消さんと思う人、護らんと思う人(三)
ピアノの稽古が終わり次の予定まで、三時間もあることに気づいた小聿はさて何をやろう、と首を傾げる。
課題の曲の譜読みを進めても良いが、最近体を動かしていないので、鈍ってしまっていないかと気になってくる。
楽典の間の棚に、楽譜を仕舞っている蕗隼の背中に声をかける。
「いかがいたしましたか、皇子」
振り返って蕗隼は優しく尋ねる。
数日前に、池に落ちた露華を助けるため無詠唱で魔術を使い倒れてしまった小聿を守れなかった咎で、罷免を覚悟していた蕗隼だったが、今も変わらずこうして側に控えている。
大切な皇子を危険な目に合わせてしまったと、その日のうちに彼は一条源家に戻って、当主の彩芝やその妻、源家の家臣団をまとめる自分の祖父や父を前に平伏し、どんな罰でも受けると言ったのだった。それに対して、彩芝は皇宮からの正式な沙汰があるまで待つように、と言った。
翌朝、再度彩芝の元に伺候すると、皇子と湘子妃の強い希望により、不問にふされ変わらず側に控えるようにと言われたのだった。
一体どんな顔をして皇子に会えばいいのだろうと不安な気持ちで東の院に来てみれば、小聿は熱に浮かされとても話せる状態ではなかった。そして三日後ようやく会えたのだが、蕗隼が謝る前に小聿に謝られてしまった。
曰く、私が自分の力量を見誤ったせいでそなたに辛い目に合わせてしまった、誰かに怒られたりしなかっただろうかというのだ。
まさかそんな心配をしていたとは思っていなかった蕗隼は、びっくりして、むしろ悪かったのは自分だ、大切なあなたさまをこんな目に合わせて申し訳なかったと平謝りした。
その後、小聿は、こんな不甲斐ない私の側にいるのは嫌ではないだろうか、私はそなたをとても頼りにしているから嫌ではなければいて欲しいのだけれども……と、あの紫の瞳を頼りなげに揺らしながら言った。それを言われて、蕗隼は涙を流しながら、小聿さまがお嫌だと仰せにならない限りこの蕗隼、あなたさまのお側におりますと誓ったのだった。言われた皇子は、ありがとう、そなたがいてくれれば私は心安らぐよ、とその美しい顔に華のような笑みを浮かべたのだった。
――――まだ四つの幼子だというのに…この方ときたら…
蕗隼はため息を禁じ得ない。
自分がこのぐらいの時分はどうであったろうと思い返せば、いつも己のことばかり考えて、楽しいことばかり追いかけていた。
両親や源家の主たち、源家に仕える他の大人たち、汝秀をはじめとする友たちに囲まれ、愛され、何不自由なく、案ずることなく過ごしてい た。将来のことなど考えずに、目の前のことだけに一生懸命でいればよかった。
自分がどれだけ恵まれているのか考えず、小さなことに不平不満を言っていたような気がする。
比べて、小聿はどうであろう。
確かに、彼は皇子として不自由に暮らしをしているかもしれない。けれど、類い稀なき才を有し、聖国の皇子であるがゆえに、その命が狙われ、周りの大人たちの期待や妬みに晒されている。
彼自身望んでもいないのに、その才と高貴な身分のせいで、大人たちの権力闘争に巻き込まれてしまっている。
わずか四つの幼子だというのに。
それなのに、そんな自分の身の上を嘆くこともなく、怒ることもなく、ただただ、静かに受け止め凛と立っている。
そして、今回のように、己を殺し、周りを気遣うのだ。
ーーーなんと…なんと哀しい幼子か…
小聿は泣かない。
蕗隼は彼が1歳で東宮・東の院に入ってから側にいるようになったが、この3年間一度も小聿が泣いたところを見たことがない。
この年頃の子どもならば当たり前にあるわがままも言わない。
危ない誰かやダメなことを叱ったり(幼子に叱られること自体どうかと思うが)することはあっても、感情のまま怒ったりもしない。
せいぜい、むすっとする程度で、それもすぐに引っ込めてしまう。
喜ぶことはあるけれど、子どものようにはしゃぐことはない。
――――もっと素直に、泣いたり喚いたり、怒ったり、喜んだり、楽しんだりしていいのに。
彼がそうしないのは、周りがそうさせないからだ。
それがわかっているが故に、蕗隼は忸怩たる思いを抱かずにはいられない。
――――俺が、俺がもっとしっかりしなくては。この方が少しでも、年頃の幼子のように、心安らかに過ごせるように。
強く蕗隼は思う。
「蕗隼?……蕗隼、聞いておるのか?」
真下から聞こえてくる声に蕗隼は我に返る。
みれば、小聿が彼の元までやってきて不思議そうに見上げていた。
丫角に結った美しい黒の絹髪に付けられた一対の紫水晶の髪飾りがきらりと光った。
「ああ、申し訳ありません、皇子」
「どうした?体調でも悪いのだろうか?」
心配そうに尋ねてくる皇子に、いいえ、なんともございませんよ、と蕗隼は言う。
「ならば良いが。無理はしないように。ところで、夕方の歴史学の講義まで随分時間がある。久しぶりに体を動かしたいのだ。剣の稽古に付き合ってはくれぬだろうか」
小聿の提案に、蕗隼は顔を顰めた。
「恐れながら、皇子はつい先日まで熱で寝込んでおいでだったのです。まだ剣の稽古で激しく動くのは早うございます。せっかく落ち着いた熱がまた上がってしまっては大変です。剣の稽古はもう少し日が経ってからにしましょう」
「しかし、あまりに体を動かしていないと、鈍ってしまいそうで……」
「お気持ちはわかりますが、また無理をして熱を出しては、朝の武術の稽古の再開が遅れてしまいますよ。もう少し我慢すれば、朝の稽古も再開できます。太医令さまもおっしゃっていたでしょう?」
無茶をしたら、また薬湯を飲ませますよと言った太医令の言葉を思い出したのだろう。小聿は渋い顔をした。そして、もう少し我慢すると頷いた。
それでは、何をしよう、と小聿は小首を傾げる。ややあって、彼はぱん!と手を叩いた。
「そうだ。嶷陽殿(皇宮内の図書館)に参りたい」
「また、嶷陽殿でございますか?東の院の書庫がありますでしょうに」
それではダメなのだよ、と小聿は言う。
「調べたいことが書庫にある本ではわからないのだ。嶷陽殿ならば、もっと多くの書物がある。私が知りたいことも調べられると思うのだ」
一体この皇子はどれほど難しい本を読むつもりなのか、と思いながらも蕗隼はわかりましたと頷いた。
「では支度をして参ります。皇子は居室でしばしお待ちください」
蕗隼の言葉に、支度とは?と皇子は首を傾げる。もう彼は今にも嶷陽殿に向けて駆け出しそうだ。
「馬車を用意して参ります。嶷陽殿の近くまで馬車で参りましょう」
「嶷陽殿ならば、歩い……」
蕗隼は首を振り、小聿の言葉を途中で止める。
「ダメです。風も随分冷たくなってきたのです。今日は馬車で参りましょう」
蕗隼に言われ、そなたは過保護すぎるのだ、と言いながらも小聿は居室へ行くため先ほどの本とノートを抱え楽典の間を出ていく。そんな彼を歩廊で控えていた侍従たちが付き従っていく。それを見送ると、蕗隼は嶷陽殿へいくための支度をしに動き始めた。
命狙われ、権力闘争に巻き込まれていたとはいえ、周りの理解ある人たち思われていたことは、月の皇子にとって何より幸せなことであったろう。――――いろどりの追憶・第一巻・百四十三頁




