の院にある真珠庭園の美しい景色が浮かんだ。
――――庭園の真ん中にある月鏡池は今宵も静かにあの月を映しているだろうか。
庭を吹き抜ける涼しい風が池水面を揺らして、煌めいているだろうか。
あの薄紫色の魔術華は、今も、己の弱さを示すように池のほとりに咲き乱れ、雫を散らしているだろうか。
「私は……」
――――帰りたいのだろうか、東の院へ。あの日々へ。
数日前までいたあの場所を、まだ、鮮やかに思い出せる。
四季の花々が咲き乱れる美しい庭も、本を読むのにとてもいいあの亭も、あの人が誂えてくれた自分専用の書庫も。
綺麗に磨き上げられた廊下や勉学に勤しんだ部屋や大好きなピアノを弾いて過ごした楽典の間も。
武術や魔術の稽古をした道場や殿上童や童宮女らと遊んで過ごした日当たりの良いあの部屋も。
幼なじみのあの姉妹やその両親と茶を楽しんだ茶寮も。
病弱な自分がよく過ごしていた寝所や心から慈しんでくれたあの老人と語り合った礼拝堂も。
あの人と言葉を交わし、想いを交わした刻も。
ふ、とそこまで考えて、小さく震える。
――――帰るわけにはいかないのだ。
『国乱しの皇子』である自分が、これ以上あの場所に居続けるわけにはいかなかった。
自分があの場にいれば、傷つく者は後を絶えず、主上を支える百官も無用な争いをし続けることになってしまう。
大切な人たちが傷つくことも、聖国の安寧が脅かされ、それが民の苦しみへとつながることも、耐えられなかった。
無力で不甲斐ない自分は、あの東の院から立ち去ることでしかそれらを回避する術がなかったのだ。
窓から見える庭の向こうには、この一条へ来た翌日、側仕えたちに案内されて一度だけ中に入った音楽の間が見えた。確か、その向こうには舞の稽古のための部屋や小さな茶室があったように記憶している。
それらを思い、小聿は小さくため息をこぼす。
自分のために、源家の主や家人たちが用意した水鏡殿は自分には過ぎたる場所のように思えた。
広々とした敷地にゆったりと建てられた家屋は、何不自由なく過ごせるように様々なものが揃えられていた。
音楽が好きだと聞いたのだろう。様々な楽器がお行儀よく置かれた音楽の間は、主に音を奏でてもらうのを今か今かと待っている。
学問が好きだと聞いたのだろう。窓辺に大きな卓があり、大きな書棚にはこれから主が気に入った本を入れてくれるのを待っている。
茶道や華道、香道も嗜んでいると聞いたのだろう。そのための部屋も用意されていて、真新しい炉が火を入れられるのを待っている。
舞を見たことがある源家の主はそのための部屋も用意していた。新築の板間は主がその上で舞うのを待っている。
広々とした寝室は、大きな天蓋付きの寝台が鎮座している。
美しい庭が見える居室は、来客との時間をゆったり過ごせるようにと風通しもよく日当たりもいい。
西の方には、書庫も武術の鍛錬場もあるのだと、いつでもお連れすると皇宮にいた時から側にいた二人はいっていた。
その全てが。
なんだか申し訳なく思わせる。
目一杯自分のためにやってくれているのがわかっているだけに、それに応えなければという思いはある。
それでも、今の自分はそれらをやって何になるのだとも思うのだ。
自分の存在が、多くの者を傷つけ、命を奪い、犯さなくても良い罪を犯させた。
瞳を閉じれば、思い浮かぶのは苦しみ悲しみ絶望する人たちの顔ばかりだ。
いっそ消えてしまえたら、どれほど楽だろうと思うけれども。
それを思うことは、死んでいった者たちや自分のせいで傷ついた者たちの想いを穢すことになってしまう。
今も己の側で、生きてくれと、前を見てくれと、願ってくれる者たちの想いも。
遠くで、尚も己を信じてくれているであろう人たちの想いも。
昨日は思わず桜を前に、己の思いを吐露してしまいあの忠実な側近に悲しい顔をさせてしまった。
「私は弱い……」
呟いた声は闇に溶けていく。
己を想ってくれていた、今なお想ってくれている人々のために、弱音を吐いてはいけないのに。
強く首を振る。
もう、言うまい。
あのようなことを、言ってなるものか。
油断すると、泣きたくなる。
けれど、こんな自分の姿は誰も望んでいない。自分が泣けば、周りは案ずるし、痛めなくてもいい心を痛めてしまうだろう。
涙を流したところで、己の罪は消えぬし、多くの者を悲しませたこの存在が赦されるわけでもない。
だから……
――――涙を流すのは、あれで最後だったのだ。そう、私が己に科したのだ。
強く強く、首に下げた翡翠の聖印を握りしめる。
今、すべきことはわかっている。
小さく、囁く。
「星を創りし、星森の申し子よ
我が声、我が心に、その傾聴を賜わん
申し子よ、それに連ねたる精霊よ
その清き水で我が穢れを流し、
その清き火で我が宿世の業を焼き
その清き風で我が罪を舞上げ
その清き土で我が咎を穿ち
その清き空で我が過ちを正し
今、ここに我が在ることを許されん
星を護し、星森の申し子よ
我が心の主よ
その清き眼差しで、その清き声で、その清き手で、その清き心で
我が前にあなたの道をお示しください
その道へ至る小道をお教えください
星を抱きし、星森の申し子よ
その御心の愛を遍く人々にお与えください
この星の安寧が永遠に続かんとお導きください
――――ただ、ただ……
申し子よ……精霊たちよ……
私はあまりに弱いから
この存在の赦しを乞う声にほんの一時耳を傾けてはくれまいか……
そうして、この弱き声に、申し子よ、あなたが耳を傾けてくれていることを頼りに、私は立っていよう。
空が白み始めていた。
西の方に見えたあの三十日月もいつの間にかその姿を消していた。
まもなく、いつもそばにいてくれる青年たちが起こしに来るだろう。
開けていた窓を閉め、小聿は再び寝台に潜り込む。
そうして、側仕えたちが起こしに来るまでのわずかな時間――――
その時間だけでも、もう戻ることのない過ぎし穏やかな日々の夢に逃げられまいか思いながら、小聿はそっと瞳を閉じた。
朝日が昇り明るくなった水鏡殿の庭に、薄紫色の可憐な花が見事に咲き乱れているのを見つけたの水鏡殿の家人たちだった。大変に可憐だが、水をやってもいないのに雫をほろほろと湛えるその花を皆、不思議な面持ちで眺めていたのだった。
側仕えらに起こされて、身支度を整えた小聿はそれを見て彼らに「これは精霊さまのお力を宿したお華だよ。私が咲かせてしまったのだ」と少し困ったように言った。この華の名前も、意味も彼は家人たちに語らなかった。ただ、魔術華ゆえに特に手入れの必要はないとだけ、一条の者たちには伝えた。
この薄紫色の魔術華の名は『星泣華』。
咲かせる者に星森の申し子と精霊たちの大いなる加護があると言う。そして、咲かせる者はその命を削るほどの悲しみを抱えている。抱えきれぬ悲しみを、苦しみを、共に涙を流さんとして大地に咲く。
以来、この花は一条源家にて『若さまの花』と皆に親しまれるようになる。
この華を見て胸を痛めるのは、かつて小聿と共に東の院にいた二人の青年と彼らに話を聞いたわずかな者たちだけであった。
水鏡殿の幼き主は、ただただ必死に祈り、己の存在意義を探し続けていた。己の涙は、その薄紫色の魔術華に託して。――――いろどりの追憶・第二巻・八十頁




