月の皇子、徒桜とならん
聖国皇都・聖都にもゆっくり春が訪れようとしていた。
三月三日は、女の子の成長を祝う日である。
聖都の皇宮でも、美しく咲く見事な桃の花の臨める部屋で、第一皇女・莉空のための祝いの宴が行われていた。
莉空の腹違いの兄である第二皇子・小聿も、莉空のために美しい琴の音曲を奏でた。
来月には四つになる莉空は、母親である牡丹殿の妃・梓乃の隣に座し、嬉しそうに兄の琴の音に耳を傾けていた。演奏が終わると、莉空は小聿の元へやってきた。
「小聿にぃに、素敵な曲をありがとう。小聿にぃには本当にお琴がお上手ね。いつか、莉空にも教えてね」
愛らしく頼んでくる妹に、小聿は機会があれば、ぜひ、と微笑んだのだった。
子どものための宴なので、昼に始まった宴は夕方になる前にはお開きになった。
宴に参加していた官僚や兄宮や弟妹、梓乃妃がそれぞれの場所に去っていく。
小聿はそれを静かに見送り、ややあってするりと立ち上がる。
そうして、本宮の奥へと下がろうとしている父帝の背を追った。
「父上」
この慎み深い第二皇子が、自ら父に話しかけるのは大変珍しいことだった。
驚きつつも、父帝は嬉しそうな顔をした。
彼は振り返り、息子に微笑みかけた。
「小聿。今日の琴の演奏も見事であったよ」
「ありがとうございます」
父に褒められて、小聿はわずかに頬を染めた。それから、くっと小首を傾げ上目遣いで父を見る。丫角に結った髪につけられた紫水晶の髪飾りがきらりと光った。
「父上、この後お時間をいただけないでしょうか」
このように小聿が言うのは珍しい、否、初めてのことであった。
父帝は驚きながらも、もちろんだよ、と快諾した。
二人は本宮・聖亮殿の奥にある帝の私室に行った。
いつだったか、小聿が昼食の後、父帝のために琴を弾いた部屋だった。
父が首座に、小聿がその向かいに着いたところで、小聿の母である湘子妃が入ってきた。母が入ってくるのを確認すると、小聿は父に人払いを願い出る。
父帝が人払いをし、部屋に三人しかいなくなる。
小聿は、少し後ろに座した母を見た。母は、静かに座っていた。美しい顔からは何の表情も読み取れなかった。
「さて、小聿」
父は目の前に座した息子に目を向けた。
「そなたが、自らこのような場を求めるとは珍しい。一体どのような話だろうか」
問われた小聿は、小さく息を吐いた。
一度目を閉じ、心を落ち着けると、ゆるりと目を開ける。
美しいあの紫色の瞳は、紫水晶の石のようで何も映してないようだった。
小聿は、優雅な所作で長揖をし、形の良い唇を開いた。
「陛下。本日は、わたくしと母・湘子の今後について、お願いの儀がありこうしてお時間をいただいた次第でございます」
その言い方に、帝は眉を顰める。
なぜ、息子は自分を「陛下」と呼ぶのか、と。
小聿の言葉は続く。
「どうぞ、わたくしと母・湘子が、一条源家に臣籍降下することをお認めいただけないでしょうか」
「な、なん……」
予想外の言葉に、帝は驚愕する。
「待て、小聿。そなた、何をいっているのかわかっておるのか」
掠れた声で帝が尋ねると、彼は頭をあげることなく、無論でございますと静かに答えた。
「臣籍降下をするということは……そなたは朕の……」
「はい。わたくしは、陛下の臣になるということでございます」
「そ……そんなことっ、認められるわけなかろうっ!!」
帝は勢いよく立ち上がって、息子の元に駆け寄った。
そして、小さな肩に両手を置く。
「顔を上げなさいっ!小聿っ!」
小聿は顔を上げない。帝は激しく首を振った。
「冗談はよしてくれっ!お前と湘子がいなくなるなど、認められるわけないだろうっ!なにゆえ……なにゆえ、そのようなことを……っ!」
「ご存じでございましょうが、去る師走、わたくしの母・湘子は、毒の扇に触れ、生死を彷徨いました。また、これまで、この皇宮にてわたくしは何度もこの命を狙われました。わたくしを守らんがため、多くの者が傷つき、命を落とす者もおりました」
淡々と語られる現実に、小聿の肩を掴んでいた帝の手の力が緩まる。
「すまない……朕が不甲斐ないばかりに、このような……」
「いいえ……陛下は何も悪くはございませぬ。されど、こうしてわたくしがこの皇宮に身を置く限り、母の身は常に危険に晒され、また、わたくしを慕ってくれる者たちもその身を脅かされます。それは、この小聿、これ以上、甘んじるわけには参らぬのでございます」
静かな、声。
彼は続けた。
「陛下。二月の末に、処罰された魔術省の俵央茜は、星森の申し子と五大精霊の力を悪きことに使い、陛下に仇なしました。央茜がかよう暴挙に至ったは、さまざまな理由がございましょうが、その一つに、わたくしが皇宮に皇子としているがためでございます。わたくしがここにい続ける限り、第二、第三の央茜が生まれましょう。さすれば、都が、ひいては国が乱れます。さようなことは、なんとしても避けねばなりませぬ」
「……それは、わかっておる。しかし……」
小聿は息を吐いた。
「俵央茜は……央茜じいは……わたくしにとって心の拠り所でございました。そのような者に裏切られるようことを、もう、わたくしは耐えられぬのでございます。弱い、自侭ななわたくしを許せとは申しません。されど……もう、これ以上、この皇宮に在り続けることはできぬのでございます」
「いやだ…いやだ、小聿。どうか、さような悲しいことを言わないでおくれ。これまで以上に、そなたと湘子の周りの守りを固めるゆえ……危険が及ばぬよう全力を尽くすゆえ……」
帝の声は、涙に震えていた。
その声に、小聿の心はざわめく。
――――だめだ。ここで我を通さねば、同じことの繰り返しなのだ。
冷めた自分の声が心に響く。
小聿は父の元から飛びすさり、母の隣で平伏した。
「陛下。どうか、我ら母子が、一条源家に参ることを、お認めくださいませ」
「舜棐」
隣に座す、母が皇帝を呼ぶ。
「私は、権力争いの危険に晒すために、小聿を産んだわけではないのだ。愛するそなたとの間にできた小聿を慈しみ、愛し、育てるために産んだのじゃ」
母の声もまた、震えていた。
小聿は、隣に座す母の手を握った。
母の手は震えていた。
強く強く握ってもなお、震えは止まらず伝わってきた。
「………小聿っ!」
帝が空いている方の手を握ってきた。
父の手もまた、震えていた。
ゆるりと顔を上げると、父も母も泣いていた。
「小聿。本当に出ていくのか。いかないでくれぬか」
縋るような目。
小聿は知っている。
なんと言えば、この父は、自分たちが去ることを認めてくれるのかを。
――――本当は言いたくない。
弱い自分が、心の中で頼りなげにつぶやいた。
けれど。
自分が皇子であることは、国を乱すことになる。
多くの者を傷つけることになる。
――――己の私情を捨て、国のためにどうあるべきか考えなくてはなりませんからな。
あの人は、そういった。
時に、冷たく厳しくあらねばならぬのだ、と。
彼は帝の手を振り払った。
愛する息子に手を振り払われ、帝は呆然とする。
唇を噛み締めると切れてしまったのか、血の味がした。
強く強く拳を握りしめたせいで、手のひらに爪が食い込んで痛い。
小聿は母のその細い肩を抱き、真正面から父を見た。
そして、静かに言った。
「……愛しておいでなら、我らを解放してください、父上」
父が、息を飲んだのがわかった。
「わかった」
帝は静かにそう言った。
そうして、彼は妻と息子に背を向けた。
「すまぬ、小聿、湘子。許せ……」
絶望を孕んだ声で、謝罪の言葉を口にする。
小聿は髪につけた紫水晶の髪飾りを外し、静かに置いた。
それは、父が彼に贈った彼の瞳と同じ色の美しい髪飾りだった。
小聿は父の背中に、再度深く礼をすると母を伴い静かに部屋を出て行った。
それから三週間と一日。
聖国第二皇子・小聿は、東宮・東の院の庭に立ち、静かに庭を眺めていた。
折しも、桜の季節である。
美しい桜の花が月明かりに照らされていた。
ひらり、ひらりと弧を描き、白い花びらが降り注ぐ。
小聿は袂から紫水晶の髪飾りを取り出した。
それは、あの夜、礼拝堂でかの老人が彼の髪につけてくれた偽りの髪飾りだった。
紫水晶には、無数の傷が刻まれていた。
月明かりを浴びて、彼の小さな手のひらの上で紫水晶が妖しく光る。
小聿は左手で複雑な印を切り、小さな声で風の精霊に呼びかけた。
「風刃の舞」
彼の呼びかけに応じるように、鋭い無数の風の刃が現れる。
その刃は、彼の右の掌にあった紫水晶の髪飾りを粉々に砕いた。
まだ冷たい春の夜風が東の院の庭を吹き抜ける。
その風が、桜の白い花びらを、小佚の手の上で粉々になった紫水晶を、攫っていく。
風に乗って白と紫が東の院の庭を舞った。
やがて。
紫の煌めきが全て掌から離れると、彼はさやと袂を捌き、身を翻す。
胸元の翡翠の聖印が揺れて、月の光で優しく光る。
車寄せに止められた馬車に、彼が乗ると、静かに馬車は動き出す。
幼い宮を乗せた馬車は花あかりの元、静々と東宮・東の院を出て、やがて皇宮を出ていった。
そうして、聖国・第二皇子小聿の姿は徒桜の如く、聖国の東宮・東の院から消えた。
それは、桜の咲き誇る満月の夜のことだった。――――いろどりの追憶・第一巻・三百六十三頁
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これにて、「月の皇子、徒桜とならん」が終了です。
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