一条の人々(三)
水鏡殿に戻ってきた小聿は、また定位置にちょこんと座っていた。
そして、いつもと同じように静かに庭を眺める。
「これを繰り返したとて、進展する未来が見えんのだが」
「うーん……そうだな」
再び、小さな背中を見つめながら小聿の側近の五人は小声で話す。
「もっと、どかんと!起爆剤がいる?」
「起爆剤……ねぇ……」
琳の言葉にそれってなんだよ、と汝秀が呻く。
一時間ほどしただろうか、水鏡殿の小聿を彩芝が訪ねてきた。
彼は何冊かの本を持ってきて、共に読もうと孫息子を誘う。小聿は、穏やかに微笑み是非にと答えた。
いつも小聿がいる居室から、場所を勉強部屋に移す。こちらも、見事な庭が窓から見える。
からからと彩芝が窓を少し開けると、春の優しい風が部屋に入ってきた。
二人は並んで机の前に座す。
「小聿は、古典は好きか?」
「はい。古の言葉や文化、考え方に触れるのはとても新鮮で、楽しゅうございます」
「そうか、そうか」
孫息子の答えに、彩芝は満足そうに頷き一冊の本を取り出した。
「この本は、源家に伝わる本での。すでに、多くの歴史を紐解いているそなたならば、この聖国建国の歴史も知っていよう。そして、この源家がどう関わっているのかも」
彩芝の言葉に小聿は頷く。
「はい。建国の剣・源彩恩のとこでございますね」
「そうじゃ。幾星霜もの昔、この星は星森の申し子と申し子さまにお仕えしていた五大精霊により作られた。そして、この星森の大陸の中央に位置する星森に立ち、大小さまざまな大陸や島、そして、生きとし生けるものを創造なされた。皇宮の北にある星森がその場所と言い伝えられておる」
卓に紙が広げ、彩芝はさらさらと地図を描き出す。
「そして、それからさらに長い年月を経て、愚かにも人は星森の申し子さまや五大精霊の力を……魔術を使って覇権争いを始めた。それが今から1300年以上昔の話じゃ。その戦乱長きにわたりこの星森の大陸も他の大陸や島々も巻き込み、熾烈を極めたと言う。その戦乱を治め、この星に安寧をもたらしたのが、舜堯帝……聖国の建国の祖じゃ」
そこまで言って、彩芝はとなりに静かに座す幼い孫息子の紫の瞳を覗き込む。その瞳は、常と変わらず静かであった。
「こうしてそなたが源家に参ることを決断するまで、辛く悲しい日々であったことは重々承知しておる。それは、そなたが舜堯の血を継ぐ皇族であったがゆえ。だからこそ、そなた自身、この舜堯帝の血を継いでいることに、複雑な気持ちを持っておることも無論わかっておる」
ぴくりと。
彩芝の言葉に、わずかに小聿の眉が動く。
「されど、その身に流るる血は変えられぬ。消すことも能わず。その血脈を今すぐ愛せ、誇りを持てとは言わぬ」
ひょいと彩芝は小聿を膝に抱き上げる。それは、小聿にかつて己を慈しんでくれた一人の老人を思い出させた。
「じゃがな、小聿。いつか……その血を受け入れてほしいのだ。脈々と継がれてきた血が、今、そなたをここに立たせておる。受け入れるとは、己の存在を受け入れることになる。儂は、そなたにそなたを認めてほしい」
はじめて。
一条源家に来て、はじめて、小聿の紫の瞳がわずかに揺れた。小聿はそれを隠すかのように、目を伏せる。長いまつ毛が、影を作った。
彩芝は小さな背中を撫でる。
「よいよい。時間がどれだけかかっても良いのじゃ。ゆっくり、ゆっくりで良い。けれど、のぅ、小聿?」
こつんと、彩芝は小聿の丫角に結われた小さな頭に己の頬を当てた。
「そなたがこの星に生を受けて、五年。言葉交わすこともままならなかったが、儂も葵子も、他の源家の皆も、そなたの幸せを願わぬ日はなかったのだ。だから、これからは、こうして近くで見ておるでの?自分を認めて、自分を大切にしてほしい」
「…………」
小聿は視線を上げない。
この話はやはり早かったろうかと彩芝は思う。
けれど、この聡い孫息子に子供騙しの言葉をかけるほうが、間違っているように思えてならなかったのだ。
彩芝は卓に置かれた饅頭に手を伸ばし、真ん中で二つに割った。
「見よ、小聿。そなたの中には舜堯帝の血も流れておるが、もう一つ血が流れておろう?先ほどそなたが答えた源彩恩の血じゃ」
そう言って彩芝は割った饅頭の半分を小聿の小さな手に乗せる。
「その血が流れているからこそ、そなたは今こうしてここに儂の膝の上におる。そなたがあの日、儂に助けてくれと言ったのは、己に源家の血が流れていると、そう思うたからであろう?」
小聿は小さく頷いた。
――――「源司法長官どの。どうか、どうか。わたくしと母上をお助けいただけないだろうか」
まだ2月の寒い寒いあの日。
この孫息子は、東宮・東の院に自分を呼んだ。
そうして、人払をして、硬く震える声で言ったのだ。
助けてくれと、小さな体を震わせ、頭を垂れたのだった。
頼ってくれたのだと、血のつながりに縋ってくれたのだと思った。そして、助けを求めてくれてよかったとそう思った。
この子は、自分の大切な孫息子なのだ、守るべき子なのだと強く思った。
だからこそ、源家の血は彼を悲しませるものではなく、彼を守るものであって欲しい。
「だからの、小聿。儂とそなたに流れる源家の血は、そなたを傷つけたり悲しませたりするものではないとわかってほしい。それは忌むべきものでは無いのじゃ。そなたの中には、舜堯と共に、聖国を建て、守った彩恩の血も流れておる。これからは、源家の者として立っていなさい。儂は同じく源家の血を継ぐ者として、そなたを守っていく。安んじて、この一条で過ごしなさい」
――――そんなことできるのだろうか。
小さな孫息子に語りかけながら、彩芝は思う。
この子が抱えているものは、自分が考えるよりもずっと重いものなのかもしれない。
安易に守ると言って良いのかと迷いがないわけではない。彼を迎えようと決意した日からずっと迷い、悩み続けてきた。そして、それは尽きることはないのだろう。
それでも、この幼子を放っておくことはできない。
たとえこの言葉が気休めにしかならなくとも、言葉をかけないという選択肢はなかった。
きっとすぐにはこの思いは伝わらない。心を閉ざしてしまったこの子には。
――――時の力も借りるしかあるまいて……
焦ったところでいいことはない。
まだこの子は五つ。
これから少しずつ進めればいい。それを見守ろうと思う。
「ほれ、ここの饅頭は美味しゅうての。そなたのお祖母さまが好きなのじゃ。食べよう」
そう言って、彩芝は饅頭の半分を食べる。小聿は、はいと答え渡された饅頭をゆっくり食べる。
彩芝は、卓の上の本をゆっくり開く。
「まずは、彩恩のことをよく知ってみてはどうだろう。そなたを守ってくれる源家の血はこの方から始まっているでの」
「はい」
そうして、二人は源彩恩について書かれた文献を紐解いていった。小聿は、彩芝の想像以上に聡くすらすらと古典を読みこなし、理解しているようだった。蕗隼や汝秀が言っていた通り、元々学ぶことが好きなのだろう。いつの間にか、食い入るように書物を読み始める。それを見て、彩芝は喉を鳴らした。
小聿はハッとしたように、書物から顔をあげすぐに目を伏せた。
「良いのじゃ、良いのじゃ。小聿は本が好きなのじゃな。いくらでも読みなさい。読みたい本があればすぐにでも手に入れてあげよう」
小聿は首を振った。
「いえ、さようなお心遣いは不要でございます。わたくしなどのために……」
「これ!」
彩芝は、小聿の額をつつきその言葉を制する。
「童が遠慮などしてはならぬ。小慎を見よ。あれぐらいがちょうど良いのじゃ。そなたはしたいことをしたいようにすれば良い。子どもの特権ぞ?」
「子どもの特権……?」
「そうじゃ。大人になれば、やりたくないことをやらねばならぬし、やりたいことを我慢せねばならぬことも多い。されど、子どもはそれがぐっと少ない。ないとは言わぬがの」
人を傷つけたりするのは、だめじゃぞ?と彩芝は小聿の頭を撫でながら言う。
「だからこそ、自由に。心向くままに、やりたいと思うことをやればよい。それが、ここでは許される。皇宮では、そなたは大いに我慢をしてきたろう?ここは皇宮ではない。一条じゃ。我慢せずとも良い」
「やりたいこと……やりたくないこと……」
きゅっと眉が寄せられる。
「考えたことがございませんでした」
ややあって、ぽつりと小聿は答えた。彩芝は小さくため息をついた。その後、孫息子の目をのぞき込む。
「ふむ。では、今まで皇宮でやってきたことは、なぜやってきたのだ?」
問われて、小聿はまた黙考する。
「わかり……ません……。なぜやってきたのかも、今何をやりたくて、何をやりたくないのかも……何も、わかりませぬ」
紫色のビー玉のような瞳は虚だ。
この子は自ずから選ぶことを知らずに、ただ、目の前に出されたものを皇子としてこなしてたのだろう。この子自身の生来の性格的に、出されたものは文句も言わず直向きに打ち込み、そして、持って生まれた才から大概のことは驚くほど見事にこなしてしまうのだ。
再び、ふいと視線が落ちて虚な紫の瞳さえも見えなくなる。
「では、焦らず、ゆるりと考えれば良い。なに、時間はたくさんある。なんせ、そなたはまだ五つなのだから」
――――焦ってはダメなのだろう。
どうしても、何もしようとしないこの子に我らは焦ってしまっているけれど、今はただただ、この子に必要なのは休息や心休まる場所なのだ。
皇宮で聞いてきたこの子の話、側においていた蕗隼と汝秀から聞いた話、宮中行事で見かけた時のこの子の様子から、つい油断すると期待してしまう自分がいる。
彩芝は息を吐く。
「少し、話すぎたかの」
疲れたろうと小さな背中を摩る。小聿は小さく首を振った。
窓の外を見るといつの間にか、日が傾きかけて庭の草木の影が長くなってきていた。
「それでは、儂はそろそろ本殿に戻るとしよう。また、夕餉の時にの」
そう言って、彩芝は立ち上がり部屋と出ようとする。
「殿」
その背に声がかかる。
振り返ると、小聿が頭を垂れた。
「……お話しできてよかったです。ありがとうございました」
消え入りそうなほど小さな声で礼が紡がれた。それに、頷いて彩芝は部屋と出ていく。
後には、彩芝が持ってきた数冊の古典の本をぼんやり眺める小聿が残されていた。




