剣の兄弟子(一)
聖都は秋を迎えていた。
少しずつ空気が冷たくなり、人々が纏う衣も秋らしい色へと変わる。
収穫の時を迎え、大地は黄金に染まる。
人々は恵みをもたらす申し子と精霊らに感謝の祈りを捧げ、その恵みを大いに享受する。
そこここで、民は豊かな実りを前に歓声を上げ、手を叩き、祝杯をあげる。
大人らの悦ぶ声に、子どもらも飛び跳ねて喜んで見せる。
この実りに悦ぶ秋の先には、星森大陸の中央部から北は寒さ厳しい冬が来る。
聖国の民は実りに欣喜雀躍すると共に、来る冬に着々と備えを整えるのであった。
一条の西にある源家の書庫の窓をそっと開けると、ふわりと金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
その甘い香りに、漆黒の髪を丫角に結い上げた幼子――源小聿はその紫色の目を細めた。
開けた窓の目の前には立派な金木犀の木。
今年も西に植えてある金木犀がたくさん花をつけましたと家人らが言っていたので、その香りを楽しみたくて書庫へ来た。花の香りに包まれながら本の海に揺蕩うのは何よりも彼にとって贅沢な時間だ。
孤り、静かに、誰もいない場所で――――
少し強い風が吹いて、金木犀の香りが弥がうえにも強くなる。
目の前の卓の上に広げたお気に入りの本の頁が捲れる。
慌てて手で押さえると、目に入ったのは何度も読み返した歴史書のあの一節。
建国の祖・舜堯とその弟・彩恩の固い絆を著したその一文は、彼がとても気に入っている一節だった。
背中を預け合えるその存在を噛み締める一節。
――――【互いの欠落を補い、共に歩む者こそが、独りでは決して届かぬ最も遠き地平、即ち『万民の安寧』へと辿り着く唯一の道なり】
互いの欠落を補い、共に歩む者こそが、最も遠き地平へと辿り着く――。若き賢者たちが背中を預け合い、万民の安寧を願ったというその一節を、小聿は指先でそっとなぞった。
――――私が……私の背中を預けられるのは……
ゆらりと。
その一節を眺める小聿の紫色の瞳が揺れる。
小さく息を吐き、本を閉じる。
本の上に頭を乗せ、瞳を閉じる。
――――いつか。背中を預けてもらえるだろうか。背中を預けられるだろうか……そのような日が私に訪れるだろうか……
金木犀の香りに身を預けながらぼんやりと思う。
そこへ側仕えの青年らがそろそろ出かける時間ですと彼を呼びに来た。それにより、彼は感傷的な物思いを断ち、努めて明るい声音で今行くよと返事をしたのだった。
星森大陸を治める聖国には、古くから伝わる剣術の流派がいくつも存在する。
その中でも、二大流派と言われるのが靭刃流と昇刃流である。
その靭刃流の道場の門を潜るのは歳の頃なら十二、三の少年。
濃紺の髪と同じ色の瞳。
しなやかな体躯。
意志の強そうな眉は彼が裏表のない人柄を表しているかのようだ。
彼はこの道場で剣術を学ぶ武官候補の少年である。
少年はいつものように誰よりも早く道場に着いた。そして、まずは掃除からだと着ていた着物の袖を上げるため襷掛けをしながら水場に向かう。襷掛けを済ませ、たらいに水をはって雑巾と共に持っていこうとするが、いつも使っているたらいも雑巾もそこにはなかった。
「れ?」
小首を傾げる。
誰かが別の場所に置いてしまったのだろうか。一昨日来た時には、確かにここにしまってから帰宅したのに。
釈然としないまま、少年は師範を探すため母屋に足を運ぶ。
しかし、いつもこの時間には母屋でくつろいでいる師範も師範代の姿もいなかった。
「んー?」
眉を寄せ、腕を組みながら道場に足を運ぶ。
すると、道場の入り口にいつも使っているたらいと雑巾が置かれていた。
雑巾はすでに濡れており、それは今日の道場の掃除は終わっていることを示していた。
――――師匠や先生たちが掃除したのか?
珍しいこともあるもんだ、どう言うことだろうと思いながら、少年は道場の引き戸を開けた。
その戸の向こうで彼が見たのは――
道場の中央に、二つの人影。
一つは少年が敬愛してやまないこの道場の師範。
もう一つは、小さな小さな人影。
さわっ、と秋風が道場を吹き抜けて行く。
師範の目の前に立つ小さな人影――歳の頃なら5、6歳の幼子の艶やかな黒髪がサラサラと揺れる。
節目がちの瞳は見ることはできない。長い睫毛が、白い頬に影を落としていた。
顔立ちは人形のように綺麗で、目が奪われる。
右手を柄に添え、端然と立つその立ち姿は、幼子らしくなかった。
――――なんだ、こいつ。
風が止む。
その刹那、節目がちだった瞳が開かれ、紫色の瞳がきらりと煌めくのが見えた。
幼子はスラリと木刀を抜き放ち、それを手に師範に向かっていく。
その動きに、少年の師は口元に笑みを浮かべた。
カンッ!
木刀が合わさる。
激しい打ち合いが始まる。
幼子は、力はやはり弱いのだろう。
振るう刀の威力は大したことがないのは明らかだった。相手をしている師範も、子どもの遊びに付き合っているような体に見える。
けれど、もう8年ここに通い、師範にも師範代にも天賦の才の持ち主だと言われ続けてきた少年にはわかる。
――――ガキのチャンバラごっこじゃねぇ……
幼子の振るう刀の威力は弱くとも、その太刀筋は隙がなく、何より速い。
おそらく本人が、自分が力がないことを自覚しており、隙を作らぬこと、速さで力の弱さをカバーすることを考えて動いているのだろう。
少年は、眼を見張る。
あの幼子と今自分が勝負したら負けはしないだろうが、歳の近い兄弟子との打ち合いよりは苦戦を強いられるのは明らかだった。
だが……
驚いたのは束の間。
師範と幼子の打ち合いは、びっくりするぐらいあっという間に終わってしまった。
あれだけ見事な動きだったのに、幼子の持久力は今この道場にいる誰よりもなかったのだ。
――――驚いて損した。まじ弱っちいじゃん、こいつ。
師範に木刀を弾き飛ばされた幼子は、師にぺこりとお辞儀をして弾き飛ばされた木刀を拾いに行く。
もう体力もほぼないのだろう。足元も覚束ずふらふらしながら木刀の元へ歩み寄り、緩慢な動きで拾い上げる。
さっきの速さとのギャップに、少年は目を瞬かせた。
木刀を拾い上げた幼子は、道場の端に座る見知らぬ青年二人の元へ行き、ぺたんと座り込む。
見れば肩で、ぜぇぜぇと息をしているではないか。
――――こいつ……来る場所間違ってんじゃないのか?
仮にもここは聖国が誇る靭刃流の道場だ。来ているのは、将来聖国の軍を率いる武官候補生である。遊びや冷やかしで来ていい場所ではない。
少年自身も、父は聖国軍を預かる一将軍であり、将来は父と共に武で今上を、民を護るつもりでこの道場で研鑽の日々を送っているのだ。
少年はなおもゼェゼェいっている幼子を見る。
自分自身もこれぐらいの年からこの道場に通い始めているが、こんなにも体力のないひ弱な幼子ではなかったと記憶している。
「おー、子斉、きたな。相変わらずお前は早いな。でも今日の道場の掃除は終わったぞ」
師範代の一人がやってきて少年に声をかけた。
「靭宇先生、こんにちは。あのちっこいのはなんです?」
そう言って、少年――苞子斉は目で先ほどの幼子を指す。
幼子は、息を整え終えたのか例の青年2人の間に、お行儀よくちんまり座っている。
「ああ、お前の弟弟子になる奴だよ。仲良くしてやってくれ」
「ええ!?あの弱っちぃの入門するんですか?」
「弱っちぃって……失礼な奴だなぁ。見ただろ、太刀筋は良かったし、動きも速かったし、悪くなかったと思わないか?」
えー……と子斉は顔を顰める。
「そりゃ、悪くはなかったけど。あまりにスタミナなさすぎじゃありません?だって、まともに打ち合いできていなかったじゃないですか」
靭宇はふむ、と顎に手を添える。
「まぁ、確かに……だが、それはこれからだろう?」
「でも、俺があれぐらいの時分にはもっと長いこと動けましたよ。いくら小さいからって普通もう少し長いこと体力持つでしょう?あんなに体力ない奴、いつもなら門前払いじゃないですか」
「だが、師範は気に入ったようだぞ?」
靭宇の言葉に、子斉はますます不機嫌になる。
この靭刃流は星森大陸の剣術の二大流派であり、その中でもこの道場は最も由緒ある宗家である。
そのため、通える者は聖国でも限られた者だけだ。
つい最近も、この道場の門を叩いた者が数名いたがあっさり門前払いを喰らっていた。それなのに、なぜあの弱っちい幼子を受け入れると言うのか。
子斉は遠慮なく幼子をジロジロを見た。ちんまり座ったお人形のような幼子は、見るからに良家の子息だ。彼は鼻を鳴らした。
「どっかのいいとこのボンボンだからですか?」
「おいおい。随分ないいようだな?我が靭刃流はこれでも星森大陸の剣術の二大流派の一つだぞ?しかもここは本家だ。そんな理由で弟子を取らないことぐらいお前だってわかっているだろう?」
「でも、どう見たって弱っちぃし、いいとこの甘ったれっぽいじゃないですか。そのうち、泣き出すんじゃないですか?」
唇を尖らせながら子斉が言うと、靭宇は苦笑いをした。
「泣かすなよ?可愛い弟弟子なんだ。ちゃんと面倒見てやれ。それが兄弟子の務めだ」
靭宇にポンと肩を叩かれる。なおも不満を言おうとすると、奥にいる師範に彼は呼ばれた。




