一条の人々(二)
果たして。
兪佳の予想は、見事に的中してしまった。
昼餉の後、惨敗覚悟で芳崇が小聿に将棋を指そうと誘った。
先ほどの母の誘いには一瞬の迷いを見せた小聿が、今度は二つ返事でぜひに、と答える。
「まずは、お手並み拝見。あ、手加減は無用ですよ、小聿どの」
「はい」
パチリ、パチリ、と二人は交互に駒を進めて行く。初めはどちらも良いテンポで駒を進めていたものの、だんだん芳崇が考え込む時間が増えていく。
「うーーん」
思わず唸りながら胡座をかき、膝の上に頬杖をつく。
「父さま、負けちゃうの?」
靜子の膝の上にいた小慎が問いかける。
「いや、まだまだ!負けぬよ……?」
そう答える芳崇の声はかなり頼りない。
将棋盤の近くまで来て、戦局を見た彩芝が吹き出した。
「芳崇、投了の美学というものもあるのじゃぞ?」
「義父上!まだ、手はありますっ」
そういって、パチリと駒を進める。すると、おそらくその手はすでに読んでいたのだろう。すぐに、小聿は次の駒をさす。
「うーーーーーーーーん、なる、ほど?」
彩芝は耐えきれずに、扇で口元を覆い笑い出す。
小聿は目の前で悩ましげな叔父を少し心配そうに見つめている。
「えーー!父さま、弱いのー?」
小慎が将棋盤に駆け寄る。
「これ、小慎!走らないっ」
慌てて靜子が止めようとするが、小慎は止まらず走っていき、つるりと滑って派手に転ぶ。転んだ拍子に、その手が将棋盤をひっくり返し見事に将棋の駒が畳の上に散らばった。
「小慎!」
「小慎さま!」
顔から転んだ小慎に驚いて、皆が彼に駆け寄る。
真っ先に、彼のそばに寄ったのは小聿だった。
「小慎どの、大丈夫だろうか?顔を打ってしまったのでは?」
小聿に助けられて、小慎が顔を起こす。小聿の指摘通り顔から転んだ小慎は鼻血を出してしまっていた。
わーん!と小慎が泣き出す。
「あーあー……派手にやったな。ほれほれ、大丈夫だ。男の子はそんなことで泣いてはダメだぞ」
芳崇がひょいと小慎を抱いて、膝に座らせる。
小聿はすぐに手巾を袂から出すと、小慎の鼻にあてがう。
「痛かったでしょう。びっくりしましたね」
源家お抱えの医師を呼ぶために、侍女が足早に出て行く。
小聿は、ふと奥に控える家人たちをみやる。
「お水と氷嚢、脱脂綿、それから、口を濯ぐから洗面器をお願いできるだろうか」
「ただちに」
小聿の言葉を聞いた者たちがすぐに動き出す。
水と洗面器を持った家人がやってくると、ありがとうと言って、彼は小慎に近づく。
「お口の中に、血が入ってしまっていると良くないので、口をゆすぎましょう。血を飲んでしまうと、気持ち悪くなってしまいますから」
優しく声をかけて水を差し出す。
「小慎、クチュクチュペーだ、できるかい?」
芳崇に促され、小慎は小聿から水を受け取り口を濯ぐ。それを見て、上手ですねと小聿はいう。
脱脂綿を持ってきた家人から、靜子がそれを受け取り小慎の鼻に詰めてやる。
「くるしいよぅ」
「お口で息をなさってください。若殿さま、小鼻を摘んであげてください」
「あ、ああ。これで良いか」
「はい」
静かに頷き、小聿は小首を傾げながら小慎の鼻を見つめる。
「見たところ……大丈夫そうだけれども……」
「若、氷嚢です」
汝秀が小聿に氷嚢を渡すと、ありがとう、と礼を言い彼は、少し冷たいけど許してくださいねと言って小慎の鼻にそっとあてがう。
「つめたーい!」
「我慢なさい!」
足をバタバタさせる小慎に、ピシャリと靜子が言う。
ちょうどその時、呼ばれた医師が中広間に入ってくる。
「小慎さまが顔から転ばれたとか」
「尚仙、そうなの。鼻血が出てしまって。でも、大方の処置は小聿どのがしてくれてよ」
靜子が言うと、尚仙と呼ばれた医師は驚いたような顔をする。が、すぐに表情を改め、小慎の元に寄る。
「見たところ、鼻骨を折っていると言うことはなさそうだが……かなり派手に転ばれたのだ。大丈夫だろうか」
心配そうにいう小聿の言葉に、ふむ、と小慎の様子を見る。
「そうですな。小聿さまのおっしゃる通り、骨など折れてはいなさそうです。処置も的確だったので、鼻血もすでに止まっていそうだ。でも、今日は安静になさってくださいね」
「えー!あとで、霍真とチャンバラする約束をしていたのに!」
「ダメです!今度になさい!」
「ぶー!」
「そこまで元気そうなら、心配なさそうですね」
ほほほと葵子が笑うと、皆安堵したように頷く。
「それじゃぁ、小慎は母と西殿に下がりますよ。ほら、小聿どのにお礼を言って!」
「小聿兄さま、ありがとう」
小聿は静かに首を振る。
「お大事に、小慎どの」
靜子と小慎と西殿の家人たちが下がると、残ったのは見事に散らばった将棋の駒。
「あー……と、こりゃ仕切り直しかな?」
ポリポリと頭をかきながら芳崇が言う。
小聿は小首を傾げる。
「それでも構いませんし、元にも戻せますが……」
「え?どうやって?」
「覚えておるのか、小聿」
彩芝の問いに、小聿は頷く。
「戻してみてくれるかい?」
芳崇の言葉に、はいと返事をし、小聿は将棋盤の前に座す。家人が散らばった駒を集めて彼に渡すと、ありがとうと言ってパチリパチリと盤面に直前の形を作っていく。
「直前に、わたくしがここに指して、若殿さまの番でございます」
「ひゃー、こりゃたまげた。すごいな、小聿どのは」
その場にいた者たちも皆一様に驚いている。驚いていないのは、湘子と蕗隼と汝秀だけだ。小聿にしてみれば、直前の盤面の再現など朝飯前なのはわかっている。
それじゃぁ、続きを……と盤面の前に座ったものの、あっという間に勝負はついてしまう。
「ぐぬぬ……お強い。参りましたっ!」
「ははは、完敗じゃな、芳崇」
横に座っていた彩芝が声を立てて笑う。小聿はそれを穏やかな笑みを浮かべて見ている。
「これは、将棋の勉強をせねばならないな。このまま、甥っ子に負けっぱなしは悔しすぎる。ぜひ、またの機会に再戦を」
「はい、ぜひに。お誘いいただきありがとうございました。楽しゅうございました」
「そうか!こんなに惨敗してしまったのに、楽しんでくれたならよかった。小慎のことも、ありがとう。すぐに対応してくれて、助かったよ」
叔父の言葉に小聿は緩やかに首を振る。
「いえ。たいしたことでは……。大事がなさそうでようございました。それでは、わたくしはそろそろ失礼致します」
「うんうん。また夕餉の時に」
はいと頷き、するりと立つとその場にいる大人たちに揖礼をし、彼は静かに中広間を去って行く。その後を、蕗隼と紗凪と水鏡殿の何名かの家人がついていく。
「えーーーと?小聿どのは何歳だったか……?」
「この二月で五つじゃ」
目を点にしながら、呟く芳崇に湘子が答える。
「義姉上は、とんでもない天才児を産んだんですね……普通、盤面崩されたら5歳なら真っ先に怒るでしょう?それなのに、小聿どのは誰よりも早く小慎を助けに行った。おまけに対応もまるで大人。盤面の再現もして見せて……」
「最後に、叔父を完膚なきまでに倒してみせた」
笑いを噛み殺しながら、彩芝は言う。
「義父上……それは言わないでください。でも、ほら、少し最後に笑ってくれたし!楽しかったと言っていたし!」
いい感じではないですか?と言う言葉に、残っていた汝秀、兪佳が、あー……となんとも言えない声を上げる。
「なんじゃ、どうした?」
控えていた蕗迅の言葉に、二人は先ほどの庭での話をしてみせる。それを聞いた一同は黙り込む。
「………えー、つまりこちらが気を遣われたと言うことかい?」
「そう、でございますね……」
汝秀の答えに、ガックリ芳崇は肩を落とす。
「なかなかに、手強いのぅ……。さて、次は儂の番じゃな?少ししたら、いくつか本を持って水鏡殿に参るとしよう」
肩を落とす芳崇に、まぁ見ておれと言い彩芝は中広間から出て行ったのだった。




