月の皇子の花(四)
その日も、見事な満月であった。
小聿は聖星森堂の礼拝堂にするりと入り込み、扉を閉めると、魔術で礼拝堂の入り口を硬く閉じた。
聖星森堂の礼拝堂に、小聿は一人立ち尽くす。
見上げたステンドグラスに、月明かりが差し込んで、美しい紋様が彼を覆う。
その場所は、幾夜も央茜と共に跪き、申し子と精霊に祈りを捧げた場所だった。
彼はその模様の上に立ち、先ほど受け取った央茜からの手紙を開く。
『宮さまへ
こうして、このお手紙を宮さまがお読みになっていると言うことは、もうじいは宮さまのお側にいないのでしょう。
心が弱く、愚かなじいを許せ、とは申しません。
宮さまに、国の導き手として、優しく、そして、時に厳しく、強くあれと偉そうなことを申し上げながら、じいは人々にとって信仰の導き手として、全く強い人ではありませんでした。
宮さまとの時は、このじいにとって本当にかけがえのない愛おしい時間でした。
元々いた地方から、この聖都へやってきて、辛く厳しい日々を過ごし、私は自分らしく呼吸をすることさえできなくなっていました。
しかし、五年前、宮さまがこの世にお生まれになり、宮さまと出会ったあの日から、私はこの聖都できちんと息ができる時間を持つことができました。
それは、可愛らしく清く聡く優しい宮さまと過ごす時間でした。
その美しい紫の瞳を煌めかせながら、魔術書を読むあなたさまの質問に答えるのは何よりも楽しいことでございました。
魔術をそれはそれは楽しそうに使うあなたさまを見守るのは、大変心踊ることでございました。
礼拝堂のベンチに座り、あなたさまを膝に乗せ、語らう時間は本当に幸せな時間でございました。
礼拝堂からの帰り道、二人手を繋ぎ歩くあの道は、本当に素敵な道でございました。
「央茜じい」と私を呼んで飛び込んでくる可愛いあなたさまを、この腕に抱きしめる瞬間、私は聖国一果報者だと思いました。
じいの大事な大事な宮さま。
あなたさまは、私の誇りであり、希望であり、光でした。
聡く、清く、優しい、宮さま。
あなたさまの前には、星森の申し子さまが道を示してくださっています。
五大精霊が、その道をあなたさまのために照らしております。
そのまま迷わず、真っ直ぐお進みなさい。
そうして、歩いて行った先。
あなたさまは、強く、優しい光となってこの聖国を導く者となりましょう。
それを心の底から、このじいは嬉しく、幸せに思います。
じいの可愛い可愛い宮さま。
どうか、あなたさまのこの先の日々に幸多からんことを。
2月吉日
俵央茜』
手紙と共に受け取った桐箱の中には、心の拠り所だったあの人がいつも胸に下げていた優しく光る翡翠の聖印と傷ひとつない紫水晶の髪飾りが入っていた。
――――星森の申し子よ、それに連ねたる精霊よ。
どうか、どうか。
宮さまをお守りください。
この央茜と聖国の光である小聿さまにご加護を……。
彼の優しい声が聞こえた気がした。
風の精霊に力を貸してくれと、呼びかける。小さな白い手が、複雑な印を滑らかに切る。
それは、あの優しい老人が彼に教えてくれたものだった。
「音封じ」
震える声で風の精霊に希う。
己の声を消し去る。
誰にも、気取られないように。
見られないように。
『……っは』
形の良い唇が開く。
漏れるはずの声は、精霊の力で消されている。
紫の瞳から涙がこぼれ落ちる。
『うっ……じい……じい…どうして。どうして……ひっく……』
形の良い唇が紡ぐ言葉は精霊がその音を奪い、礼拝堂に満ちることはない。
『私は…わた、し…はぁ……ひっく…じいがだいすきだったのにっ!』
溢れるはずの嗚咽は音をなさない。
『もうしごさま……しょういつは、そんなに、わるいの、ですか……?だ、から……ひっく……こんな……ばつばかり……』
ごしごしと、黒い羽織りの袖で目元を拭う。それでも、涙は次から次へと溢れてくる。
『ごめんなさい……ひっく、いいこにする……もっと、もっと……いいこにする……から……がんばるから…うっうっうっ…』
膝から崩れ落ちる。
小さな皇子の慟哭に気づく者はいない。
哀しい皇子の慟哭を知るは、星森の申し子と精霊たちだけだった。――――いろどりの追憶・第一巻・三百四十三頁




