消さんと思う人、護らんと思う人(二)
東宮・東の院の楽典の間に一人の男。
その男の背中に声を掛ける者があった。
「申し訳ありません。正音先生……昼餉の後、書庫に籠られるとおっしゃっていたのに呼びに参りましたら、宮さまはいらっしゃらなくて……」
声をかけられた男は振り返って微笑んだ。
「おやおや……東の院の小さなピアニストさまはどちらに行ってしまったのでしょうね。まぁ、すぐにおいでになるでしょう。ピアニストさまを呼ぶために何か弾いてみましょうか」
そう言って彼はふふふと笑う。
洋正音。彼は皇宮の抱える楽師の一人で、鏡合わせの大陸の楽器であるピアノを弾ける数少ない者であった。彼は、小聿が2つでピアノ始めた時から指導している。今日も小聿は昼食の後、正音にピアノの指導をしてもう予定であった。
この星森大陸において、他の大陸の楽器は珍しい存在だ。ピアノはその一つである。元々は、古くから星森大陸でも親しまれている楽器の一つだったが、他の大陸との交流が絶たれて次第に扱えるものが少なくなってしまった。現在では、皇宮や貴族、金銭に相当余裕のある者しか触れる機会がない。
小聿は皇宮で唯一ピアノが弾ける楽師である正音が皇宮で彼や両親のために弾いたのを見て、一瞬で虜になった。以来、彼は正音に師事している。
正音の優しいピアノの音が楽典の間に響く。緩やかな三拍子のリズムが心地よい。
彼に声をかけた東の院の主・第二皇子小聿の側仕えである汝秀は、このピアノを一人で聞くのは贅沢すぎる、一体どこへ宮さまはいったのだろうと思った。
正音の優しいピアノの音の向こうに、少し慌てたような足音がこちらへ向かってくるのが聞こえた。
「ふふふ、呼ぶのに成功したようですよ」
ピアノを弾きなが正音がいう。
足音が東の院の楽典の間の戸の前で一度止まり、それからそっと開けられる。
そうして、なるべく音を立てないように細心の注意を払いながら、東の院の主が入ってきた。
「こんにちは。東の院の小さなピアニストさま。お待ち申し上げておりましたよ」
一曲弾き終わり、頭を下げる正音に小聿は拍手をする。
「こんにちは。正音、遅れてすまない。そして、とても素敵な曲だね。向かっている途中で正音のピアノが聞こえてきて、嬉しくなったよ」
小聿がそう言うと正音はにっこり笑う。
「もう、宮さま。書庫にいらっしゃらないから焦りましたよ。どちらにおいでだったのです?」
「それは秘密だよ。遅れたことは本当にすまない」
汝秀が少し強めに言うと、小聿は困ったように微笑んだ。
「また例の秘密の場所で読書ですか。その場所は一体どこなんです?」
「それを教えたら、秘密の場所になくなってしまうだろう。誰にも教えないよ」
ふふふ、と笑って小聿は手に持っていた分厚い本とノートを置く。
「さぁ、それではお稽古を始めましょうか」
正音が優しく声をかけると、小聿はうん!と頷きピアノへと歩み寄ったのだった。
東宮・東の院の楽典の間に、軽やかなピアノの音が響いている。
小さな手が澱みなく踊るように鍵盤の上を舞う。
曲は最後に向けて次第に盛り上がりをみせる。
クライマックスで、一瞬の間。
小さなピアニストの形の良い唇から、ふっと息が吐かれ、ファの音から一気に駆け降りて……最後の和音は小さな体全部を使って弾き切った。
一曲弾き切った小さなピアニストーー東宮・東の院の主、小聿皇子はふぅと息を吐く。
「ずいぶん、テンポが安定しましたね。よく練習なさいました」
茶色の優しい色合いのグランドピアノに寄り添うように立っていた正音は、穏やかに微笑んだ。
しかし、小さなピアニストは不満げだ。
「ペダルが重くてうまく踏めぬ。私が小さいから、足台を介してペダルを踏むと一層重いのだ」
少し頬を膨らませていう小聿の背中を、男は優しく撫でた。
「体に変に力が入っているからですよ。この曲は子犬が駆け回っている様子をイメージして作られたものです。あなたさまも、共に走るのですよ」
共に走る……ポツンと呟きうなずく。
「では、後半部からもう一度」
指された楽譜の位置を確認すると、小聿は再び弾き始める。
ーーー軽やかに、まるで子犬が走るように、自分も一緒に走って…
走る自分の足がペダルを踏んで、うまく力が加わる。思い通りにダンパーが上がり、音が伸びやかに広がる。
思わず口に笑みがこぼれる。
――――犬と遊べたら、楽しそうだな…どんな気分なのだろう?
そんなことを思いながら、音を奏でる。
そして、最後のクライマックスで、まるで自分と子犬がじゃれあって草むらを転がるイメージで弾き切る。
満足に弾けて、さぁどうだ?と小聿はピアノの脇に立つ師・正音を見る。
正音は上品に笑って拍手をした。
「お見事でございます。小聿さまと可愛い子犬が楽しげに遊んでおられるのが、私にも見えましたよ」
正音の言葉に、小聿は満面の笑みを浮かべた。
「この曲は合格です。次の曲に進みましょう」
「次はなんの曲だろうか」
そうですね……と呟いて、正音は楽譜を譜面台に広げてみせる。
「こちらの曲などいかがでしょう」
紫の瞳が楽譜の上を滑り、しばらくするとふわりと笑みの形にかわる。
「分散和音の綺麗な曲だね。ポリリズムの部分が難しそうだ」
「三連符を一つ一つで捉えずに大きなフレーズで取ると流れるように弾けますよ」
ふむふむ、と小聿は頷き、彼は正音を見上げる。
「お手本に一度弾いてもらえるだろうか」
小聿のリクエストに、無論でございます、と正音は首肯した。
小聿が椅子からぴょんと飛び降りると、正音はふふふと笑い椅子の高さを調整する。
楽典の間に控えていた蕗隼がすぐに寄ってきて、小聿が使っていた足台を外し運んでいく。
正音がピアノに向かい、やがて華やかな曲が楽典の間に満ちる。師のピアノの音が好きな小聿は目を細め気持ちよさそうに耳を傾ける。
曲が終わると、彼は拍手をした。
「とても綺麗な曲だ。正音のように、私に美しく弾けるだろうか」
「できますとも。焦らず楽しみながら練習してください。来週までにここまで譜読みはできますか」
正音の示す箇所を見て、小聿は進めておこうという。聞かせていただけるのを楽しみにしていますねと言って正音は小聿に新しい楽譜を渡したのだった。
勉学も武術の鍛錬も芸事の稽古も嫌いではないが、その中でもピアノの稽古は小聿にとって何より楽しい時間だった。
たった一人で、同時に多くの音を出し豊かな表現ができるピアノは本当に楽しい。なにより、正音という優しい師と曲を作り上げていくのは幸せな時間だった。




