初の呼ばれ(二)
久しぶりにやってきた小聿は少し体力は落ちていたものの、それでも身につけた型や動き方、そもそも鋭く速かった剣裁きに磨きがかかっていた。
とはいうものの、子斉相手ではまだまだで、再び木刀を弾き飛ばされてしまった。
小聿は先日と同じようにとぼとぼと飛んでいってしまった木刀を拾いにいく。そして、子斉の隣にちょこんと座る。
「お前、まだまだだなぁ」
と笑いながら言ってやると、びくりと肩を振るわせる。さらりとその絹のような黒髪が揺れるのが見えた。
小聿はチラリとこちらを見て、困ったような顔をする。
「精進します……」
見取り稽古の時、小聿はとても集中してみている。その集中力やかなりのもので、とても幼子のそれとは思えなかった。ただ、稽古が終わるとただの綺麗なお人形のようになる。ちょこんと座ったさまは、本当に愛らしく、声かけるとビクビクして見せる。
――――びくびくしていて、綺麗なお人形、黒い艶々の髪……
「まるでムゥムゥだな」
「え?」
思わず呟くと、隣に座っていた小聿が不思議そうな顔をする。子斉はニヤリと笑った。
「よし、今日からお前はムゥムゥだ」
「ムゥムゥ?」
聞きなれない言葉に小聿は小首を傾げる。きょとんとした顔で子斉を見つめる。
「お前さ、ビクビクしてて、ふわふわの綺麗なお人形みたいでさ。おまけに髪も黒いだろ?だから、ムゥムゥだ」
「……は?」
間の抜けた声を発する小聿を見ながら、子斉はくくくと笑う。
以来、子斉は小聿を「ムゥムゥ」と呼ぶようになった。小聿はなぜそう呼ばれのかわからないまま、返事をするのだった。
「ムゥムゥ……ムゥムゥ?」
ムゥムゥとは一体なんだと小聿は首を傾げる。
最近、この呼ばれ方にすっかり慣れてしまっているが、なぜそう呼ばれるのかわからずじまいだ。
その日、必修の他大陸言語の授業で、つい苦手意識のある小聿は珍しく眉間に皺を寄せていた。
――――きちんと学べば、読める文献も増えるのだからちゃんと学ばなくては……。
そうは思うもののつい意識もそぞろになってしまう。
テキストにラインを引き、さらさらとノートに板書を写していると不意に耳に気になる言葉が飛び込んでくる。
「mou …まぁここでは、やわらかい、ふわふわなどと訳せば良いだろう」
教授の言葉に、小聿の紫の瞳が見開かれる。
――――やわらかい?ふわふわ?
板書を写す手をとめ、辞書を引く。
『やわらかい、張りのない、ふわふわの、軟弱な――』
――――えぇ……軟弱……?私はふわふわの軟弱者ということか……
思わず紫の瞳を半眼にする。
――――いや、まさかそんな……失礼な意味ではないと思いたい。
これは子斉本人に尋ねた方がよさそうだ。今日道場で会ったら聞いてみようと小聿は決意した。
そしてその日の道場で小聿は勇気を出して、なぜ自分をムゥムゥと呼ぶのかと子斉に尋ねた。
すると、子斉はケラケラ笑って答えた。
「お前はよく似てるんだよ、うちのムゥムゥに。そうだ、今度うちに見にこいよ!見れば納得するさ」
「え?」
まさか家に招待されるとは思っていなかったのだろう。小聿は驚いたような顔をする。誘った子斉も、勢いで口をついてしまったようで慌てて口に手を当てた。
――――なんで、俺、こいつを家に誘ってんだよ。
自分でもなぜこの幼子を誘ったのかわからず戸惑う。
「あー、いや、すまん、急に誘われて驚いたよな。別に無理してこ……」
「伺いますっ」
慌てて取り繕う言うと、言い切る前に思ったよりも食い気味の答えが返ってきた。
行くと言った小聿は、少し照れたようにその瞳を伏せた。
「その……伺って宜しければ……ぜひ。そのムゥムゥとやらも気になりますので……」
「いいぜ。そしたら、次の日曜日はどうだ?」
「はい」
子斉の言葉に小聿は小さく頷いたのだった。
――――「今度うちに見にこいよ」
何気ない子斉の誘いに思わず行くと言ってしまった。だが、今になってそれでよかったのだろうかと小聿は悩んでいた。
「ちょっと、小聿っ!小聿ってば!」
大きな声で呼ばれて小聿は我に返る。
庭の紅葉から慌てて視線を部屋の中に戻すと、すぐそばに紅葉と同じ髪色の少女がこちらを睨んでいた。
「あ……あぁ、露ちゃん。なんだろうか?」
「なんだろうか、じゃないわ。せっかく遊びにきたのにずっとだんまり。お庭をぼーっと眺めて難しい顔してるんだもの」
「すまない……少し考えごとを……」
正直に答えると、赤髪の少女――篤露華はわざとらしくため息をついた。
「また考えごと?小聿って、いっつも小さなこと悩んでいるわよね。そんなに悩んでばかりいたら、顔に皺がたくさんできてあっという間にシワシワのおじいちゃんみたいになっちゃうよ!」
「し……しわ……」
思わず顔を顰めると、ほら!その顔!と露華は小聿の鼻頭に指を突きつけて言う。
「こらっ!露華っ!」
そんな彼女を強く諌める声がする。
小聿と露華が揃って声の方を見ると、露華と同じ赤髪の男が目を三角にして立っていた。
「あ……父さま」
「小聿さまになんて失礼なことをっ!謝りなさい!」
父に言われて、露華はでも……だってぇ……小聿が……と言い訳をはじめる。
「だからっ!小聿、ではなく、小聿さまとお呼びするようにあれほど言っているだろう!?」
「えー!だって、もう小聿は皇子さま辞めちゃったんでしょう?小聿だって、小聿と呼んでねと言っていたのよ!」
「ダメなものはダメだ!それから、座り方も気をつけなさい。裳がぐしゃぐしゃではないか!」
露華の元に寄ると彼女の父――紫苑は呆れ返った顔で娘の乱れた服を直す。
「あーあー……。聞いて、小聿。母さまが生まれた赤子にかかりきりで寂しいのからって、父さまが前にも増してうるさいの」
「ちがーう!寂しいからではない!篤家の者として、最低限のことを守りなさいと言っているだけだ」
少し語気をを強めて紫苑が言うと、露華は盛大にため息をついて見せた。
「そんなに細かいこと気にしてばかりいたら、父さまもあっという間にシワだらけになってしまうわ!そしたら、小聿と父さまシワシワコンビね!」
『シ……シワシワコンビ……』
顔を見合わせ二人は呟く。その隙に露華は立ち上がるとケラケラ笑いながら部屋を飛び出していく。
「こら!露華!小聿さまと父はけっしてシワシワコンビにならんぞ!」
紫苑は慌てて立ち上がり、小聿に娘が本当に申し訳ございませんと頭を垂れる。その後足早に逃げた露華を追っていった。相変わらず賑やかな篤親子の様子に小聿はしばらく呆気に取られていたが、部屋の扉の前から鈴を転がしたような笑い声が聞こえてハッとする。
見るとそこには、歳の頃なら七、八歳の愛らしい少女の姿。
「水織どの……」
呼ばれた少女は、丁寧な所作で揖礼してみせた。
「ご機嫌麗しゅう、小聿さま」
小聿も胸の前で両の手を組み、小さく頭を下げる。
彼が座るように促すと、水織はにっこり微笑んで彼のすぐそばに座した。
「相変わらず、露華が失礼でごめんなさいね」
小聿は小さく笑い、大丈夫だよと答える。
「いや……私こそ、露ちゃんが呼んでいるのに考えごとをして返事をしなかったから」
考えごとと聞いて、水織は少し心配そうな顔をした。
「何か悩んでおいでなのですか?」
「……大したことではないよ」
小聿がそう答えると、水織は小さく首を傾げる。赤い髪に刺した花の簪がゆらゆらと揺れた。
「よろしければ、お話しくださいませんか。些細なことでも、口にすれば悩みは軽くなるものですよ」
これは私の祖母の受け売りなのですけど、と言って水織はふふふと笑って見せた。その笑顔に釣られて、小聿も小さく笑う。
「実はね。秋口から通い始めた靭刃流の道場でお世話になっている方から、お屋敷に招待されてね」
「まぁ、素敵なお話ですね。それで、何を悩んでいらっしゃるのですか?」
うーん、うん……と小聿はその柳眉をハの字にする。
「招待された時、思わず伺うと答えてしまったのだが、果たしてそれで良かったのかと……」
「小聿さまはその方の元へ行きたくないのですか」
「そういうわけでは……ない……が……」
歯切れの悪い返事を返し、小聿はしばし黙り込む。水織は、無理に先を促すことはなく小聿が口を開くのを待っていた。
「お誘いを受けたとき、嬉しくはあったのだよ」
「はい。小聿さまは、その方と仲良くしたいのですね。だから、お誘いを受けて嬉しかったのですね」
「仲良く……?」
水織はニコニコしながら頷いた。
「そうです。小聿さまの新しいお友だちですね」
「お友だち……」
呟いて小聿はぎゅっと両手の拳を握りしめた。「友」と言う言葉に、ちくりとした感傷が広がった。
その手にそっと水織が手を重ねる。
「大丈夫。朔侑もきっと小聿さまに新しいお友だちができて喜んでいます」
胸に広がった感傷の正体を言い当てられて、小聿は小さく息を吐いた。
今は亡き友・殿上童の朔侑の笑顔がふと脳裏に浮かび、胸が締めつけられた。
「そう……だろうか?」
「ええ。私も嬉しいです。小聿さまに新しいお友だちができたこと」
いつか私にもその方を紹介してくださいねと水織は続ける。
「うん、そうだね。とても明るく、まっすぐな方なのだよ」
そこまで言って、あ……と小聿が声を上げる。どうしました?と首を傾げる水織に、先日思ったことを言う。
「いやね……その方――子斉どのとおっしゃるのだけれども。とてもまっすぐで、ご自分の感情を素直に出すのだ。それが誰かに似ていると思ったのだけど……」
それを聞いて水織はころころと笑った。
「ああ、露華ですね。ふふ、あの子も思ったことをすぐに口に出すから」
「それが、露ちゃんの魅力だと思う。私はそれが苦手だから羨ましくある」
「私は小聿さまの思慮深いところ、素敵だと思いますよ」
素敵だと言われ、小聿はその白い頬をわずかに染める。
「ありがとう。そなたに話して良かった。明日、楽しんでこようと思う」
「はい、いってらっしゃいませ」
紅色の瞳をふわりと細めて水織は言う。
それに小聿は小さく頷いたのだった。
水織と話をする中で、失った友を思い新たに他者と親しくすることにどこかで罪悪感を持っていたことに小聿は気づく。彼女は、こうした小聿自身が自覚できない機微を察してくれる。優しく心の内を紐解いて、寄り添ってくれる彼女の存在を小聿は改めてありがたく感じたのだった。――――いろどりの追憶・第三巻・百十一頁




