託された想い(三)
日も沈み、傅役の紫苑は東の院を辞し、己の屋敷へと戻っていった。
いい加減少しは休んでください、倒れてしまっては皇子が得たいと思っている真実には辿り着けませんよと言われ、小聿はその晩久しぶりに寝所で休んだ。かつて使っていた寝所はかたく閉じられ、小聿の寝所は新たに用意された日当たりの特に良い部屋であった。
ずいぶん疲れていたのだろう。その日は、朔侑を見送ってから初めて深く眠ることができた。そうして一晩眠ってみると、頭にモヤがかかっているような感覚が薄れているのを感じた。
簡単に朝餉をとり、小聿は再び書庫に戻ってきていた。
書庫の奥の卓の前に座し、再び、小聿は思考の海へと沈んでいた。
――――宮さまの魔術の師として、申し上げます。自らの精神力を削るような無詠唱魔術は二度と使うてはなりません。いいですね?
あれほど、央茜が無詠唱魔術を使うことを固く禁じたのはなぜなのか……
小聿を亡き者にしたいのであれば、むしろ無詠唱魔術の使用を禁じないはずだ。
「解せぬ……」
無意識に右手で白い着物の胸元の聖印を探って、ないことにハッとする。
――――そうだ……私の聖印は割れてしまったのだ。
風の刃に砕かれて粉々になった水晶が、篝火の光に照らされて煌めきながら舞い散った光景が脳裏をよぎった。
思い返して、その恐ろしさに眉を顰める。
小聿はため息をついた。
コンコンコン、と卓を左手の人差し指で叩きながら、再び考えに耽る。
あの師走の特別予算は、おそらく紫苑の指摘通り鏡合わせの大陸の魔術士を招聘するために使ったのだろう。
そして、あの3名の魔術士は小聿を亡き者にするために呼ばれた。直接魔術で小聿を攻撃をし、追い詰め、無詠唱魔術を使わせ、タリスマンを発動させることを目論んでいた。
紫水晶のタリスマンに刻まれた術式は、死に至るほど身につけている者の気を取り込み、風の精霊の力に変えてしまうものだった。
けれど、この大陸に生きる聖国の者は他者を傷つけるための術は発動できないはずなのだ。
それは、遠い昔、聖国初代皇帝・舜堯と建国の剣・源彩恩による術によるものだ。
身につけた者の気を奪い尽くす術とは、他者を傷つける術ではないのか……?
あの髪飾りに朔侑の命を奪った術式を刻んだのは、間違えなくこの聖国の魔術省長官である央茜だった。
それは小聿の目の前で紫水晶に術式を込めていたのだから間違いない。
央茜は聖国の者だ。その彼がなぜ朔侑の命を奪う術式髪飾りに込めることができたのか。
――――央茜じいは、どうやってあの術式を紫水晶に刻んだのだろう?
小聿は瞳を閉じた。
央茜が髪飾りに術をこめてくれた時のことを思い出す。
央茜は小聿から髪飾りを受け取って、小聿に背を向けた。
申し子の像の前に跪いて、手に持った紫水晶を撫で、印を切り、呼びかけの詞を唱え、風の精霊の魔術を使った。
彼がが風の精霊に呼びかけると、礼拝堂の中を一陣の風が吹いた。
その風に乗って、央茜の手からきらきらと紫色の光の粒が溢れた……
思考の糸が絡まるのを感じる。
何か……何か、自分は勘違いをしているのではないか。
央茜が髪飾りに術を込めた時、彼はなんと言っていただろうか。
――――この髪飾りは、術が込められたものとなりました。
【ジュツガ、コメラレタモノニ、ナリマシタ。】
――――ええ、可能でございますよ。術式を石に刻み込む方法があるそうです。
【アルソウデス。】
「あ……」
央茜は言った。
「術が込められたものとなりました」と。
「術式を石に刻み込む方法があるそうです」と。
もし、彼が込めたのなら、「術を込めました」と言わないだろうか。「刻み込む方法があるのです」と…。
朔侑の命を奪った術式が、あの時、央茜が刻んだものではなく、他の誰か……鏡合わせの大陸から来た魔術士たちが刻んだものであったのなら……
父帝からもらった髪飾りとタリスマンの髪飾りをすり替えていたとしたならば……
央茜の言葉と辻褄が合うのではないか。
それならば、あの時、央茜が小聿の前で髪飾りに向けて使った風の魔術は一体何だったのだろう。
ただのパフォーマンスのためと言われればそのような気もするが、小聿には央茜がもっと別の意図を持ってあの風の魔術を使ってみせたような気がしてならなかった。
小聿は桐箱に納められた紫水晶の髪飾りに視線を落とした。震える手で髪飾りを箱から出し、注意深く見る。
そうして、紫水晶に小さな小さな傷がいくつも刻まれているのを見つける。
一陣の風が央茜の手から煌めく紫色の光の粒を生んだあの情景が脳裏に閃いた。
――――傷ひとつ無い美しい紫水晶は、あなたさまに大層お似合いですから…
そう語ったあの人の声は、少し寂しげではなかったか。
「ああ……」
小聿の形の良い唇から、ため息混じりの小さな声がこぼれる。
もっと……もっと、単純な話だった。
この髪飾りは父からもらったものではない。
すり替えられた偽物。
鏡合わせの大陸から来た魔術師たちが、人の命を奪う術を刻んだ髪飾り。
あの時、央茜が使った風の魔術は紫水晶のタリスマンに無数の傷をつけるものだったのだ。
――――教えてくれていたのだ……。央茜じいは、これが偽物だ、と。私には似合わぬ、と…
小聿はタリスマンに刻まれた小さな傷をそっと撫で囁いた。
「央茜じい……見つけたよ。じいからの託けを、ね……」
月の皇子が見つけた老人からの託けは、この時彼にささやかな望みを与えた。――――いろどりの追憶・第一巻・二百八十四頁




