初のお呼ばれ(一)
11月半ばから熱が上がったり下がったりを繰り返すようになった。
特に夕方以降、熱が上がってしまう。
秀英院は1限100分授業で、午前に2コマ、午後に最大5コマの講義があり、最終講義の終了が22:00となっている。7限が終わり、帰宅して食事と湯浴みを済ませるともう24時近くになっており、小聿はへとへとになってしまっていた。
空きコマは図書館で大体課題に追われておりほぼ休みはない。自分で選択したとはいえ、総合学部は授業数がとても多く、とんでもなく多忙だった。無論、毎日7限まで入れているわけではないが、1−7限まで入っている曜日は最後の講義は目の下が痙攣していることがあったりする。
東の院にいた頃から変わらぬ虚弱体質が恨めしい。
おかげで剣術の道場も弓術の道場もいけずにいる。大学のほうは、辛うじて日中熱がなければ出ているが、夕方の講義の途中で熱が上がってきてくらくらしてしまうことが頻発していた。
ただ、この体調不良は悪いことばかりではなかった。
幼い小聿が無理をして講義に出ているのを見かねた人物が以来たびたび彼を気遣ってくれるようになり、いつの間にか一緒に過ごす時間が増えたのだ。小聿にとって、大学内ではじめて講義以外の場所で会話をする人物ができたのである。
はじめてその人物に声をかけられたのは、行政学の講義だった。夕方の講義で、微熱が出ていた小聿は頭痛と闘いながら講義を聞いていた。すると、隣にたまたま座っていた年のころなら20半ばの男性が小声で声をかけてきたのだ。
「源家の若君どのですね?お水はお持ちですか」
怪訝に思いながらも頷くと、その男は淡く微笑んで、これをどうぞ、あなたさまの体の大きさなら半錠でちょうどいいぐらいでしょうといって薬を渡してくれたのだ。
「怪しい薬ではありませんので安心してください。とは言っても、知らない者のからの薬は飲みにくいでしょうか……。わたくしは繹杏莆と申します。あなたのおじいさまの源彩芝どのの部下であり、篤紫苑の友です」
祖父や信頼する元傅役の名前、そしてなによりその穏やかな雰囲気に安心感を覚え、普段は人に対してとことん警戒する小聿が珍しく杏莆のくれた薬を素直に飲んだ。
小聿が薬を飲むと、杏莆はあと講義は半刻ほどです、でも無理はなさらずにといって羽織っていた羽織を優しく小聿の肩にかけてくれた。そうして、講義が終わった後、小聿を側仕えの二人の元へ連れて行ってくれて、丁寧に挨拶すると去っていったのだった。
祖父の部下だといった彼のことを小聿が帰宅して祖父に話すと、彼は司法院でも注目の官僚の一人で20代でありながらすでに官房を持った正二位の司法官だという。秀英院の司法学研究科の博士後期課程を出ており、現在は新たに行政学と経済学を学ばんと、仕事をしながら母校の秀英院の政治経済学部に入り直し勉学にも励んでいるのだと教えてくれた。宮で司法官として働きながら、秀英院にも通っているとはすごい人だと小聿は驚いたのだった。
以来、同じ授業では二人は隣に並んで講義を聞くようになった。親子ほど離れた二人だが、杏莆は小聿を学友として対等に接してくれた。そうして、いつの間にか小聿の隣にいることが多くなった。杏莆は決して押しが強いわけではない。必要以上に他者と関わることに後ろめたさや怖さを抱える小聿にとって、杏莆が持つ他者との距離感は心地よいものであった。
「小聿くん、今日の体調はいかがですか」
その日、4限の授業で合流するなり、杏莆は体調を聞いてきた。相変わらずの体の弱さに、杏莆は大層心配しているようであった。
「杏莆兄、こんにちは」
小聿は隣に座った杏莆に挨拶を返す。
「おかげさまで、ここ数日は熱も出ておりません。やっと落ち着いてきました。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「それはよかった。でも、くれぐれも無理は禁物ですよ?」
杏莆の言葉に、小聿は素直に頷く。それから、カバンの中からファイルを取り出し、杏莆に渡す。
「昨日の4限にあった論文輪読会のレジュメです。杏莆兄の分ももらってきました」
「ああ、ありがとうございます。助かります」
杏莆は穏やかに微笑んだ。さらりと頬にかかった灰色の髪を左耳にかけると、きらりとイヤーカフが光るのが見えた。
昨日の4限の授業は、杏莆はどうしても外せない会議が入ってしまったようで欠席をしていた。そのため、小聿は彼の分のレジュメももらってきていたのだった。
「昨日の輪読会はどうでした?」
「そうですね。そもそもの研究目的から研究課題が少し外れているのではないかという話がやはり出てきました」
えーと……と自分の分のレジュメと論文のコピーを見ながら小聿は昨日の話をする。それに杏莆は耳を傾け、ああ、なるほど……と頷く。こうして二人、読んだ本や論文について話すことも出てきて楽しい。
入学式で「同じ理念を持った仲間と出会う。その仲間と対話を重ねお互いを高め合う」と言いつつ、自分には無理だと思っていた。だが、こうして杏莆に出会いそれができていることに小聿は幸せを覚えた。
4限の授業が終わり、二人並んで講堂を出る。
相変わらず小聿は注目されるが、それでも隣に杏莆がいるのでずいぶん気持ちは楽だった。
講堂の前は蕗隼と汝秀、そして、繹家の家人たちが一緒に待っていた。二人が一緒に行動するようになって、家人同士もこうして一緒にいることが出てきた。
「今日はもうご帰宅ですか?」
杏莆に尋ねられて、小聿は静かに首を振る。
「いえ、今日は久しぶりに剣術の道場の方へ」
「そうですか。頑張ってくださいね」
「はい。杏莆兄はもう授業は終わりですか?」
「ええ、ですが宮に戻らねばなりません。仕事が残っているのです。社会人学生の辛いところです」
「尊敬します。本当に、杏莆兄はすごい」
ふふふと笑ってそれではまたと揖礼すると杏莆は家人たちと共に自分の家の車へと向かっていった。それを見送り、小聿は蕗隼たちと共に自分の車まで歩いていく。
「今日は久しぶりに道場ですね。ですが、くれぐれも無理はなさいませんように」
「うん」
蕗隼の言葉に、小聿は頷く。
車に乗り込み、小聿は早速先ほどの講義で配られた論文のコピーを読み始める。こうした車の中でも、勉強のための貴重な時間だ。そこまでしないと秀英院の授業についてはいけなかった。
道場に着き、支度を済ませるとすでに稽古開始10分前だった。慌てて師範たちの元へ行くと、もう体調はいいのか、無理はするなよと心配された。それに、ご心配をおかけしました、また今日からよろしくお願い致しますと話していると、なんだ、やっときたのか、と後ろから声がした。
声のした方に目をやると、そこには子斉が立っていた。
「子斉どの、こんにちは」
「おう……その、熱はもう大丈夫なのか?」
彼に体調を尋ねられたことが意外だった小聿は目を瞬かせたが、ややあって綺麗な顔にふわりと笑顔を浮かべる。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
「別に心配なんてしてねーし。それよか、久しぶりでまたヘタレに戻ってないだろうな?」
棘のある言葉に小聿は苦笑いをする。
「多少鈍っていることは否めません。また鍛えて頂けると助かります」
「……まぁ、暇な時に付き合ってやるよ」
ぷいと視線を外しつつ子斉は言う。それから慌てたように、あんまり期待するなよな、俺だって自分のことで忙しいんだからさーと付け加えた。つっけんどんな態度をとりつつも、何だかんだ彼は小聿を気にしてくれているようだった。それに気がついて、小聿は口元に淡い笑みを浮かべたのだった。




