紫水晶の髪飾り(一)
その夜。
小聿は心がざわめいてしまって、とてもではないが眠りにつける気がしなかった。
今日ぐらいは、お祈りに行くのはおやめくださいという側近たちに、どうか私の心を落ち着けるために聖星森堂へ行かせておくれと頼み込んだ。
その日も、見事な満月であった。
いつものように聖星森堂の礼拝堂に、小聿は入り込む。
あの美しいステンドグラスが月明かりで床に模様を作り出していた。
そこに、小聿は立つ。ぼんやりと今日言われたことを思い出す。
これまでも、幾度となく命を狙われてきた。
一部の人たちにとって、己は邪魔な存在なのだということも理解している。誰かにとって邪魔な存在でなどありたくはないが、こうした身の上に生まれてしまった以上、如何ともし難いことも理解している。
けれど。
――――『お前のような者がいるせいで国が二分され、乱れるのだ』
『国を乱す忌むべき皇子め!』
面と向かって憎悪の眼差しを向けられ、お前が国を乱すのだと言われ、己の存在が恐ろしくなった。
――――私は……私の存在とは……国を乱す存在なのだろうか……
そこまで考えて、小聿は愕然とする。
日々、星森の申し子に聖国の安寧を、民の幸せを祈っている己の存在自体が、その願いの障害とはなんと滑稽であることか。
薄寒さを覚え小さく身体を震わせる。
このような弱気でなんとする、心から民の幸せを願い、父帝や兄宮をいずれはお支え申し上げたいと思うのであれば、己を強くもてと心中で叱責する。
心を落ちるけように両手を胸の前で組み、いつものように祈りの言葉を捧げる。
彼の声が静謐な礼拝堂に広がる。
その祈りの声は、いつにも増して、何かに縋るような色を帯びていた。
祈りの言葉を捧げ終え、強く強く首に下げた聖印を握りしめる。
「宮さま」
ふいに声。
小聿が勢いよく振り返ると、丫角に結った髪に飾られた紫の宝石がきらりと光った。
視線の先には、人影が一つ。
「央茜じい……」
声の主の名を安堵のため息と共に口から発する。
央茜は少し歩を進めると、ふわりとしゃがみ両の腕を広げた。小聿はたまらず駆け寄り、心の拠り所である老人の胸に飛び込んだ。
「ああ……じいの可愛い宮さま。今日のことを伺いました。恐ろしゅうございましたね……」
央茜は小さな皇子を優しく抱きしめ、その背中を撫でた。腕の中の小さな皇子は震えていて、央茜の胸はちくりと痛んだ。
しばらくそうして皇子を抱きしめていた央茜は、座りましょうか、と皇子を促し、いつものように礼拝堂のベンチに座り、小さな皇子を自分の膝の上に乗せた。
「お怪我の具合は大丈夫ですか?」
央茜が気遣わしげに尋ねると、太医令がすぐに手当てしてくれたからと小聿は頷いた。
細い右腕に白い包帯が巻かれているのを見て、央茜は眉を顰める。
「お労しや。はようよくなると良いのですが」
「大丈夫だよ……」
小聿は、首を少し傾け力無く笑って見せた。
しばらく黙っていた小聿だが、ふと目線を央茜に向けた。
「襲ってきた歴史学の講師は……私の存在が国を二分し、乱しているのだと申していたのだよ。私は、皇太子の椅子もこの国の主人の椅子も望んでおらぬのに……。存在するだけで、この聖国を乱してしまうのかもしれない……」
ため息が小さな唇から溢れる。彼は礼拝堂の真正面に祀られた星森の申し子の像に目をやる。
「私は……私の願いは……この国の安寧で、皆の幸せで……。こうして日々、その祈りを星森の申し子と五大精霊に捧げていると言うのに。存在自体が忌むべきものならば、そんな私の祈りなど届きやしないのではないだろうか……」
小さな宮から語られる聞くに堪えない言葉に、央茜は激しく首を振る。
「さようなこと、ありませぬ。小聿さまの存在は、いずれこの国の光となりましょう。ご自分の存在を否定してはなりませぬ」
央茜は、膝の上の小さな宮の肩を抱いた。
「どうか、どうか、さようなことを申されますな……」
「央茜じい……」
頼りなげに揺れる紫の瞳を覗き込む。
「宮さま。じいにとって、宮さまはこの先の聖国の光なのです。それなのに宮さまご自身が否定なさっては哀しゅうございます。じいは、小聿さまにご自身の存在を否定してほしくはございませぬ。どうぞ、しないでくださいませ」
ね?と少し小首を傾げて、央茜が言うと、小聿は困ったように笑って小さく頷いた。
小聿はおもむろに左右につけた髪飾りを外した。
手の上で紫水晶がきらりと光る。
「素敵な髪飾りですな」
「うん……少し前に父上から賜ったのだよ。私のために自ら選んでくださって、つけていったらとても喜んでくださったからよくつけているのだけれど……」
小聿は、小さく息を吐いて、今日この髪飾りをつけていることが今上帝の寵愛をひけらかしていることになると言われてしまったのだ、と悲しげに言った。
「私は、父上が喜んでくれたのが嬉しくて。それでつけているだけなのに……」
「つまらぬ輩の言葉に、耳を傾ける必要はございませぬ。堂々とつけていなされ。大変似合っておいでですよ」
そうだろうか……となおも不安げな小さな皇子に、央茜は頷いた。
「では、このじいが少し魔術を刻み、これを宮さまのお守りに致しましょう」
「お守り?」
はいと央茜は微笑むと、膝の上の皇子を一度下ろし、髪飾りを貸して欲しいと言った。
小聿が素直に2つの髪飾りを渡すと、央茜はそれを持って礼拝堂の最奥に凛と立つ星森の申し子の前に歩を進めた。
そうして、いつも祈りを捧げる時のように申し子の像の前に跪く。
彼は手に持った紫水晶の髪飾りをそっと撫で、小声で呼びかけの詞を呟きながら印を組んでいく。その背中を小聿は静かに見守った。
「風刃の舞」
央茜が風の精霊に呼びかけると、礼拝堂の中を一陣の風が吹いた。
その風に乗って、央茜の手からきらきらと紫色の光の粒が溢れる。煌めく光の美しさに思わず小聿はため息をこぼした。
最後に、央茜は首に下げた翡翠の聖印と髪飾りを手に祈りを捧げる。
「星森の申し子よ、それに連ねたる精霊よ。
どうか、どうか。
宮さまをお守りください。
この央茜と聖国の光である小聿さまにご加護を……」
静かな礼拝堂に、央茜の祈りを捧げる優しい声が響いた。
「さぁ、できましたよ」
央茜は小聿の元に戻ってくると、丁寧に彼の髪に紫水晶の髪飾りをつけた。それに小聿は小さくありがとうと言った。
「この髪飾りは、術が込められたものになりました。今日のような危険に見舞われた際に、宮さまを守ってくれる術でございます。ですから今後は肌身離さずおつけください。傷ひとつ無い美しい紫水晶は、あなたさまに大層お似合いですから……」
優しい、けれど、どこか少し寂しげな声が降ってくる。
「守ってくれる……術……」
ぽつん、と小聿が呟くと、央茜は頷いた。
「そうです。精霊さまのお力が刻まれています」
「すごい……物に術式を刻むなんて‥…」
そんなことができるのかと小聿が驚いてみせると、央茜はふふふと笑って見せた。
「ええ、可能でございますよ。術式を石に刻み込む方法があるそうです」
私の知らない魔術の世界がまだまだたくさんあるということだね、と小聿は紫の瞳をきらりと煌めかせて見せた。
「術式を石に刻むことができるなんて。央茜じいはやはり聖国一の魔術士だ」
可愛い皇子の頭を央茜は優しく撫でる。
「魔術を学びはじめて年月が浅いというのに、さまざまなことができるようになった宮さまならば、あっという間にこのじいの実力を抜いてしまいますでしょう」
にっこり笑って、央茜は再びベンチに座った。寄ってきた皇子を抱き上げ、また膝に座らせる。
「間もなく師走。夜の礼拝堂は随分冷えるようになりましたなぁ」
膝の上の小さな宮の肩を左手で抱き、央茜は呼びかけの詞を口にしながら右手で印を切った。
「樹の恵み……火呼び」
二人の座るベンチのすぐ近くにある暖炉に薪がくべられ、火がぽっと入る。
パチパチと火が上り、少しずつ暖かくなってくる。
二人はしばらく黙ってはぜる暖炉の炎を眺めていた。




