呼びかけの詞なくとも(二)
書庫を出て、庭に向かって歩を進める。
今日も聖都は秋晴れの空だ。お転婆な幼馴染みは東の院の真珠庭園のどこかにいるだろう。
あたりを見回すと、美しい紅葉の木の下に赤髪の少女の姿があった。
彼の視線を感じてか、少女は愛でていた紅葉からふと視線を彼に向けた。そして、その可憐な顔に花のような笑顔を浮かべる。
「小聿皇子さま。ご機嫌麗しゅう」
彼女は丁寧に揖礼をしてみせた。
「水織どの、こんにちは」
小聿も彼女に倣って、優雅な所作で揖礼をして返す。
水織と呼ばれた少女は、ふふふと笑って池の向こうの東屋を指差した。
「母と妹ならあちらにいます」
彼女の指差す方に目を向けると、真珠庭園の中央に配された池ーー月鏡池の向こうの東屋でこんこんと澪に説教をされる露華がいるのが見えた。
「妹がまた失礼なことを皇子さまに言ってしまったようで」
ごめんなさいねと水織は申し訳なさそうな顔をする。
「いや、此度は私の方が失礼なことを言ってしまったのだよ。露華どのは悪くない」
彼は書庫で何があったのかを、露華の姉である水織に話して聞かせる。
それを聞いた水織はころころと笑った。
「デリカシーがないなんて、あの子、どこでそんな言葉を覚えたのかしら。うちの侍女たちからかしら」
「露華どのから意外な言葉が飛び出して、私も驚いたよ」
正直に言うと、水織はさらに笑う。
そこへ小さな桐箱を持った蕗隼ともう一人、歳の頃なら6、7歳の少年がやってきた。
「皇子。お母上さまから頂いた飴玉をお持ちしましたよ」
「ありがとう、蕗隼」
差し出された桐箱を受け取り、小聿は隣の水織に視線を戻す。
「美味しい飴玉を母上から頂いたのだ。露華どのに謝罪するのに持って行こうと思って。水織どのも良ければ一緒に食べよう」
「まぁ、素敵なお誘いありがとうございます。ぜひ」
水織の返事に小聿は頷き、次に彼は蕗隼の隣に立っている少年に目を向けた。
「朔侑、そなたもともに」
朔侑と呼ばれた少年は嬉しそうに頷いた。
彼は、小聿と歳の近い殿上童の一人で、こうして幼い皇子の遊び相手や稽古の相手をする仕事を担っている。
もっとも、小聿の勉学や武芸、芸事の能力はすでに幼子の域を脱しており、どんな殿上童も相手はできない。彼らはたまの息抜きに、小聿が遊ぶ際の相手であった。
「毬もお持ちしました。水織さまと露華さまもおいでなのです。飴を召し上がったら、息抜きにいかがでしょうか」
朔侑の提案に、そうしよう、と小聿は微笑み、連れ立って東屋にいる露華たちの元に行く。
東屋に着くと、小聿は母に叱られすっかりしょんぼり小さくなってしまった露華に、私がいけなかったよ、ごめんね、と謝り飴玉を差し出す。
色とりどりの美しい飴玉を前に、しょんぼりしていた露華はすっかり元気になり、四人で仲良く飴玉を口に含んだ。
とっても美味しい!それに綺麗で食べてしまうのが勿体無いぐらいだわ!と言いながら上機嫌で飴を舐める露華やほっぺが落ちそうでございますね、と嬉しそうにする朔侑を小聿は目を細めて眺める。
そうして、楽しげに飴を楽しむ子どもらを、澪と蕗隼は穏やかな表情で見守っていた。
飴玉を楽しんだ後は、朔侑の提案通り四人で鞠遊びを始める。
ぽん!ぽん!と美しい鞠が子どもらの間を行ったり来たりする。
「えいっ!」
露華が勢いよく投げた鞠をひょいと小聿は受け止めると、すぐに隣の水織に優しく投げる。
水織は両手で鞠を受け止め、ふふふと微笑むとそれを朔侑に投げた。
一度、地面で跳ねて手元に来た鞠を朔侑は受け止めるとにっこり笑う。
「投げるのがお上手になりましたね、水織さま」
朔侑の言葉に水織は少し照れてみせる。
「でも、まだ地面につくことなくそこまで届かないわ。小聿皇子さまや露華はもっと上手に投げられるのに」
「それでも、朔侑のいるところまで転がらずに届くようになったのはすごいことだよ。あとはもう少し上の方に向かって投げてみるとうまく行くと思う」
小聿が優しくアドバイスをすると、上の方ですね、と水織は頷く。
そうですね、と言いながら朔侑は露華に鞠を投げてよこす。
それを受け取ると、姉さま、見てて!と元気よく彼女はいう。
「こういうふうに、少し、上の方に向かって……全身で……えいっ!」
露華が投げた鞠は彼女が狙っていた小聿の元ではなく、少し外れた木を目掛けて勢い良く飛んでいく。そして、鞠は木の幹にぶつかり跳ね返ってぽんぽんと跳ねながらあらぬ方向へと飛んでいく。
「あっ!やっちゃった!」
そう言って、露華は慌てて鞠を追いかけていく。
鞠が跳ねながら向かう先には、見事な池。
小聿は息を飲み、慌てて露華を追いかけた。
「露ちゃん!危ないっ!止まって!!」
小聿の鋭い声を聞きつけて、少し離れた場所で子どもたちを見守っていた蕗隼や澪やその他数名の皇子の侍従たちは真っ青になって二人の子どもを追いかける。
勢い良く転がる鞠は、そのまま止まることなく池にぽちゃんと落ちる。
そしてーーー
バシャン!!
激しい水音と共に、鞠を必死に追いかけていた露華が池へと落ちた。
「露華!!!」
「露華さま!」
「誰かある!篤のニの姫さまがっ!」
悲鳴に近い大人たちの声が、東の院の真珠庭園に響く。
露華が落ちた池は深い。まだ四つの露華では自力で上がってくるのは不可能だ。
真っ先に露華が落ちた池までたどり着いた小聿は、迷うことなく羽織っていた羽織りを脱ぎ捨てる。
「皇子!?」
「小聿さま!なりませぬ!」
「宮さま!!」
「誰か!皇子をお止めしろ!」
自分を制止する声に見向きもせず、小聿は勢い良く露華を追って池に飛び込んだ。
「皇子!!!」
「大変だ!皇子が池に!」
さらなる悲鳴と怒号が響く。
小聿は池の中で必死に幼馴染みの姿を探す。
見ると露華が水中で水を多分に含んだ着物を着たままジタバタともがいている。
彼は息を止めたまま、露華の元まで泳いで行き彼女の着ている羽織を脱がせ、簡易な着物と袴だけの姿にさせる。
ジタバタしていた露華と眼が合うと、ふっと薄茶色の瞳に安堵の色が浮かび、すぐに閉じられた。そうして、露華の動きがなくなる。
――――早くしなきゃ!私も露ちゃんも危ない。
古代魔術である反重力の力を使おうとして、彼女の体重も、水を含んで変わってしまった体重も、浮力のことも加味しなければならないことに愕然とする。何よりも、水中では力を貸して欲しいと冀う詞を紡ぐことができない。
――――無理だ!あの術は使えない!
そうなると、考えられる方法は先日自分を狙ってきた曲者を宙に浮かせた風の力で吹き上がる方法だ。
風の力の魔術は現代魔術で、精霊の力を借りなければならない。こちらもやはり、精霊への呼びかけの詞が必要となる。当然、水中で言葉を発することなど不可能だ。
小聿は、露華の体を抱きしめて強く瞳を閉じた。
――――うまく……うまく、いきますように……
これで失敗したら、きっと自分に魔術を教えてくれている央茜や魔くれぐれも高度な魔法は使わぬようにと言っていた父帝に怒られるだろう。
ーーーそれでも、やるしかないっ!
小聿は、キッと目を開けると、額にあたりに全意識を向ける。
左手で印を切り、頭の中に強い風が吹き上がるイメージを描く。そして、心の中で精霊に呼びかける。
小聿の紫色の瞳が、白銀に変わった。
――――風の精霊よ、私に力を貸しておくれ。
風嵐の泉!
どんっ!
と体に凄まじい衝撃が走ると共に、池を切り裂くように風の嵐が吹き上がる。
二人の子どもの体はその風に乗って池から空へ向かって飛び上がる。
ぷはっと止めていた息を吐き出し、小聿は露華を抱きしめたまま真下にいる人々に目を走らせる。
「蕗隼っっ!!!」
「皇子!!!!」
吹き上げる風の柱から飛び出し、小聿は露華と共に信頼する側近めがけて落ちていく。
蕗隼が両の手を伸ばし、落ちてくる幼子二人を抱き止めた。
「皇子さま!露華!」
「小聿皇子さま!露華さま!」
「宮さま!」
「小聿さま!露華!」
無事池から飛び出し、蕗隼の腕に収まった幼子たちの元に人々は大慌てで駆け寄る。
「露ちゃん!露ちゃんっ!!」
蕗隼の腕の中で、小聿は隣の露華の名を呼ぶ。その瞳はすでに、元の紫色に戻ってた。
すると、露華はけんけん、と咳き込んで、その後、火がついたように泣き出した。
小聿は、心底安堵の息を吐く。
「ああ……露華!よかった……」
駆け寄ってきた澪が泣きじゃくる娘を蕗隼から受け取り抱きしめる。
「よかった……意識が戻って……。水中で……目を、閉じて……しまったから、ダメか、と、思ってしまったよ……」
肩でぜえぜえと息をしながら小聿は言う。
「それだけ、泣けて、いるの……であれば、ひとまず安心だけど。聖、医療館へ……肺に、水が、入ってしまって、いたら、大変、だ、から……」
皇宮内にある医療施設へ露華を連れていくように言って。
その紫色の瞳から、力が失われる。
そのまま、ふっと目を閉じて小聿の小さな体から力が抜ける。
「小聿さま!!」
「皇子!」
「たれか!太医令を呼んで参れ!」
大人たちの声が満ちる。
――――ああ、これは失敗していなくても、怒られてしまいそうだ。
意識を手放す直前に、小聿はぼんやり思ったのだった。
精霊たちに力を貸してほしいと希う詞を口にすることなくその力を行使することの意味を月の皇子はこの時まだ理解していなかった――――いろどりの追憶・第一巻・百七頁




