呼びかけの詞なくとも(一)
東宮・東の院の真珠庭園を吹き抜ける秋風もずいぶん涼しくなった。
その日小聿は午後に予定していた経済学の講義が夜になってしまったため、お気に入りの書庫でいつものように本を読むことにした。
――――そういえば、先週紹介された本を読んでおけば、今日の夜の講義はそれについて議論ができるかも知れない。
ふと、思いつきその本は書庫にあったろうか、と首を傾げる。
「あるとしたら……」
項目別に綺麗に並べられた書架の間を縫うように歩き、経済学の本が収められた書架の前までやってくる。
彼の手が届く範囲の本をざっと見るが、教えられた本は見当たらなかった。
「もっと上かな……」
小首を傾げ、彼は手で印を結び、額にイメージを集中する。何者かに囁くように、語りかけるように、言葉を紡ぐ。
――――浮かび上がりたいのは、1.5m程度。私の体重は14kgだから……
頭の中で瞬時に計算をする。
――――これぐらいの範囲で足元に、反重力の力を……
「重力反転」
タンっと足元の床に左手をつくと、小さな魔法陣が浮かび上がり彼の体はふわりと浮く。
希望通りの高さまで浮かび上がると、小聿はその形の良い唇に笑みを浮かべる。
「えーと…教えられた本は…」
上から順に本の題目を眺めていく。
――――と。
「あーー!小聿皇子さま、また飛んでるー!」
ふいにすぐ近くで子どもの声がして、彼はぎょっとした。
体を浮かせるのに割いていた精神力が霧散し、足元に浮かび上がった魔法陣がふっと消える。
「わっ!あ……わわわわっ!」
急に反重力の力が失われ、浮いていた体が落下する。
「危ないっ!」
鋭い声と共に、落ちてきた小聿を誰かが抱き止める。
思わず閉じてしまった瞳を恐る恐る開けると、彼は側仕えの蕗隼に抱き止められていた。小聿はほぅ、と小さく息を吐く。
「皇子!お怪我はありませんか!?」
慌てた様子で彼を案じる側近に、小聿は大事ないよ、ありがとうと礼を言う。
そして、突然彼に声をかけ、反重力魔術を霧散させる原因を作った犯人の方に視線を向ける。
目が合うと、犯人は気まずそうにその薄茶色の瞳をそらした。
「ご……ごめんなさい……」
薄茶の瞳に鮮やかな赤い髪をした歳の頃なら4、5歳の少女は小さな声で謝った。
小聿は小さくため息をつく。
「露ちゃん……ダメだよ。あれほど、魔術を使っているときに急に声をかけないでと言っているのに……」
露ちゃんと呼ばれた少女は、でも……だって……いいなぁと思ったから……とぶつぶつと言い訳を言う。
そこに足音と衣擦れの音。
現れたのは、小聿皇子の乳母であり傅役の篤紫苑の妻、澪であった。
「まぁ、露華!また、皇子さまの邪魔をしたのね?ダメだと言ってるでしょう!」
「母さま……」
「皇子さまに何かあったらどうするのです?大変なことなのですよ!」
母親に怒られた少女、篤紫苑と澪の二の姫・露華はしゅん、と小さくなってごめんなさい、と謝罪の言葉を口にした。
「露華ったら……本当に困った子。皇子さま、娘が大変なご迷惑を……」
澪は揖礼をし、深々と頭を下げた。
小聿は蕗隼の腕の中から抜け出して、大丈夫だよ、私はなんともなかったから、どうか気にしないでほしいと微笑んだ。それから、彼は母の隣でしょんぼりしている露華に目をむける。
「露ちゃんも、そんなに気にしないで。でも、これからは気をつけてほしいな。私の魔術はまだまだ未熟で、驚かされると失敗してしまうんだ」
小聿が優しく声をかけると、露華は「はぁい」と返事をする。
「こら、露華。皇子さまになんて口を聞くのです。はぁい、ではなくて承知いたしました、でしょう?」
再び母親に怒られて、露華は唇を尖らせる。
「えー、だって普通にお話ししてねって小聿皇子さまが言ったのよ?」
「ダメです」
目を三角にして澪は娘を叱る。
「いや、澪。いいのだよ。私も同い年の露華どのとは普通にお話ししたいのだ。私の願いだと思って、どうか許してくれまいか」
そんな澪に小聿が言うと、澪は少し困った顔をしたが、ややあって、わかりました、と頷いた。
「でも、露華。乱暴な言葉はいけませんよ。いいですね?」
「はい、母さま!」
元気に返事をする乳母子の様子を目を細めて眺めていた小聿は、ふと、彼女の言葉を思い出す。
「そういえば、飛ぶのがいいな、と言っていたね。露ちゃんは飛んでみたいの?」
小聿の問いに、露華は大きく頷く。
「うん!だって、魔術で飛ぶなんてとってもすごいわ。そんなことできる人見たことないもの。露華も飛んでみたい!」
「飛ぶ、というと自由に空中を飛び回るイメージだけど……それは私にはできないな。でも、さっきみたいに浮き上がることはできるよ」
浮いてみる?と尋ねると、露華はその瞳をキラキラと輝かせた。
「本当に!?露華、浮いてみたい!ふんわり浮かび上がるなんて、どんな気分かしら?」
そんな彼女の様子にふふふ、と小聿は笑う。
彼は愛らしい乳母子に手を差し出す。露華は満面の笑みで彼の手を取った。
「そしたら、反重力の計算をしたいから……露ちゃん、体重何キロかな?私が14kgだからそれと合計して、そこから……浮き上がり……たいだけの高さ、と一緒に、計算を……」
みるみる表情が険しくなる幼馴染みを見て、小聿の質問は尻すぼみになる。
「露ちゃん?あの、どうし……」
露華は急に頬を膨らませ、繋いでいた手を乱暴に振り解いた。小聿はその紫の瞳をぱちくりと瞬かせる。
「女の子に体重を尋ねるなんて、さいってい!」
「え、だって、体重がわからないと計算できないから……」
「そういうのでりかしーがない、って言うのよ!小聿皇子さまのばーか!」
「これ!露華!言っているそばから、皇子さまに向かってなんて口を!!」
再び澪が目を三角にして露華を叱りつけるが、露華は意に介していないようだった。
ふんっ!と鼻息荒く、書庫を飛び出していく。それを澪が待ちなさい!と追いかけていく。
そんな彼女らを追いかけられずに、小聿は呆然とする。ややあって、彼は隣にいる蕗隼に目を向ける。蕗隼は顔を下に向け、肩を震わせている。どうやら笑いを堪えているようだ。
「私は、そんなにまずいことを言っただろうか?」
「ふふ……そうですね。レディに体重と年齢を聞くのは御法度です。小聿さまも、そうしたレディの機微にはまだまだ疎うございますね」
その言葉に、小聿は困ったような顔をする。
「……む、難しいな。さようなことは本には書いておらぬゆえ」
その返答に、蕗隼は笑みを深めた。
「ええ。そうしたことは人との関わりの中で学んでいくことです。これから小聿さまが多くの人と関わる中で学べば良いのです。今日はいい学びになりましたね。ほとぼりが覚めた頃に、露華さまに謝ってはいかがでしょう」
十以上離れた頼りになる側近の言葉に、小聿は素直に頷いた。
「そうするとしよう。そうだ、一昨日母上から頂いた飴玉があっただろう。あれを持って謝りに行こうと思うが、どうであろう?」
良き考えかと、すぐにお持ちしますねと蕗隼は微笑む。それに微笑み返して、小聿は露華たちの去っていった方へと駆けて行った。




