見送りの祈り(一)
持ち場に戻った裏門の衛兵を紫苑は懐にしまっていた酒の入った竹筒を篝火に焚べて大きくすることで目を逸らし、二人は裏門から抜け出した。
繋いでいた馬に飛び乗り闇夜に紛れて東宮へと駆け抜ける。
「紫苑……!はよう……はよう……朔侑がっ……!」
「わかっております、皇子っ!」
小聿を抱き、馬を操りながら紫苑は答える。その声はいつになく焦りが混じっていた。
さらに早めんと、彼が馬の腹をあぶみで蹴る。
振り落とされないように必死に鞍に捕まりながら、小聿は思考を巡らす。
――――無詠唱魔術を行使するとそれに反応して、髪飾りをつけている者の精神力を全て放出させる術式が込められておる…
病弱皇子が無詠唱魔術を使えば、身につけている髪飾りの術が発動して、勝手に内から爆ぜて事切れる…
その術をあの紫水晶の髪飾りに込めたのは誰だ……?
――――魔術省の者は聖国の民。舜堯らの戦魔禁断術により、小聿皇子を害する魔術は使えぬ。
だが、鏡合わせの大陸の魔術士なればその制約は受けぬ。
――――賜ったこの髪飾りは、術が込められたものとなりました。
頭に響く、心の拠り所である人の声。
「皇子!?紫苑さま!?」
驚いたような声が耳に届き、思考の海に沈んでいた小聿は我にかえる。
気がつけば、自分がいつも起居する東宮の東の院に辿り着いていた。
紫苑が操る馬が、減速しその足を止めると、ひらりと小聿は馬から飛び降りる。
「なっ…!宮さま!?どうしてこちらに?おやすみになられたのでは?」
いつになく慌てた様子で、本殿の中に駆け込んでくる小聿に汝秀が目を丸くして声をかける。
「ど、どうなっているのでございますか?先ほど、御寝所を見回りましたが寝台にいたではありませんか!」
本殿の奥に走っていく小聿を追いかけながら、蕗隼と汝秀が尋ねてくる。
その問いには答えず小聿は自分の寝所の引き戸を勢いよく開ける。戸を開けると、強い風が部屋から吹き出し小聿が中に入るのを阻む。だが、それはわずかな時間で風が止むと彼は静かに部屋へと入っていった。
そうして、部屋の中の惨状に言葉を失う。部屋の中は、まるで複数の刃物が飛び交ったあとのようだった。
中央に配された寝台の天蓋も、柱も、木張りの床も、奥の障子も、衣桁に掛けられた小聿の羽織も、そのほかの美しい数々の調度品全てが傷だらけであった。
中央に配された天蓋付きの寝台の薄い紗のカーテンを乱暴に引く。中の寝台の上に飛び乗り、横たわっている子どもに触れる。
「うそだ……頼むっ!頼む……」
寝台に横たわる自分より少し大きな人を抱きしめる。
「嫌だ……嫌だ……っ!嘘だとっ!嘘だと言っておくれ……」
虚しい嘆願が寝所を支配する闇に溶けていく。
「皇子……っ!」
追いついた紫苑が後ろから抱きしめてくる。
彼は、小聿が抱きしめる童の首に指を触れ、小さく息を吐いた。
「皇子……朔侑は……もう……」
その言葉に、小聿は激しく首を振る。
彼は腕の中の小さな人に語りかける。
「帰ってきたよ?……無理をお願いしてすまなかったね……もう、もう、いいから……だから……」
声が震える。
「おかえりなさいと言っておくれ……っ!」
紫苑に乱暴にその子から引き離される。
小聿は蕗隼に抱き上げられた。
紫苑がその子を抱き上げ、寝台から下ろすのが見える。
「明日は読書をしないでおこう」
書庫にこもって本ばかり読んでいる自分に、たまには息抜きに遊びましょうと声をかけてくれた。
「だから、一緒に遊ぼう。ほら、やろうと言っていたトランプをしよう」
トランプに描かれた模様が好きなのだ、ゲームが色々できるのも良いと言っていた。
手を伸ばす。
けれど、伸ばした手はその子に届かず空を切る。
「そなたが好きな積み将棋でも良い。……ああ、そなたの好きな曲をピアノで弾くから、歌ってくれるだろうか?」
すぐに、積んだ将棋を崩してしまっては頬を膨らませていた。
それがおかしくて、笑ってしまうのが常だった。
自分が奏でるピアノが好きだと笑っていた。
時々、調子を外す歌が可愛かった。
「朔侑っ!!」
その子どもは、とても。
とても、穏やかな寝顔をしていて。
いつも自分が寝る時と同じように、右側に黒い髪を緩く結んでいた。
その結び目に、きらり、と。
あの紫水晶が煌めいていた。
――――これは私のお守りだから。私の代わりをしてくれるそなたに預けておくよ。これを身につけ、眠っておくれ。
ああ……なんで。
何で、そんなことをしたのだろう。
――――はようお戻りくださいませね。
とても心配そうな目をして、こちらを見ていたあの子。
それに笑って頷いて、すぐに戻るといった自分。
こんな物……
こんな恐ろしい物を。
いつも一緒に遊んでくれた彼に、そばにいてくれた彼に、自分は預けてしまったのだ。
肌身離さず持てと、あの老人に言われていたのは自分なのに。
無詠唱魔術を使って、発動したであろう精神力放出の術の餌食になるべきは自分だったのに。
「私、が……私が……死ぬべきだったのにっ!」
駆けつけた侍従たちに、紫苑が何事か指示をしているのが見える。
頷いた侍従たちが、足早に出ていく。
紫苑に抱かれた彼の手足が、力なく下におりているのが見えた。
そうして、彼を抱いた紫苑が汝秀を伴って部屋を出ていく。
「殺したっ……!私がっ!」
叫ぶ。
強く強く、蕗隼に抱きしめられる。
「……私が、朔侑を……殺したんだ……っ!」
涙はこぼれない。
小聿は涙をこぼしてはいけない、と思った。
自分が、招いたことなのだから泣く資格などないのだ、と。
月のない闇夜。
光が届かぬ真っ暗な部屋で。
ただただ、小聿は震える声で己を責め続けていた。




