小さな背中
源家一条屋敷の東に建てられた二棟は、呼びやすいようにと名前がつけられた。
小聿の起居する棟を水鏡殿といい、これは月の異名からつけられた。
月の綺麗な夜に産まれた小聿が過ごす場所として、彩芝が名付けたものだった。
また、隣の湘子が起居する棟は空明殿といい清らかな水に映る月影を表す。小聿の母の過ごす場所であるその棟は水鏡殿の対の名が付けられた。
水鏡殿は、落ち着いた趣のある建物であった。
主である小聿が心穏やかに過ごせるようにと、庭には四季折々の花が咲き、寝室、居室、勉学が好きな彼を思って作られた勉強部屋、音楽が好きな小聿のためにと用意された音楽室などがあった。
皇子時代は、朝から武芸の鍛錬にはじまり、さまざまな講義、魔術の鍛錬、芸事の鍛錬に勤しんでいた。それ以外の時間は、東の院の書庫で趣味の読書を楽しむか、楽典の間で好きなピアノを弾くのが常であった。
場所が変われど、好奇心旺盛な彼がさまざまなことができるようにと用意されたその場所は、しかしながら、その役割は未だ果たされずにあった。
それは、一条屋敷に降りてからの小聿は文字通り何もしなくなってしまったからである。
食事を摂り、水鏡殿に戻ると居室の縁側にちんまり座り、ただただ、庭の花を眺めるだけだった。そうして、昼になればまた本殿で母や祖母たちと食事を摂り、また、戻れば同じ場所に座ってぼんやりしているのだ。
小聿が源家に来てから、一週間が経とうとしていた。
その日も、本殿で家族と朝食を摂った小聿は、宮へ上がる祖父や叔父を見送り、本殿から水鏡殿にさがってきていた。そうして、いつものように縁側にお行儀よく座り、微動だしないのだった。
お行儀良く座る小聿の膝の上には、彼がずっと愛読している古の歴史書。
東の院にいる頃は、その本をことあるごとに開いては目を輝かせて読んでいたというのに、今は本を開くことなくただ膝に置いているだけだった。
そんな小さな背中を見つめる人たちがいる。
「なぁ……蕗隼、汝秀。お前たちはずっと宮さまについていたのだろう?東宮では忙しくしてらしたと言っていたが……ここへ来てからなにもなさらないじゃないか。本当に、さまざまな鍛錬や勉学に熱心なお方なのか?」
兪佳という青年が隣で一緒に小さな主人を見つめる二人に問いかける。彼の問いに、二人は頷いた。
「それはもう。本当に何事に対しても熱心で、そして、その才は何においても素晴らしいんだ」
小聿の小さな背中から目を離すことなく、蕗隼は答える。
「でも、もう一週間、何もなさっていないじゃないか」
「うーん、そうだね……」
「何か提案してみたらどうかしら?」
蕗隼の隣にいた娘が言う。彼女は水鏡殿付きの侍女として、小聿の身の回りの世話をすることになった者である。
「宮さま……あ、じゃなくて、若さまが一番喜んでなさいそうなことはなんなのかしら?」
娘ーー紗凪の問いに、蕗隼と汝秀は顔を見合わせる。
「……なんだろう?汝秀、何がいいと思う?」
「えっ……そ、そうだな……ピアノもないし、書庫も……あ!書庫!」
「それだっ!」
汝秀の言葉に蕗隼は指を鳴らした。
「書庫?」
「とにかく、本がお好きなんだよ。東宮におられたときは、東の院に建てられた専用の書庫によくおられたし、嶷陽殿にもよく行かれていたんだ」
「嶷陽殿に!?あんな幼子が?読める本なんてあるのか?」
蕗隼の言葉に、兪佳は目を丸する。
嶷陽殿とは皇宮にある図書館でそこが扱う本は小聿のような幼子が読む絵本はない。どれも専門的な本ばかりだ。兪佳が驚くのも無理はない。
「なんせ、渾名が『嶷陽殿の宮』だったからね。皇宮に出入りする者の間では有名なお話だよ」
「それなら、西にある源家の書庫はいいんじゃない?殿が入れてある本がたくさんあるでしょ?」
それを聞いて今一人の小聿つきの侍女となった琳が言う。彼女の言葉に他の四人も頷く。五人はそっと小さな背中に近づく。
「皇子……あ、ではなく、若」
まだ、小聿を『若』と呼びなれない蕗隼は間違えてしまう。呼ばれた小聿は、こちらを振り返る。
その紫の瞳はとても凪いでいて何も映していないようだった。
「……あの、西の方に源家の書庫があるのです。よろしければ、参りませんか。若もきっと気に入られると思うのです」
その提案に、小聿はふわりと形のよい唇を笑みの形に変える。
「ああ……魅力ある提案をありがとう、蕗隼」
その反応に五人は嬉しそうな顔をする。しかし、小聿の言葉はそこで終わりではなかった。
「でも、私はいいよ。ここでこうしているので……」
大好きな読書ならば食いつくと思っていたがあっさり断られて、蕗隼は目を丸くする。
「え……でも、若が好きそうな本がたくさんあると思うのですよ。御本、お好きでしょう?」
「……うん、好きだよ。でも、いいかな」
「で、では!」
蕗隼の隣にいた汝秀が口を開く。
「弓や剣の稽古などいかがですか。西に道場がございます。体を動かしてはどうでしょう?」
小聿は静かに首を振る。その後もいろいろ提案してみるも、小聿は首を振るばかりだ。
「皆、すまない。気を遣わせてしまって。でも、どうか、私のことは気にしないでほしい。それぞれやりたいことや他の仕事をしておいで。私はここでこうしているのでよいよ」
そう言って、再び視線を庭に戻してしまう。膝に置いた本は相変わらず開く様子はない。時折、胸に下げた翡翠の聖印をそっと撫でるのみ。
その小さな背中は、これ以上何も言うなと言っているようで、一同は黙るしかなくなってしまう。結局、その日も前日と変わらず、食事を摂りに本殿へいき、戻ってきたら縁側で過ごし、夜になると早々と寝所に下がってしまったのだった。
一条源家の水鏡殿の家人たちは、ただただ幼き主の小さな背中を見守ることしかできずにいたーーーいろどりの追憶・第二巻・二十三頁




