鎮魂の笛とキンセンカの花束(一)
明けて翌日。
東宮・東の院の堅く閉ざされていた門が開かれた。
寝込んでいた小聿皇子の体調が戻り、ようやく人と会えるようになった、休んでいた学問や武術・魔術の鍛錬も再開する、と傅役の篤紫苑によって皇宮内に知らされた。
朔侑が静かにこの世を去った新月の夜から、2週間経った日のことだった。
今宵は満月であった。
身を纏う空気が冷たい。
否、痛い。
澄んだ冬の夜空に、煌々と月が輝く。
朔侑を送ったあの日の雪は、すっかり溶けてしまっていた。
病み上がりだというのに、小聿は一人東宮・東の院の真珠庭園に佇んでいた。
小聿の目の前には、可憐な薄紫色の華がいくつも咲いていた。
雨が降ったわけでも、庭師が水やりをしたわけでもないのに、なぜかその華は濡れていた。
後から後からほろほろとまるで涙をこぼすかのように、その華は雫をこぼし続けているのだ。
この華は、星泣華という。
星森の申し子と土の精霊の力で咲く魔術華で、その昔、聖国に戦乱の世が訪れた時……多くの命が失われ、嘆き悲しむ者たちが国中に溢れた。その悲しみを代弁するかのように、当代一の魔術士が咲かせたのがこの星泣華だ。星泣華は咲かせる者に星森の申し子と精霊たちの大いなる加護があると言う。そして、咲かせる者はその命を削るほどの悲しみを抱えている。抱えきれぬ悲しみを、苦しみを、共に涙を流さんとして大地に咲くのだ。
この星泣華が東の院の庭に咲くようになってから、二年以上が経つ。
わずか二歳だった小聿が、当時、いつも彼の側に居てくれた側仕えの男が小聿を庇ってその命を落とした。それは、はじめて小聿が人の死を身近に感じた出来事だった。小聿は己の身代わりとなって命を散らした男を思い、この東の院の庭で導き星の唄を歌った。その際、突然彼の目の前でこの薄紫色の華が咲いたのだった。
以来、この東の院の庭には星泣華が咲き続けている。それはつまり、この華を咲かせた小聿がその小さな胸に常に悲しみを抱えている証拠にほかならない。
庭に佇む小聿は、昨日までずっと着ていた真っ白な喪服は脱いでいた。
本来、喪に服すのは親族のみである。
けれど、東宮・東の院では小さな主に従って東の院の者全員で白い衣を着て、喪に服す。
これまでも、小聿を護るために犠牲となり命を落としてきた者は何人もいた。
はじめは、喪に服すため真っ白な喪服に身を包んでいたのは小聿のみであった。しかし、いつの間にか、東の院の者たちは仲間が命を落とすと主人と共に喪に服すようになっていた。
いつも、喪に服すと42日間は続く。
42日間というのは、星森教において死者の御霊が星森の申し子の元に辿り着くまでの日数である。
これは、この世に残った者が灯した光と導きの星に照らされた道を御霊が歩む7日間と五大精霊がそれぞれ1週間ずつ案内をする35日間の計42日間を喪に服すためだ。しかし、今回の朔侑については小聿の意向により、東の院の者たちには2週間で喪服を脱いだ。それは、彼の死を外部に一切知らせないための処置であった。
小聿は半色の上衣に紫黒色の袴と長袍に身を包んでいた。
すでに髪の丫角は解き、右側に緩く寄せて結いその結び目にいつものように紫水晶の髪飾りをつけていた。
冴え冴えと輝く月の光が、小さな皇子を照らす。
冷たい風が、彼の衣を、艶やかな髪を揺らす。
しばらく、冷たい月の光を見つめていた小聿だが、ふうと息を吐くと手に持った横笛に口をつけた。
息をゆっくり吹き込み、音階を鳴らす。
管を丁寧に息で温める。
十分に温まったところで、彼は月を見上げながら曲を奏で始めた。
凛とした笛の音が東の院に広がる。
東の院の者たちは、その音に静かに耳を傾ける。
その音にそれぞれが想いをのせる。
彼らは知っている。
あの笛の音は、小聿が命を落とした朔侑のために奏でる鎮魂の曲であるということを。
これまで、小聿を狙った殺傷事件は後を断たず、多くの者が傷つき、また命を落とした。
朔侑は、東の院で小聿が見送った三十七人目の死者である。
涙を見せぬ小さな主は、いつものように亡くなった者のために曲を贈る。
泣き叫びたい心を抑えて、彼は奏でる。
せめて笛の音に己の想いを、悲しくて、寂しくて、切なくて、仕方ないという想いを込めて吹く。
どうか、星森の申し子の元へ旅立った御霊が安らげるように、残された者たちの心が少しでも慰められるように、という想いを込めて吹く。
だからこそ、東の院の者は、鎮魂の曲を奏でているときは小聿を一人にする。
たとえ、蕗隼や汝秀や紫苑でも、小聿が死者のために鎮魂の曲を奏でているときは声をかけない。
それが、東の院の中にある暗黙のルールであった。
緩やかな曲が笛から奏でられる。
――――朔侑……
心の中で、友の名を呼ぶ。
――――すまない。私のせいで……
そなたとは、これからも共にありたかったのに。
東の院で年相応の振る舞いをさせてくれる数少ない存在であったのに。
そなたは……私の数少ない友であったのに。
高い高い悲鳴に近い音が響く。
――――答えに辿り着いたのだ。
その答えを持って、私は決着をつけ、次に歩を進めようと思う。
寒風凪ぐ。
切ない音が満ちる。
星泣華が月の光の下、煌めいた。
――――どうか、見ていてくれまいか。
この決意が揺らがぬように。
ともすれば、甘えたいという思いに揺らいでしまいそうな私が、己を律して立てるよう。
頼む……朔侑……
鎮魂の曲が終わる。
ふぅと息を吐く。
「見事な笛の音でございますな」
不意に後ろから声がかかり、小聿は閉じていた目を開け振り返った。
「央茜じい」
そこには、央茜が立っていた。
「宮さま、お加減はいかがですかな?」
央茜の問いに、小聿は柔らかく微笑む。
「おかげさまで、すっかり良いよ」
その言葉に、いえ、と央茜は言って緩やかに首を振った。
「東の院の門が2週間にわたって堅く閉ざされていたので、案じておりました。今日やっと開いたと伺い仕事を終えたので、宮さまのお顔を見たくて参りました」
「さようか。心配をかけてすまない。冬の風邪は厄介だね……ずいぶん長引いてしまった」
央茜は小聿の元に歩み寄り、ふわりとしゃがむとその細い肩を抱いた。
「ぶり返してはことです。お部屋にお戻りになられてはどうですかな?」
「いや……もう少しだけ、月を愛でたく思うのだ」
小聿が首を振ると、央茜はわかりましたと言った。
「じいの可愛い宮さまは、何を思うて笛を奏でておいでだったのですかな?ずいぶんと、悲しげな音に聞こえましたが」
何かありましたかと央茜は尋ねてきた。
「そうだろうか?」
小聿は小首を傾げた。ややあって、彼は空に浮かぶ月を見上げた。
「私はただ、この美しい月に誘われて吹いていただけだよ」
言われて央茜は空の上の月を見上げた。
小聿は空の月に手を伸ばす。
「どれだけ手を伸ばしても、手が届かないものもあるのだね……強く願っても、届かないものが」
ふむと小さく声を漏らし、央茜は小さな宮を抱き上げる。シャラリと、央茜が首から下げた聖印が小聿を抱き上げたことで小さな宮の体にあたり鳴った。
抱き上げられて、ほんの少しだけ月が近くなったような気がした。
「じいが抱きあげても無駄ですな」
困ったように笑う央茜に小聿も笑って見せた。
「時に宮さま」
「うん?」
「いつも肌身離さず持っていらっしゃる聖印が見当たりませぬが、お部屋に置いてきてしまったのですかな?」
「…………」
その問いに、小聿はしばし言葉を失う。
小聿の大切にしていた星森教の聖印は、肌身離さずいつも身につけている品だった。
その聖印は、2週間前のあの日、鏡合わせの大陸の魔術士の術により割れてしまった。
新しいものを、と思っていたがこの2週間はとにかく魔術書を読み耽る日々で気が回らずにいたのだ。
ややあって、小聿は照れくさそうに笑った。
「実はそうなのだ。笛を吹くことに頭がいっぱいで、湯浴みを済ませてから首に下げるのを忘れてしまって…」
小聿は嘘をついた。右上を見ることなく。央茜に、真実は言えないと思った。
彼の言葉に、央茜はほほほと笑った。
「なるほど、そうでしたか。宮さまでもそのようなことがあるのですな」
ふふふ、私のそそっかしい一面を央茜じいに知られてしまったね、というとさらに央茜は笑いを深めた。
「さて、もう夜も遅い。夜更かしをし過ぎるのは感心いたしませぬ。そろそろ寝ましょう。本殿までお送りします」
央茜はそう言って、小聿を下ろす。
そうして、二人は手を繋いで東の院の本殿へと歩いて行ったのだった。




