代償と得るものと(二)
「小聿さまの番ですよ」
楽しげに叔母と扇子を見る母を優しく見守っていた小聿は朔侑に促されて、ハッと視線を将棋盤に戻す。彼は手元の駒を一つ取り、慎重に上に載せる。その指は一切の迷いもなく、静かに駒を積んだ。
「うーん、小聿さま、お上手ですね。全く指が震えておられない」
感嘆の声を上げる朔侑に、小聿はふふふと小さく笑ってみせる。
「細かい作業は嫌いではないからね。それに最近、瞑想もしているから集中力がついてきているのかもしれない」
「瞑想?瞑想ってなんだい?」
次に積み上げる駒を手に阿清が首を傾げる。
問われて、えーと、ですね……と従兄の問いにどう答えようか思案する小聿の紫色の瞳に、白い桐箱から華奢な骨組みの扇子を丁寧に取り出しそっと広げる母の姿が映る。
「瞑想というのは……」
説明しかけて、視界の中の母が急にその柳眉を顰めたのが見えた。
母の手から、扇子が落ちる。
その扇子の扇面が不自然に赤い。
眉を顰めたまま、母が己の白い手を凝視する。小聿も吸い込まれるように、母の白い手を見る。
その手を、何かで傷つけたのか赤い血が伝い落ちる。
母が怪我したことに驚いて声を上げようとした瞬間、その母が青い顔をして己の細い首に指を這わせたのが見えた。聖都一の美貌と言われるその顔が歪む。
母の急変を目の当たりにし、小聿は息を飲んだ。
「母上っ!?」
勢いよく小聿は立ち上がる。積まれていた将棋の駒が音を立てて崩れる。
母が苦しげに倒れるのが見えた。
「湘子さま!?」
「妃殿下っ!」
控えていた女官や侍従が湘子妃の異変に慌てて駆け寄る。
小聿は急に倒れてしまった湘子に駆け寄った。
「母上!母上っ!」
「妃殿下!お気を確かにっ!」
「誰か、聖医療館に連絡を!医官を疾くこれへ!」
倒れた湘子を湘子付きの女官が抱き起こす。小聿は苦しげに顔を歪める母に縋りつく。
「母上!いかがなされましたっ?母上っ!」
「皇子!一旦こちらへ。お母上さまは大人に任せて!」
駆け寄ってきた蕗隼が小聿を抱き上げる。
「いやだっ!母上!しっかりっ!誰か……母上を助けて……!叔母上さまっ……母上が……っ」
蕗隼の腕の中で苦しむ湘子に手を伸ばしながら、叔母の清蘭に助けを求める。その叔母が不気味に笑っているのをみて、小聿は愕然とした。その笑顔は、少し前に自分を切りつけてきたあの歴史学者と同じものに彼には思えた。
「ふふふ……湘子め、小聿め……そなたら母子が消えれば、陽の皇子さまが帝位をお継ぎになり、いよいよ左相派の天下ぞ。さすれば、貴族のための、わらわのための治世はさらに安定し、その生活は豊になる。政は筒家に任せておけば良いのじゃ……」
その言葉を聞いて、小聿は激昂した。
「愚かなっ!母上を亡き者にしたとて、世の安寧が保障されるわけでも叔母上の生活が変わるわけでもないっ!今以上に豊かな暮らしとは、人を傷つけ、悲しませてまで得るべきものか!?第一、狙うならば私にすればよいではないかっ!」
「言われるまでもないっ!母者と共にあの世に行くが良いっ!」
きらり、と清蘭の握っている短剣が光っているのが見えた。息を飲む。
小聿を抱えていた蕗隼が素早く彼を自分の後ろに隠すと、襲いかかってくる清蘭からあっさり短剣を弾き飛ばし、その身を拘束する。
冷静になった小聿が周りを見回すと清蘭付きの者たちが自分に襲い掛かろうとしているのが見えた。
「皇子っ」
鋭い蕗隼の声。
小聿はショックのあまり動けずにいた。
――――叔母上が…母上を…どう…して…?
「樹の縛りっ!!」
そこに鋭い声が響く。
途端に、広間全体に魔法陣が展開され、小聿を襲おうとしていた者たちを植物の根が拘束する。
「宮さま!!ご無事でございますか!?」
魔法陣を展開し、襲撃者を拘束したのは央茜だった。
「皇子!」
「宮さま!」
「小聿さまっ!妃殿下っ!」
駆けつけてきた東の院の者たちが、混乱の収束に走り出す。
「ああ!宮さま……っ!」
央茜が小聿の元に駆け寄ってくる。
「央茜じい…母上が…母上がっ!」
央茜は強く小さな皇子を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫でございますよ……お母上さまは必ず助かります。可愛い宮さまを置いていくわけがございません」
「小聿さま、ご無事で良かった……」
駆け寄ってきた朔侑が小聿の背中をさする。
駆けつけた医官や女官、侍従たちに囲まれる真っ青な顔で苦しむ母の姿が入る。
「者ども、清蘭とその息子・阿清、およびその従者を連れて行け!」
蕗隼が東の院の者たちに命じ、彼らは東の院から連れ出される。
小聿は央茜の腕の中で震えた。
震えながら苦しむ母、連れ出される叔母やいとこ、その従者たちを呆然と見つめる。
そのうち、不意に息苦しさが襲ってくる。
母がいなくなってしまうかも知れない恐怖に震え、胸が苦しい。
酸素を求めて口を開いても、肺に酸素は届かない。
まるで、水の中にいるような。
そんな感覚。
息を吸っても吸っても、吸えている気がせず、このまま自分も息が止まってしまうのか、とふと思う。
――――――――それも……
それも、いいのかも知れない…
視界が暗転する。
「小聿さまっ!」
最後に聞こえたのは、心の拠り所である魔術の師が己を呼ぶ声だった。
小聿が倒れた原因は、母が目の前で毒殺されかけた衝撃による過呼吸の発作であった。
幼い小聿が精神的に追い詰められている現実に、東の院をはじめとする彼に関わる者たちは言葉を失った。
発作が治ってからは、小聿自身はずいぶん落ち着いている様子を見せたが、くれぐれも彼に精神的負担を負わせぬようにと太医令は周りに言って聞かせたのだった。
血のつながりなど権力や己の利権を前には意味をなさないのか。己の兄の妻子を傷つけるという代償を払って得られるものがそうまでして大切なのか。月の皇子の問いに、彼の叔母は答えることはなかった。――――いろどりの追憶・第一巻・百九十三頁




